サーカス(読み)さーかす(英語表記)circus 英語

精選版 日本国語大辞典 「サーカス」の意味・読み・例文・類語

サーカス

〘名〙 (circus) 動物と人間の曲芸を主にした、多くは旅回りの見世物。また、その一座。曲馬。曲馬団。曲芸団。
※葱(1920)〈芥川龍之介〉「芝浦にかかってゐる伊太利人のサアカスを見に行かう」

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デジタル大辞泉 「サーカス」の意味・読み・例文・類語

サーカス(circus)

円形広場。競技場。「ピカデリーサーカス
動物と人間の曲芸を中心とした見世物。また、その一座。曲馬団。曲芸団。
[類語]曲芸芸当軽業離れ業曲技アクロバット軽業師

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「サーカス」の意味・わかりやすい解説

サーカス
さーかす
circus 英語
cirque フランス語
Zirkus ドイツ語

高度な熟練による人間と動物の曲芸などで構成される見せ物。サーカスの語源はラテン語キルクスcircusで、「輪」を意味する。

 サーカスの起源を古代ローマの円形競技場キルクス・マクシムスCircus Maximusに置くことがあるが、ことばとしてのつながりはあっても、近代サーカスとは区別したほうがよい。このキルクスは古代ギリシアの競馬場に原型をもち、イタリア半島の先住民族エトルリア人がローマに伝えたとされ、ローマ帝国時代、ヨーロッパ各地に建設されて、競馬、戦車の競走、格闘技、狩猟競技などのスポーツをはじめ、見せ物も上演した楕円(だえん)形の野外大競技場(劇場)であった。今日の娯楽形態としてのサーカスはかならずしもその歴史的延長線上にあるわけではない。近代サーカスは、競馬ではなく曲馬を主要な演目として発展しつつ、そこに新しいショー形式が取り入れられ、興行として成長してきたものである。したがってここでは、有名なイギリスのアストリーの曲馬興行を起点として、近代サーカスの歴史をみることにする。

[田之倉稔・西田敬一]

サーカスの歴史

ヨーロッパ

イギリスのフィリップ・アストリーPhilip Astley(1742―1814)は陸軍の調馬下士官であったが、数頭の馬を購入して退役し、ロンドンのハーフペニー・ハッチという空き地で1768年に曲馬のショーを行った。これが人気をよんだため、彼はウェストミンスター橋の近くに仮設の曲馬場をつくったが、曲馬を演ずるスペースは円形に設計されてサーカス独特のリングの原型となった。1770年こうして近代サーカスは誕生した。この曲馬場にはやがて屋根がつき、さらに本格的な劇場建築の体裁を整え、アストリー・アンフィシアターAmphitheatreと名づけられた。そしてコミカルな曲馬をはじめさまざまな曲芸や軽業(かるわざ)が導入され、欧米のサーカスには不可欠の道化(クラウン)登場の下地もでき、民衆芸能を統合した近代的形態がつくられていった。イギリスでは、ついでアストリー一座の曲馬師チャールズ・ヒューズCharles Hughesが独立して一座を創立、1782年にロイヤル・サーカスと銘打ったが、ここで初めてサーカスということばが使われている。ヒューズ一座はやがてロシアにも進出、またその弟子のJ・B・リケッツはアメリカに、フランク・ブラウンは南アメリカにサーカスを紹介した。こうして世界各地に新しい形式のショーが広まる一方、アストリー一座からはアンドリュー・ダクローという曲馬曲芸師が現れ、1825年アンフィシアターを経営して一世を風靡(ふうび)した。また19世紀後半から活動を始めたサンガー一座は規模も大きく、名声もあがり、以後長い間イギリスのサーカス界に君臨した。

 フランスでの本格的なサーカス(シルクcirque)の公演は1776年のアストリー一座による巡業が最初であるが、1783年には同座によってパリにイギリス・スタイルのアンフィシアターが建設され、これにイタリアの曲馬師アントニオ・フランコーニAntonio Franconi(1738―1836)が加わって大躍進を遂げる。1807年、彼は2人の息子とともにパリにシルク・オランピークを開いた。1841年には建築家イトフ設計のシルク・デ・シャンゼリゼが開場、1852年にはイトフのもう一つのシルク・ナポレオンも建設された。また、19世紀後半にはイポドロームという巨大な野外劇場もつくられ、フランスにおけるサーカスは民衆の娯楽を代表するものとなった。

 ドイツに一大サーカス王国を築いたのは、まず1847年ごろにベルリンで頭角を現したE・J・レンツ一座であり、1848年にハンブルクで動物ショーを始めたハーゲンベック・サーカス、1893年にベルリンに登場したシューマン・サーカスは、ともにヨーロッパ随一の一座へと成長していった。

 このようにサーカスはイギリスからフランスを経て、たちまちヨーロッパ各国へと広がっていくが、イタリアも曲芸師や道化師を供給する国として見逃せない。当時でこそイタリアはキアリーニ、ザバーダ、ゾッペなど小規模の一座を擁するにすぎなかったが、20世紀になるとオルフェオとダーリックス・トニーの二大サーカスが市場を席捲(せっけん)するまでになる。スペインもサーカスに関しては後進国であるが、高等馬術の領域で歴史的な貢献をしている。

 ロシアではエカチェリーナ2世(在位1762~1796)の時代にイギリスのヒューズ一座が来演しているが、1845年にはイタリア人のアレッサンドロ・グエッラが一座を組んでペテルブルグで興行した。これにポール・キュザンの率いるパリ・サーカスが加わって、ロシアのサーカス団の創設を用意する。ニキチヌ三兄弟のサーカス団がその最初で、やがて彼らはロシアの各都市に常設の劇場をつくっていった。十月革命(1917)後、レーニンの政策によって、サラモンスキー、ニキチヌなどの国立サーカス団が発足、1927年には国立のサーカス学校も開設された。

[田之倉稔・西田敬一]

アメリカ

アメリカのサーカスの始祖はアストリー一座のJ・B・リケッツで、1793年にフィラデルフィアにサーカス場をつくったが、以来サーカス興行は盛んで、ヨーロッパをしのぐ速さで発展を遂げ、P・T・バーナムPhineas Taylor Barnum(1810―1891)が登場するに及んで頂点に達する。彼は巨大な動物や異形の人間を見せる見せ物の興行からスタートして、1871年にサーカス団を創設、さらにJ・A・ベイリーのサーカス団を合併し、1876年にはバーナム・アンド・ベイリーの「地上最大のショー」が生まれた。巡業用テントは巨大化して1万人を収容、三つのリングを備えるに至った。また1882年にはリングリング・サーカスが現れ、巨大な興行資本に支えられたアメリカのサーカスは19世紀末の大衆娯楽の世界を支配した。

[田之倉稔・西田敬一]

中国・朝鮮

中国の曲芸の歴史は古く、上古時代の蚩尤戯(しゆうぎ)から始まるといわれる。これが6世紀ごろまでに百戯(ひゃくぎ)とよばれるようになり、隋(ずい)代に散楽(さんがく)となって奈良時代の日本に伝来してくるが、その間に中国では西域(せいいき)から各種の百戯、散楽や幻術が伝わり、しだいに曲芸、見せ物としての形をなしていった。中国のサーカスの基底にはこれら歴史的な曲芸の伝統があって、人間の技芸の鍛練を中心としたものが多く、動物はほとんど使わなかったが、近年動物の調教にも力を入れている。現在の中国ではサーカスのことを雑技(ツァーチー)とよび、各都市ごとに団が結成され、その数は約30に上る。

 韓国のサーカスは新しく、伝統的な雑芸集団である男寺党(ナムサダン)などとの交流はない。その母体となったのは、おもに第二次世界大戦前に朝鮮や中国へ渡った日本のサーカスで、現在六つのサーカス団が活躍している。

[田之倉稔・西田敬一]

日本

日本における近代サーカスの始まりは、各種見せ物が人気を博していた江戸時代末期の1864年(元治1)横浜の居留地内で興行されたリズレー一座の「中天竺(ちゅうてんじく)舶来軽業」を契機にして、その後次々に来日した外国サーカス団による影響に求められよう。これによって、それまで軽業、足芸、曲馬など芸種別に独立していた一座がまとまり始め、明治初期には近代サーカスの素地が形づくられていった。来日したサーカス団のなかでとくに強い影響を与えたのは、1886年(明治19)と1889年に来日した「チャリネ大曲馬団」であった。チャリネとは、イタリア人キアリーニChiariniに由来するのであろうが、これが一時期の日本ではサーカス風見せ物の代名詞ともなり、明治20、30年代にはチャリネを名のる一座も生まれた。その代表的なものに、1899年に発足した山本精太郎の「日本のチャリネ一座」がある。

 こうして外国の影響下にサーカス的な興行形態が整えられていくなかで、従来の日本の伝統的な見せ物の一部は衰退し、あるものは形を変えながら近代サーカスへと引き継がれていく。衰退したものの代表に日本曲馬(馬芝居)があげられる。これは曲乗りよりも歌舞伎(かぶき)の趣向を加えた見せ物だっただけに、スピードやスリルが主軸であるサーカス興行にマッチしなかったためと考えられる。

 日本の近代サーカスに黄金時代を築く幕開きとなったのは、1933年(昭和8)万国婦人子供博覧会を記念して来日したドイツのハーゲンベック・サーカス団である。そのスケールの大きさに加え、特等4円という当時としては破格の入場料に人々は仰天し、サーカスに対する認識を大きく書き換えることとなった。サーカスの哀愁を代表する『美しき天然』とともに有名な『サーカスの唄(うた)』は、このハーゲンベック来日記念歓迎レコード『来る来るサーカス』のB面に収められた歌である。

 これを機にチャリネ、軽業団、曲馬団を名のっていた一座の多くがサーカス団と名前をかえ、その数30以上といわれた日本近代サーカスの黄金期を迎えるが、第二次世界大戦時に次々と解散に追い込まれた。しかし、サーカスは戦後いち早くテントもないままの青空の下での興行などによって復活し、ふたたび活況を呈した。現在の日本のサーカス団は木下、キグレ、矢野、カキヌマ、ホリデイン、国際の6団体で、いずれも常設小屋をもたず、テント興行を続けている。

[田之倉稔・西田敬一]

現代のサーカス

ドイツのハーゲンベックや、バーナム・アンド・ベイリーを吸収したアメリカのリングリングなどの巨大なサーカス団も、20世紀に入ってミュージック・ホールのショーや視覚的な演劇が発達するにつれて、民衆娯楽の中心的地位を失っていく。しかしその一方で、サーカスは文学者、画家、演劇人の関心を集め、しばしば作品化されるようになった。とくにフランスのフェルディナンド・サーカスやメドラー・サーカスは、多くの文学者や画家に愛好された。

 しかしサーカスの衰微は続き、第二次世界大戦中には多くのサーカス団が姿を消し、戦後は映画やテレビなど娯楽の多様化によってサーカスはいよいよ衰退し、往時の活況を取り戻すことはできなかった。このサーカスを再評価し、新たな民衆の娯楽として復活させようとする試みが、1960年代から始まり、現在ではサーカス団に財政的援助を与える国も多くなってきている。とくに、かつてのソ連をはじめとする社会主義諸国では、サーカスは国家によって育成保護され、西側諸国をしのぐ技術と組織を誇った。一方、西側諸国では、サーカス団が国際的編成になってきているのが特色の一つで、1980年(昭和55)に来日したモンテ・カルロ国際サーカスフェスティバルのように、興行師が世界各国から人材を集めて大規模の公演を行ったのもその一例である。

 日本の現代サーカスも、娯楽の多様化、興行地の確保の困難、一興行に相当の経費がかかることなど、世界各国と同じ困難に直面している。とくに1948年(昭和23)に制定された児童福祉法、労働基準法などによって、年少者の曲芸が禁止され、その制限が今日まで続いているために、芸の継承、後継者の育成に大きな問題を残している。なお1979年に「サーカス館実現準備委員会」(1984年に「サーカス文化の会」と改称)が設立され、季刊サーカス新聞『曲馬と曲芸』を発行していたが、会は2004年(平成16)に解散している。

[田之倉稔・西田敬一]

サーカスの演目

道具などを使っての人間の技芸を中心にしたものと、動物の芸、それに道化の芸に大きく分けられよう。

 なんといってもサーカスの花形は空中ブランコで、日本では「撞木(しゅもく)もの」とよばれる。大一丁(おおいっちょう)ブランコ、小一丁(こいっちょう)ブランコ、二丁ブランコなどブランコ上での芸もあるが、もっとも人気があるのは「空中飛行」で、中台とよばれる受け手を中心に、飛び手が回転・ひねりなどを加えた飛行をみせる。

 ついで、「綱渡り」や「針金渡り」など、「カジもの」とよばれるバランスをとる芸がある。「衣桁(いこう)渡り(青竹渡り)」もその一つで、両端を吊(つ)った竹を前後に揺すって渡りながらさまざまな手事(てごと)をする。勾配(こうばい)をつけた綱での「坂綱」や十字に張った綱での「四つ綱」などもあったが、現在の日本のサーカスではみられない。「足芸」には、重いものを支える「ふんばりもの」、梯子(はしご)などを使ってバランスをとる「突っ張りもの」、襖(ふすま)や樽(たる)、傘のような軽いものを手以上に器用に操る「小足もの」などがある。上乗りとよばれる芸人を、2人の足芸の芸人が毬(まり)のように蹴(け)り、受け止める「人曲(にんぎょく)」という芸は、残酷ということで現在の日本のサーカスからは消えているが、来日するボリショイ・サーカスはよくこの芸をもってくる。「肩芸」は、肩で竹や梯子を支え、その上で上乗り芸人がさまざまな芸を演じるもので、「一本竹」「はね出し」「旗わく」「くだけ梯子」などがある。

 これらの人間の演ずる芸に、曲馬をはじめ、ライオン、トラ、ゾウ、クマ、チンパンジー、イヌなどの動物芸が加わり、道化のクラウンが活躍して、サーカスの天幕の世界はできあがる。日本では道化はすべてピエロとよばれているが、本来、サーカスの道化はクラウンとよばれるべきである。

 現在の日本のサーカスでは、このほかに、オートバイに乗って鉄製の球の中を回るアイアンホール、針金上での空中自転車、一輪車、七丁椅子(いす)、回転梯子(はしご)、吊りロープなどがある。日本独自の芸のトップは足芸、肩芸と思われるが、中国ではアクロバット、ロシアではさまざまな機械類を用いるもの、アメリカ、メキシコでは空中ブランコ、動物の調教はロシア、ドイツなどと、それぞれ国によって特徴がある。

[田之倉稔・西田敬一]

『尾崎宏次著『日本のサーカス』(1958・三芽書房)』『阿久根巌著『サーカスの歴史』(1977・西田書店)』『上海雑技団編『中国雑技芸術』(1980・上海文芸出版)』『『別冊新評 サーカスの世界』(1981・新評社)』『南博他編『芸双書2 さすらう――サーカスの世界』(1981・白水社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「サーカス」の意味・わかりやすい解説

サーカス
circus

動物の芸,人間の曲芸で構成される見世物。語源はラテン語で円周,回転などを意味し,古代ローマの見世物,競馬,人間と猛獣の格闘や闘技などが行われた円形の競技場(キルクス)をもさす。綱渡りなどの曲芸や,動物の見世物の起源は古代エジプトにさかのぼるが,群集がまるく取り巻いて見下ろす見世物場の原型はローマにはじまる。この円形劇場の型が,現在でも各国のサーカス常設小屋に残され,移動テントもそれに準じている。そして1770年イギリスの退役軍人アストリーPhilip Astleyが〈アストリー・ローヤル演芸劇場〉で,曲馬だけでなくこれにアクロバット,綱渡りの演目を加えたのが,近代サーカスの形態の誕生とされる。

サーカス熱はヨーロッパ各地からロシアに広がり,19世紀前半はイギリス,後半はフランス,20世紀初頭にはドイツが盛んで,ドイツではハンブルクに動物園をもつハーゲンベックCarl Hagenbeckが動物調教のサーカスで有名である。またアメリカでは,初期サーカスの馬車(ワゴン)での移動から鉄道,さらに自動車で移動するように変わってきたが,専用列車をつらねたレールロード・サーカスの時代に,リングリング・バーナム・ショーが最大のサーカスに成長した。現在アメリカでは,34のサーカス団が屋内ホール,ショッピング・センターなどで公演し,そのうち24のサーカス団がテントの巡回興行をしている。またソ連時代のロシアでは,62の常設サーカス用の建物と,16のテントサーカスがあり,4000人の演技者,年間5000万人の観客があるといわれる。パリ,ミュンヘンアムステルダムコペンハーゲンなどヨーロッパの多くの都市では,伝統を誇る常設のサーカス劇場があるが,テント公演のものを含めると,イギリスで20以上,フランスで40以上のサーカス団があり,イタリアの小さなファミリー・サーカスまでを加えると西欧圏のサーカス団の数は180に及ぶ。さらにメキシコとアルゼンチンにそれぞれ40以上あり,ほかにオーストラリア,南アフリカ,インド,韓国などにもある。また中国では中国雑技団などが有名である。さらにロシア,フランス,ドイツ,アメリカなどの国では,サーカスの技術向上,後継者育成のためにサーカス学校が開かれている。アメリカではサーカス学校のほかに,サーカスの博物館,図書館,サーカス・ファンの連合組織があり,イリノイ州立大学ではサーカスの技術講座も設けられている。

サーカス研究家のブーイサックPaul Bouissacによれば,サーカスの基本は,アクロバット,道化(クラウン)芸,調教動物芸で構成され,さらに音楽や照明効果をともない,〈サーカス芸というものは,ハプニングの自由な連続体などではなく,綿密に計画された型どおりの所作(アクション)を一つのパターンにそって上演するものである〉という。また研究家のヒッピスリー・コックスはサーカスの演出を分類して,まず序曲についで大パレード,馬上曲芸,力男,動物芸,馬術,冒険技,休憩,檻(おり)入りの猛獣,空中ぶらんこ,馬のダンス,奇術,アクロバット,クラウンの入場,フィナーレとしている。このように,驚き,スリルから笑いまでを含んだ多様な芸が次々と展開されるスピード感が,サーカスの魅力といえよう。なお,直径13mのリング(馬場)は,サーカスの構造,規模に関係なく一定であり,移動テントはビッグトップと呼ばれる。

 現代のサーカスの一般的な演目は,曲馬芸,動物曲芸,人間の空中曲芸,地上曲芸,道化,軽舞踊などから成りたっている。動物曲芸は種類も多いが,鉄柵でかこんだリングを,4頭のライオンが調教師を乗せた2輪車で疾走するという馴致的調教に成功したのは1889年,ハーゲンベックであった。弟子のコートAlfred Courtは,ライオン,トラ,ピューマ,ジャガー,ハイエナ,ヒグマなど18種の動物をいっしょにして演じ,その芸を〈ジャングルの平和〉と呼んだ。今では21頭のライオンや,20頭のトラのグループを扱う出し物も登場しているが,これら猛獣の調教にはドイツ人が多い。またほとんどのサーカスの象はインドゾウであるが,アフリカゾウも調教可能であることを示した調教師もいる。熊の演芸ではロシアが有名である。曲馬芸はサーカスの芸として最も基本的かつ古典的なものである。芸もさまざまに変化してきたが,明け方の照明のもと灰色の馬がドライアイスのもやのリングを,無秩序に歩きまわっている,調教師が登場し一声発するや,さっと隊列を組み演技が展開するというドラマティックな演出や,3頭の疾走するそれぞれの馬上に,2人の乗り手が同時に宙返りをしながら,順々に馬を乗りかえていくといった離れ技が,ヨーロッパで演じられるようになっている。地上曲芸の新しい演目は,ボードと呼ばれるシーソーを使って,跳ね上げられた人間が4~5人の高さの人柱のてっぺんに回転宙返りをして立つものがあり,ブルガリアの一座では3回宙返りを行う。象がボードを踏んで,跳び上がった人間がもう一頭の象の頭上に立っている人間の肩に着地するのもある。ソ連時代のロシアでつくられた芸で,2人の男の持つバーに少女が立ち,バーを勢いよく持ち上げ,少女が宙返りをして再びバーの上に着地するものがあり,2回転宙返りも実現した。空中曲芸ではぶらんこが代表的であるが,リングリング・バーナムのベールElvin Baleは,揺れるぶらんこで前方に倒れこみ,かかとで逆さになった身体を支える芸や,ぐるぐる回る巨大な旋回輪を使って演技することで有名である。またこれまで空中ぶらんこ(空中飛行)は,受け手への3回転宙返りが最高の芸であったが,スミスRoek Smith Flyers一座が3回転半宙返りをも完成した。空中ぶらんこ乗りのための主要な訓練地には,メキシコと南アフリカがある。

 サーカスにおける道化芸の起源は,アストリーによって創造された農夫clodの姿をしたコミカルな曲馬師だったといわれている。そして道化芸の基本をつくったのは,19世紀初めにイギリスで人気のあったパントマイム役者グリマルディJoseph Grimaldiである。次いでパリのシルク・オランピークにオリオールJean Baptiste Auriolが軽業や手品や曲馬の芸をしながら,観客の爆笑を誘う演技で,1830年代に人気を博した。彼らによって確立した道化芸は,笑いにより観客の緊張をとくと同時に,演目と演目のつなぎの役割を果たしている。20世紀の道化では,3人のかけあいによるフランスのフラッテリーニ兄弟,スイス人でヨーロッパで活躍したグロック,伝統的な衣装や化粧をせずに演じたロシアのO.K.ポポフなどが有名。ピエロとは,15,16世紀にイタリアで盛んだったコメディア・デラルテという即興喜劇のなかのふられ役,失敗ばかりする役に起源を発している。17世紀後半にまっ白に塗った顔,丸ひざのついただぶだぶの白い上着というピエロ特有の姿が考案され,以後,道化役としてなくてはならない存在となった。

日本に初めて来た外国のサーカスは,1864年(元治1)横浜で興行した通称〈中天竺舶来軽業〉(アメリカ・リズリー・サーカス)一座であった。続いて71年(明治4)フランスのスリエ,86年イタリアのチャリネ曲馬師のサーカスが渡来し,西洋曲馬,西洋軽業や,象とトラの演芸,空中ぶらんこなどを演じた。それまでの日本の軽業足芸曲馬などの見世物は,それぞれが芸種別の一座を組み個々の興行形態であったのに比べ,外国のサーカスは規模も大きく,芸種も豊富であったので大評判を呼んだ。とりわけ在来の日本曲馬は,曲乗りも演じていたものの,歌舞伎芝居を馬上で演じるおうような曲馬芝居(馬芝居)が主演目であったので,そのスピード,スリルのある軽業的曲乗りに圧倒された。86年9月東京秋葉原のチャリネ公演は5代目尾上菊五郎に刺激をあたえ,11月の千歳(ちとせ)座で彼はみずからチャリネ曲馬師,猛獣使いに扮し,《鳴響茶利音曲馬(なりひびくちやりねのきよくば)》と銘打って上演したほどである。やがて洋風曲馬を習得した外国帰りの曲馬師や,軽業,足芸の芸人たちが合流して多くの曲馬団が創立され,サーカスの形態が整いはじめた。

 最初に曲馬団を組織し全国巡業を実現した益井商会と並ぶ,興行師山本政七は,99年にチャリネ仕込みの曲馬師山本精太郎一行,イギリス帰りの軽業師富士川広三郎と日本チャリネ一座を創立した。一座は演馬15頭,象2頭,座員70名の曲馬団で,その演目は馬上火炎抜け,馬1頭大勢乗り・2頭4人乗り・3頭5人乗り,身体組上げ大運動,大1丁ぶらんこ2人曲芸,針金渡り,椅子(いす)の曲芸,4本バー運動(空中器械体操),西洋道化6人曲芸,大象2頭の曲芸,熊の曲芸,などで形成されていた。さらに外国の芸を積極的に取り入れ,〈米国バーナム式大軽業〉〈英国式大曲馬〉〈ロシア・バロスキー氏空中飛行〉などの呼称で演目を広げ,自転車曲乗り,サイカホール(サイクルホールcycle hallのなまり)の曲芸も加わり,明治末には今日につながる日本のサーカス芸の演目基本が出そろった。大正末期から昭和にかけて,曲馬団,曲芸団(曲馬の芸のないもの)は全盛期で三十数団体にものぼった。そして,有田(1906),木下(1908),シバタ(1922)などの大サーカスも創立された。また1933年にドイツのハーゲンベック・サーカスが来日し人気を得たことから,曲馬・曲芸団はすべて〈サーカス〉を名のるようになった。サーカスの曲として知られる《天然の美》は海軍軍楽長の田中穂積の作曲であるが,これも大正期に流行,定着していった。

 一方,動物の芸の流れをみると,日本に猛獣が渡来した記録では,ヒョウが1830年(天保1)名古屋清寿院境内の興行で庶民を驚かしたとあり,トラは61年(文久1)オランダ船が横浜にもたらしたのが最初で,ライオンは66年(慶応2)江戸芝白金で見世物になったという。象の初渡来は1408年(応永15)足利義持が将軍のときであった。単なる見世物ではなく曲芸を演じた興行では,1889年東京浅草公園の山本一座が古い。演目は小人(こびと)3人の相撲・手踊,象の乱杭渡り・三宝乗り・碁盤乗り・礼式・らっぱ吹分け・あおむけの休息などであった。また明治初期から洋犬芝居がはやりだし,当時これをカメ芝居といった。外国人が飼犬を呼ぶのに〈カム・ヒアcome here〉といったのを,〈カメや〉と聞いて,洋犬=カメと誤解したことによるものらしい。珍しい動物が輸入されはじめて,明治末には全国を巡回する移動動物園ができ,サーカス団でも曲芸を演ずる動物ばかりではなく,付属の動物園をもって巡業するものもあった。1920年代の大きな移動動物園では,白猿,オランウータン,ラクダ,ダチョウ,ライオン,シロクマ,トラ,ワニ,ハイエナ,ヒョウ,ヒクイドリ,インドゾウなどをそろえて教育参考動物大会と銘打っていた。これらの移動動物園やサーカスも,太平洋戦争の末期には禁止となり,猛獣殺害の命令が出され動物は殺害された。戦後になり,サーカスは復興し,1956年には日本仮設興行協同組合が結成され,サーカス(20余団体)から小見世物まで約90団体が加盟した。しかし娯楽の多様化,テレビの普及などによりサーカスは経営難に陥り,84年現在で木下,キグレ,矢野,ホリディイン(旧,関根サーカス),柿沼,サーカス東京の6団体が興行を続けている。

 日本のサーカスは常設の劇場を持っていないため,すべてがテントによる興行である。以前はテント小屋の木戸のところで,ちらっと幕をあげ場内を見せる〈あおり幕〉という興行手法がとられていたが,今ではそれもなくなり,大きなものでは1900m2(2500人収容)もの鉄パイプ構造のテント(通称,丸テント)がつくられている。丸テントの裏に団員の宿舎,楽屋などの小テントがおかれている。

現在のサーカス芸には,撞木(しゆもく)もの,渡りもの(綱渡り),足芸,肩芸,梯子(はしご)芸,椅子芸,アクロバット,トランポリン,自転車曲乗り,玉乗り,オートバイの曲乗り(オートバイ・アイアンホール),動物芸,道化芸などがあり,約2時間の公演で20種目前後が行われ,芸種は豊富である。撞木ものというのは空中ぶらんこの総称で,1人乗りのぶらんこでいろいろな芸を見せる1丁ぶらんこ,2丁のぶらんこを使って2,3人で芸を見せる2丁ぶらんこ,揺れを大きくした特殊なぶらんこを使う大1丁,つり輪を使う輪撞木,空中飛行,パイプレットなどがある。ぶらんこの上に,靴を履いたまま直立し,勢いをつけて回転するパイプレットの芸だけは唯一のしかけものである。渡りものは綱渡りの総称で,綱と針金(略してガネ)とがあり,足駄を履いて渡るものや布ざらしの所作をするものなどがある。とくに両端をつった太い竹の前後を揺すって渡りながら手事をする〈青竹渡り〉は,1783年(天明3)麒麟繁蔵が江戸で初演した日本独特の演目である。梯子芸のなかで外国曲芸師の名前をつけた演目〈ピーター〉の芸は,何の支えもないはしごを立て,揺すりながら登り,上で逆立ちをしたりするもので,1902年来日のドイツ人ピーター・グリーンから継がれてきたものである。日本のサーカス芸は外来芸を吸収したものが多いが,足芸,肩芸,渡りものの一部には,江戸期の伝統芸が継承されている。足芸は,台の上にあおむけに寝て,両足でものをあやつる曲芸で,樽など重いものをあやつる〈ふんばりもの〉,はしごなどを差し上げる〈突っぱりもの〉,ふすまや傘など軽いものをあやつる〈小足(こあし)もの〉などがある。肩芸(差しもの)には,1本の竹ざお(ポールもある)を肩に立てて,その上で人(上乗り)が演技するものや,竹の先端に直角に取りつけたはしごに上乗りがぶら下がる〈はね出し〉など種類が多い。

 このように独特の芸をもつ日本のサーカスだが,前述したように団数は少なくなっている。ところが,近年は東京の後楽園など,興行が恒例化している例もある。また,演劇,美術に与えたサーカスの影響や祭りに似たサーカスの興奮の分析など,文化・社会的な側面,さらには記号論的見地からサーカスをとらえ直す研究も始まっている。
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百科事典マイペディア 「サーカス」の意味・わかりやすい解説

サーカス

語源のラテン語のcircusは円周の意で,古代ローマの円形の競技場をさした。移動テントや円形劇場で曲芸奇術軽業(かるわざ)などを演じ,動物芸や道化芝居も行う見世物。近代サーカスは,1770年ロンドンで曲馬アクロバット等を加え興行をしたアストリーに始まる。のちドイツのハーゲンベック,米国のバーナムP.T.Barnum〔1810-1891〕等のサーカス団が国際的に著名になった。その後空中ぶらんこ,オートバイ曲乗りなど大掛りな演目も多くなり,各国で盛んになった。日本では軽業,足芸,曲馬など個々の見世物が存在したが,1886年イタリア人チャリネが東京秋葉原で興行して評判になって以後,西欧風のサーカスが行われるようになり,有田,木下,シバタなどの大サーカスも組織された。なお大正期まで曲馬団といわれ,昭和になってからサーカスの呼称が定着した。
→関連項目クラウンピエロ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サーカス」の意味・わかりやすい解説

サーカス
circus

人間や動物による曲芸,軽業を主体とする興行。サーカスの語源は,ラテン語の「円,輪」に由来し,古代ローマの円形競技場で催された競馬や闘技がその起源であるといわれている。近代のサーカスは,1768年ロンドンの円形劇場で,P.アストリーが走る馬の上に立って曲技を行なったのをはじめ,道化師や動物の芸,パントマイムなどを加えて確立された。その後演目も多様化し,空中ぶらんこ,綱渡り,オートバイなどの曲乗りなどが含まれ,大衆的な娯楽スペクタクルとして人気を得た。多くはテントや仮設小屋で巡業しながら演じられる。アメリカでは P.バーナムによる「地上最大のショー」が列車を 100台以上連ねて鉄道で移動した全米巡業が有名。その流れをくむリング・リング・サーカスやモスクワのボリショイ・サーカスなどが現代の代表的なサーカス団として知られる。

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デジタル大辞泉プラス 「サーカス」の解説

サーカス

1928年公開のアメリカ映画。原題《The Circus》。監督・主演:チャールズ・チャップリン、共演:マーナ・ケネディ、ハリー・クロッカーほか。

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世界大百科事典(旧版)内のサーカスの言及

【曲芸】より

…19世紀になると曲芸師はミュージック・ホールやパントマイムに出演して人気を得,そこでアクロバティック・ダンスを見せ,喜劇のなかでなぐられたり,投げられたりする役を演じた。しかし曲芸の主要舞台はなんといっても19世紀初めころから出現したサーカスであった。サーカスにおいては曲馬,すなわち〈馬の曲乗りvoltige〉と〈馬の芸当liberty horse〉,軽業,手品,道化,ライオン・イヌ・サル・クマ・ゾウなどの〈動物の曲芸〉など各種の曲芸的要素が総合されている。…

【綱渡り】より

…1864年(元治1),西洋の綱渡りが日本に入り横浜で興行された。現在は民俗芸能やサーカスの中で行われている。【織田 紘二】。…

【ローマ】より

…しかし,このような贅沢三昧の飽食は一部の権勢家,成金,美食家に限られたもので,同時代人からも厳しい批判を浴びていた点を忘れてはならないであろう。【後藤 篤子】
【〈パンとサーカス〉】
 帝政期のローマ社会について,風刺詩人ユウェナリスは揶揄(やゆ)する。〈市民は政治的関心を捨ててしまって久しい。…

※「サーカス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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