世界大百科事典(旧版)内のザポロージエ・コサックの言及
【ウクライナ】より
…彼らはザポロージエ(〈早瀬porogiの向こう〉の意)のコサックと呼ばれた。17世紀初めに登場したザポロージエ・コサックの指導者P.K.サハイダーチヌイ(?‐1622)はキエフの再建に着手し,教会を再建し,正教(キリスト教)を保護した。1634年にはモヒラ・アカデミー(ペトロ・S.モヒラによる正教研究中心の学問施設)が設立され,キエフは再び東ヨーロッパの一大文化センターとなった。…
【ザポロージエ】より
…1550年ころビシネベツキーに率いられたコサックがドニエプル川の中州であるホルティツァに彼らの本営を建設したのが起源で,彼らはザポロージエのコサックと呼ばれた。ザポロージエ・コサックは〈チャイカ(カモメ)〉と呼ばれるカヌーでドニエプル川を下り,黒海沿岸のクリム・ハーン国,オスマン・トルコの港町を襲撃した。ザポロージエ・コサックは16~18世紀のポーランド・リトアニア,ウクライナ,モスクワの歴史の中で重要な役割を果たしたが,1775年にはロシア皇帝エカチェリナ2世によって軍事的に征服され,本営は破壊された。…
※「ザポロージエ・コサック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」