シェフチェンコ(Taras Grigor'evich Shevchenko)(読み)しぇふちぇんこ(英語表記)Тарас Григорьевич Шевченко/Taras Grigor'evich Shevchenko

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

シェフチェンコ(Taras Grigor'evich Shevchenko)
しぇふちぇんこ
Тарас Григорьевич Шевченко/Taras Grigor'evich Shevchenko
(1814―1861)

ロシア、ウクライナ詩人。3月9日キエフ(現、キーウ)に生まれる。ロシア語によるもの二、三を除き、すべてウクライナ語で詩作し、ウクライナに国民文学を確立した。農奴出身。彼の主人に画才を見込まれ、1831年サンクト・ペテルブルグに上京、絵師のもとに預けられる。詩人ジュコフスキーの知遇を受け、彼と画家ブリュローフの尽力によって、1838年自由の身となる。美術学校に入学、ブリュローフに師事する。入学前に詩作を開始。1840年第一詩集コブザーリ』を出版、ウクライナの民衆から熱烈な歓迎を受ける。コブザーリとは、ウクライナの民族楽器コブザを弾奏して歌い歩く旅芸人のことで、民衆詩人としての彼の進路を決定づけた表題である。詩集は長短8編の詩を収め、清新の気と、彼の生涯を貫く郷土や民衆への強い愛とに満ちている。1841年、ポーランド人領主に反乱するウクライナ農民を歌った歴史叙事詩『ガイダマキ』を発表。1844年、皇帝夫妻を痛烈に笑い飛ばした叙事詩『夢』、1845年に『異端者』『カフカス』『遺言』などが書かれた。これらは農奴制的専制政治を断罪する革命詩人としての彼の本領を十分に発揮した作品である。

 1847年、前年来参加していた秘密政治結社キリロス・メソジオス会の組織が発覚、彼も逮捕される。農奴制を廃止して、スラブ人の民主的連邦国家創設を目的とするその組織のなかで、彼は革命的手段の行使を主張する最左翼に位置していた。一兵卒として中央アジアで10年の流刑生活を送り、1857年本国に帰還翌年から1861年の死までサンクト・ペテルブルグで、ロシアの進歩陣営の人たちとの接触を強めつつ、最後の詩作活動を行った。彼の詩は流刑中の作品100編余を含めて、総数200編を超えるが、その基調は柔軟な感受性と現実批判の精神である。ほかにロシア語の小説9編と戯曲2編とがある。1857年6月12日の日付で始まる『日記』は、資料的価値のほかに文学作品の性格をも備えている。画家としての存在も大きい。1861年3月10日サンクト・ペテルブルグで没。

[小松勝助]

『渋谷定輔編『シェフチェンコ詩集 わたしが死んだら』(1964・国文社)』『小松勝助訳『コブザーリ』(『世界名詩集大成12』所収・1959・平凡社)』


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