シェリー(Percy Bysshe Shelley)(読み)しぇりー(英語表記)Percy Bysshe Shelley

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

シェリー(Percy Bysshe Shelley)
しぇりー
Percy Bysshe Shelley
(1792―1822)

イギリスの詩人バイロンキーツと並んで19世紀初頭のロマン主義文学を代表する存在。8月4日、サセックス州に生まれる。生来、怪異なものにあこがれる気質が強く、当時流行のゴシック小説に想像力をはぐくまれた。加えてイートン校在学中には自然科学に、オックスフォード大学に入ってからはプラトンなどの形而上(けいじじょう)学に生涯の思想の源を培われた。一方、准男爵で国会議員の父に対する反発心から、既成権威道徳を憎む気持ちが烈(はげ)しく、1811年には『無神論の必然性』と題する小冊子を出版したために、大学を1年にして放校されるはめとなった。この夢想反抗の性癖は、ゴドウィンの『政治的正義』を読むようになってからしだいに対社会的な理想主義に熟していった。放校後まもなく少女ハリエットと駆け落ち結婚したことは、その後2人で旧教徒解放運動などに手を染めたこととともに、こうした義侠(ぎきょう)的理想主義の一つの現れであった。

 1813年、社会改良の夢を歌った最初の長詩『マブ女王』が出るころから、ハリエットへの気持ちはしだいに冷め、かわってゴドウィン家の長女メアリーが、詩人にとって新たな「理想美」となった。1814年シェリーはメアリーとヨーロッパ大陸に走り、帰国後も同棲(どうせい)を続ける間、理想美探究をテーマとした初期の代表作『アラストー』を書いた。1816年にも大陸に渡り、スイスでバイロンと交遊した。この冬、傷心のハリエットが自殺し、メアリーが正式の妻となった。1818年シェリー夫妻は三たび大陸に渡り、イタリア各地を転々とする間に詩劇『プロメテウス解縛』(1820)などの傑作が次々に生まれた。アルノ川畔に迫りくる嵐(あらし)の気配を感じて書き上げた即興詩『西風の賦(ふ)』や、絶妙な音楽と空虚なイメージによって詩的霊感をとらえた『雲雀(ひばり)』などは、日本でも昔から親しまれている叙情詩の珠玉である。1820年からピサに住み、翌年にはキーツの夭折(ようせつ)を悼んだ瞑想(めいそう)詩『アドネイス』と、ロマン派詩観の最高の宣言ともいうべき散文『詩の擁護』を世に問うた。そして1822年7月8日、ダンテの『神曲』に倣った大叙事詩『生の凱歌(がいか)』を執筆中の詩人は、ヨットでイタリア北部のスペツィア湾を帆走中暴風にあい、29歳の生涯を閉じた。その一貫した理想美探究の姿勢は、天賦の叙情的詩才とともに、ロマン主義の精髄として高く評価されている。

[上島建吉]

『上田和夫訳『シェリー詩集』(新潮文庫)』『高橋規矩著『シェリー研究』(1981・桐原書店)』

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