シリア戦争(読み)しりあせんそう

世界大百科事典(旧版)内のシリア戦争の言及

【アンティオコス[1世]】より

…前275年ころには小アジアに侵入したガリア人に勝って,ソテルSōtēr(救主)と称された。しかしエジプトのプトレマイオス2世と争って小アジア西・南岸の領土を失い(前274‐前271年の第1次シリア戦争など),ペルガモンのエウメネス1世にも敗れて(前262ころ)その独立を認めざるをえなかった。東方に多数の都市や軍事植民地を建設し,ギリシア・マケドニア人勢力の扶植につとめたことでも知られる。…

【アンティオコス[2世]】より

…アンティオコス1世と妃ストラトニケの次子。マケドニアのアンティゴノス2世と結んでエジプトのプトレマイオス2世と戦い(第2次シリア戦争,前260‐前253),父王が失った小アジアの沿岸地方と南シリア(コイレ・シリア)の一部を回復した。前253年妃ラオディケを離別して,翌年プトレマイオス2世の娘ベレニケBerenikēと政略結婚し,しかもみずからの死にさきだち先妃の子セレウコス2世を後継者に指名したため,死後に王位継承をめぐる紛糾を生じ,ベレニケとその子を支援するプトレマイオス3世の侵入(第3次シリア戦争,前246‐前241)をまねくことになった。…

【シリア】より

…アレクサンドロスの死(前323)以後は大王の後継者(ディアドコイ)たちによってシリアの地の領有が争われたが,最終的にはセレウコス1世によって前305年に建てられたセレウコス朝(シリア王国)が北シリアを支配した。しかし南シリアはプトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアの角逐の場となり,前3世紀前半から前2世紀前半までその領有をめぐって6次にわたる戦争が行われた(シリア戦争)。この間,前300年にはセレウコス1世により,後にシリア王国の首都となったアンティオキアが建設されるなど,シリアの都市化が進んだ(ほかに,セレウキア・ピエリア,ラオディケア,アパメアなど)。…

【シリア王国】より


[歴史]
 セレウコス1世はアレクサンドロス大王の死後バビロニアの総督となり,前312年地歩を確立(セレウコス朝暦第1年),大王の後継者たち(ディアドコイ)の争いの渦中で勢力を拡大し,西は小アジアから東はインド国境におよぶ広大な領土を獲得した。しかし,その後はたび重なる戦争(とくにプトレマイオス朝とのシリア戦争),王家内部の紛争,王国内各地の離反独立(ペルガモン,パルティア,バクトリアなど)によって弱体化し,アンティオコス3世(在位,前223‐前187)のとき,内政改革と再征服遠征によって一時的に衰勢をたてなおし大版図を回復したが,東地中海に力を伸ばしたローマに敗れて頓挫し,アンティオコス4世(在位,前175‐前164か163)の膨張政策と国内改革も,ローマの介入やユダヤの反乱などによって挫折を余儀なくされた。前160年にはパルティアの勢力拡大に屈してイラン西部を併合され,前129年にはメソポタミアとユダヤを最後的に失って,王国は北シリアと東キリキアのみに縮小,その後は一段と混迷を深め,前64年ポンペイウスによってローマに併合され滅亡した。…

【ラオディケ】より

…アンティオコス2世はエジプトのプトレマイオス2世の娘ベレニケと政略結婚したが,死の直前ラオディケの子セレウコス2世を後継として指名した。王の没後ベレニケを支援しようとするプトレマイオス3世は第3次シリア戦争(前246‐前241。古来ラオディケ戦争と呼ばれる)をおこしたが,ラオディケはベレニケとその子を殺害させ,戦争の難局をも乗りきった。…

※「シリア戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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