世界大百科事典(旧版)内のスキピオ・アシアティクスの言及
【スキピオ[大]】より
…前201年カルタゴとの平和条約を締結させた後,凱旋式を挙行し,〈アフリカヌス〉の尊称を得た。その後は,前199年ケンソル,元老院首席となってローマ政界の主導権をにぎり,弟スキピオ・アシアティクスLucius Cornelius Scipio Asiaticusの政治的・軍事的助言者として,シリアのアンティオコス3世に対する遠征にも従軍した。しかし,その親ヘレニズム的な政策と独裁的な傾向に対する元老院保守派の反感も高まり,彼および弟に対する裁判にもちこまれ,弟の処刑後,前184年隠退し,翌年失意の中に世を去った。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」