セビニェ夫人(読み)セビニェふじん(英語表記)Marie de Rabutin-Chantal, marquise de Sévigné

改訂新版 世界大百科事典 「セビニェ夫人」の意味・わかりやすい解説

セビニェ夫人 (セビニェふじん)
Marie de Rabutin-Chantal, marquise de Sévigné
生没年:1626-96

フランス書簡文作家。6歳で父母を失い,祖父母に育てられた。若い時から親類にあたるラファイエット夫人らとともにパリ社交界の中心にあり,教養も高かった。18歳でセビニェ侯と結婚したが,26歳で未亡人となり,以後2人の愛児養育専念。娘がグリニャン伯と結婚(1669)して南仏へ去って以来,娘にあてて母親としての切々とした愛情をこめた手紙を書き送った。これらの手紙を中心に,息子シャルル,従兄の文人ビュシ・ラビュタンらにあてた書簡が集められ,死後発刊された(1726)。これらの書簡はルイ14世盛時のフランス上流社会のいろいろな逸話宝庫であるばかりか,当時の貴族社会の世論,考え方などを生き生きと伝えており,資料として貴重である。同時に相手に対する心遣いの優しさ,特に娘にあてた母親としてのこまやかな愛情は今も胸を打つものがあり,この書簡を人間的に豊かなものとしている。当時の書簡は受信者のみにあてたものでなく,サロンに集まる人々に読まれるものであった。

 セビニェ夫人の書簡はパリの貴族社会の様子歯切れのいい文体で伝えるが,その文の運びの心地よさはこの書簡文を文学的に第一級のものとしており,社交界で愛読された。その名声現代まで続いている。
書簡体小説
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「セビニェ夫人」の意味・わかりやすい解説

セビニェ夫人
せびにぇふじん
Marie de Rabutin-Chantal, marquise de Sévigné
(1626―1696)

フランスの書簡文で有名な古典作家。幼時に父母を失ったが伯父たちのもとで明るく養育され、パリの社交界では才媛(さいえん)ぶりを発揮した。18歳でセビニェ侯爵と結婚、25歳で夫と死別、以後は一男一女の子供の養育に専念した。嫁いだ娘が夫の任地プロバンスに発(た)ったその日から25年にわたって書き送られた娘あての手紙が、1500通にも及ぶ書簡集の中心部をなしている。熱愛する娘との別離の悲しみは、生来陽気で機知に富み聡明(そうめい)で分別ある精神の持ち主から、母親の真情をあふれ出させて、いまなお人の心を打つ。ルイ14世下の貴族社会に起きた大小さまざまな事件を、鮮やかに描き出した情報文献としても貴重である。卓抜な想像力、流れるように自然な筆運(はこ)び、繊細で美しい田園風景の描写などにも独自の才能がうかがわれる。原稿の一部は宮廷やサロンで愛読されたが、出版は没後近親者の手になるものであった。

[深瀬絢子]

『井上究一郎訳『セヴィニェ夫人手紙抄』(岩波文庫)』『Madame de SévignéCorrespondance Ⅰ‐Ⅲ (Bibliothèque de la pléiade, texte établi par Roger Duchêne. Paris)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「セビニェ夫人」の意味・わかりやすい解説

セビニェ夫人
セビニェふじん
Sévigné, Marie de Rabutin-Chantal, marquise de

[生]1626.2.5. パリ
[没]1696.4.17. グリニャン
フランスの女流書簡文作家。当時生れたばかりのサロンを中心とする書簡文学の代表者。 1669年娘がグリニャン伯にとつぎ,71年プロバンスに移ってから 25年間,この娘に宮廷の模様や読書の感想などを書き送った。約 1500通に上る『書簡集』 Lettres (1726) の大部分はこの娘あてであるが,レー (レス) 枢機卿,ラファイエット夫人ら友人あてのものもある。限定した読者やサロンを意識した半公開的な性質をもったこれらの手紙は,繊細で印象的な筆致によって古典主義的精神を反映しており,知性と想像力に満ちた母親の愛の記録であると同時に,17世紀後半の社会の最も忠実な鏡にもなっている。後世,ことに 18世紀の書簡文学に大きな影響を与えた。

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百科事典マイペディア 「セビニェ夫人」の意味・わかりやすい解説

セビニェ夫人【セビニェふじん】

フランスの女性作家。24歳のとき夫のセビニェ侯爵と死別。のち一人娘がグリニャン伯爵夫人となってプロバンスに移ると,これに手紙を書いてパリの社交界の様子などを知らせた。このほかレス枢機卿らにあてたものなど,約1500通を集めた《手紙》(1725年刊)は才知と暖かさにあふれ,書簡文学の傑作とされる。

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世界大百科事典(旧版)内のセビニェ夫人の言及

【書簡体小説】より

…18世紀に入るとイギリスではS.リチャードソンの《パミラ》(1740),《クラリッサ・ハーロー》(1747‐48),T.G.スモレットの《ハンフリー・クリンカー》(1771),フランスではモンテスキューの《ペルシア人の手紙》(1721),ルソーの《新エロイーズ》(1761),ラクロの《危険な関係》(1782),ドイツではゲーテの《若きウェルターの悩み》(1774)など質・量ともに最盛期を迎え,バルザックの《二人の若妻の手記》(1841‐42),ドストエフスキーの《貧しき人々》(1846)などが流行の終りを飾る19世紀の傑作である。 17世紀後半から18世紀にかけての書簡体小説の出現は,ヨーロッパ諸国で道路網が整備され,郵便馬車による郵便制度が確立されるに伴って,手紙の交換がしだいに人々の日常生活の一部になるという社会的背景を基盤としている点では,セビニェ夫人の《書簡集》に代表される17世紀以降の書簡文学littérature épistolaireの隆盛とも無縁ではない。それまで手紙を書くことをしなかった人々を対象とした模範書簡文集の出版という当初の企画が発展して,あわれな娘パミラの物語がリチャードソンによって創作されたのも,この間の事情を示すエピソードである。…

※「セビニェ夫人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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