タンネンベルクの戦闘(読み)たんねんべるくのせんとう

世界大百科事典(旧版)内のタンネンベルクの戦闘の言及

【第1次世界大戦】より

… 一方,サムソノフAleksandr V.Samsonov(1859‐1914)とレンネンカンプPavel K.Rennenkampf(1854‐1918)両将軍の率いるロシア軍の動員は迅速で,そのため参謀総長モルトケはP.vonヒンデンブルクとE.ルーデンドルフを急きょ起用,1914年8月23日から9日間にわたって東プロイセンのタンネンベルクで会戦し,ドイツ軍はロシア軍を包囲殲滅(せんめつ)することに成功した。けれども,タンネンベルクの戦闘のため,西部戦線の重要な右翼に配置されていた師団の一部を東部戦線に移すというように,シュリーフェン計画に変更を加えたことがその後の戦局の全体に深刻な影響を及ぼすことになり,早速9月5日から約1週間にわたって戦われた西部戦線でのマルヌ会戦では,ドイツ軍はジョッフルJoseph J.C.Joffre(1852‐1931)の率いるフランス軍の反撃を受け敗退した。そこでドイツ軍はマルヌ川よりも数十km手前のエーヌ河畔で陣容を立て直したが,しかしマルヌの敗戦は,西部戦線第一主義と短期即決の思想にもとづくシュリーフェン計画の完全な頓挫を意味するものであった。…

【ドイツ騎士修道会】より

…十字軍時代に成立した騎士修道会の一つ。ドイツ騎士団とも呼ばれる。武装した騎士と修道士という本来矛盾する二つの性格を併せもった騎士修道会の出現は,ヨーロッパ中世後期の社会の混迷の一つの表現でもあった。教会改革運動と叙任権闘争のなかで明らかとなった皇帝と教皇の対立は,聖界と俗界の対立として,11~12世紀の西欧社会に特異な性格を与えていた。おりから起こった十字軍運動は,両界の対立に一つの妥協点を提供する意味をもっていたから,まさに十字軍の遠征途上でドイツ騎士修道会の前身が成立したのは偶然ではない。…

【プロイセン】より

… しかし,騎士修道会による領邦経営の独占は,都市や地方貴族の不満を招き,これらの勢力はポーランドに支持を求めるようになった。その結果,ポーランドとの間に戦争が起こり,1410年,ドイツ騎士修道会はタンネンベルクの戦闘で大敗を喫する。本来プロイセンに入植したドイツ人農民は,土地所有の面では身分の別を問わず騎士修道会の上級支配に服していたが,14世紀後半以来貴族身分は土地を集積して封建領主の性格を帯び,敗戦による騎士修道会の窮状を利用しつつその特権をさらに拡大せんと努めた。…

※「タンネンベルクの戦闘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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