チェコ(読み)ちぇこ(英語表記)Czech Republic 英語

精選版 日本国語大辞典 「チェコ」の意味・読み・例文・類語

チェコ

(Czech)
[一] ヨーロッパ中央部にある共和国。西部のボヘミア地方と東部のモラビア地方からなる。中世、ボヘミア王国が繁栄。一六世紀以降ハプスブルグ家に支配されたが、第一次大戦後スロバキアと合併してオーストリア‐ハンガリー帝国から独立し、チェコスロバキア共和国を構成。一九九三年、スロバキアと分離してチェコ共和国成立。住民の大多数はチェコ人で、チェコ語を話す。首都プラハ。チェヒ。
[二] 「チェコスロバキア」の略称。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「チェコ」の意味・わかりやすい解説

チェコ
ちぇこ
Czech Republic 英語
Česká republika チェコ語

ヨーロッパ中央部に位置する共和国。西部をドイツ、北東部をポーランド、南東部をスロバキア、南部をオーストリアに囲まれた内陸国である。正式名称はチェコ共和国Česká republika。英語ではCzech Republic。ボヘミア、モラビア(シレジアの一部地域を含む)からなる。日本語のチェコは国全体をさすが、チェコ語であるチェヒČechyは一般にボヘミアをさし、チェコ語では全領土を一語で示す定着した名称はない。国全体をさすには、正式名称か歴史的な表現で「チェコ諸領邦」を意味するチェスケー・ゼムニェ(České země)が使われている。隣接するスロバキアとともに連邦国家チェコスロバキアを構成していたが、1992年チェコとスロバキア両首脳の話合いでチェコスロバキアの連邦を解消し、それぞれ独立国となることを決め、1993年からチェコ共和国が発足した。面積7万8867平方キロメートル、人口1028万7000(2006年推計)。首都プラハ。なお、自然と歴史は「チェコスロバキア」の項を参照。

[中村泰三・中田瑞穂]

地誌

チェコは鉱産資源に恵まれ、早くから鉱工業が発展し、チェコスロバキア時代から工業発展地域であった。また、農業もテンサイ(サトウダイコン)、ビール大麦、ホップ、果樹、野菜栽培と酪農、養豚を中心に発展している。

 ボヘミア地方ではプラハ以東のラベ川沿岸平地が肥沃(ひよく)な黒土、褐色土に恵まれ、「黄金の地帯」とよばれる小麦、テンサイ栽培地帯である。ボヘミアの工業は各地で特色がある。スデティ山麓(さんろく)地帯は繊維、ガラス製品製造工業が盛んである。クルシネ・ホリ山地では地元の褐炭をエネルギー源とし、輸入原料を利用して化学工業や重機械工業が発達している。また、南西部のビール生産で著名なプルゼニ(ピルゼン)を中心に重機械工業が発展し、プラハを中心に機械、鉄冶金(やきん)、化学工業や消費財製造工業が発達している。

 モラビア地方は北部にオストラバ・カルビナ炭田があり、鉄鋼、化学、機械(鉱業設備、重トラック)工業が主要工業である。また、皮革、家具工業も発展している。モラビアの中心ブルノには、タービンなどの重機械のほか、時計、ボールベアリングなどの精密機械工業も立地している。また、モラビア中・南部で発展する農産物(小麦、ビール大麦、トウモロコシ、テンサイ、ブドウ)を原料にしている食品工業もモラビアの主要工業である。

 1989年のビロード革命(共産主義からの無血の体制転換)後は観光業が急速に成長した。第二次世界大戦の戦禍(せんか)を被ることが少なかったことも幸いし、各地にはさまざまな時代の歴史的建造物が多く保存され、貴重な観光資源となっている。首都プラハを中心に、西ボヘミアの温泉保養地、世界文化遺産に登録されたチェスキー・クルムロフ歴史地区、テルチ歴史地区、ゼレナー・ホラのネポムクの聖ヨハネ巡礼教会、クトナー・ホラ:聖バルバラ教会とセドレツの聖母マリア大聖堂のある歴史都市、リトミシュル城、モラビアのブルノなどに多くの外国人観光客を迎え、1999年にはその数は年間約1603万人にも上っている。観光はチェコの主要産業の一つとなっている。

[中村泰三・中田瑞穂]

憲法・行政・司法

1992年12月16日にチェコ国民会議(チェコスロバキア連邦時代の地方議会)は新憲法を採択し、1993年1月1日のチェコ共和国独立と同時に発効した。この憲法によれば、チェコ共和国は「人間および市民の権利と自由に対する敬意の上に設立された、主権を有し、単一で、民主的な法治国家」(第1条)とされている。また、1991年1月に連邦議会が採択した憲法律(憲法と同等の効力をもつ法律)「基本的権利と自由の憲章」はそのまま新共和国の憲法秩序においても有効とされている。

 国家元首は大統領で、議会上下両院それぞれの過半数の投票で選出される。被選挙権は40歳以上のチェコ市民で、任期は5年、2期まで再選が可能とされている。

 議会は二院制を採用している。下院は200議席で、被選挙権は21歳以上、議員は比例代表選挙で選出され、任期は4年。上院は81議席で、被選挙権は40歳以上、議員は小選挙区制選挙で選出される。任期は6年で、2年ごとに議員の3分の1が改選される。また、すべての選挙について、選挙権は18歳以上となっている。下院が法案の先議権をもち、下院を通過した法案を上院が否決もしくは修正しても、下院が全議員の過半数で再可決すれば上院の否決・修正を覆すことができる。また、大統領も法案について拒否権をもつが、差し戻された法案を下院が全議員の過半数で再可決すれば、法律は成立する。

 内閣が行政の最高機関とされ、首相は大統領が任命する。他の閣僚は首相の指名に基づいて大統領が任命するが、内閣は下院の信任を必要としているので、実質的には議院内閣制といえる。

 司法の最高機関は最高裁判所であるが、憲法解釈については憲法裁判所が、また行政問題については最高行政裁判所が別に置かれている。

[林 忠行]

政治

1993年1月にハベルが大統領に選出され、1998年1月に再選された。独立した時点ではチェコスロバキア連邦時代の地方議会であるチェコ国民会議の議員がそのまま新共和国の議会の下院を構成し、上院は空席のままになっていたが、1996年に下院と上院の選挙が実施された。連邦時代の1992年に実施された選挙後、チェコでは市民民主党、市民民主同盟、キリスト教民主連合からなる中道右派連立政権が成立し、首相には第一党の市民民主党党首クラウスが選出された。クラウス内閣は独立後も引き続いて政権の座にあった。1996年の下院選挙では、分裂していた中道および中道左派勢力の票をまとめることに成功した野党の社会民主党が得票を伸ばして第二党になり、他方、連立与党は過半数に1議席を欠く状態となったが、連立与党と社会民主党との間で妥協が成立し、中道右派連立政府は政権にとどまり、社会民主党党首のゼーマンMiloš Zeman(1944― )が下院の議長に就任した。

 1997年に入るとチェコ経済の不振が顕著になり、首相であるクラウスの経済政策に対する批判が高まった。そうしたなか、同年11月に市民民主党の選挙資金疑惑問題がおき、その責任をとってクラウスは辞表を提出し、12月には無党派の元国立銀行総裁トショフスキーが暫定政府の首相に就任、この内閣のもとで1998年6月に下院の繰り上げ選挙が実施された。選挙では社会民主党が第一党となり、ゼーマンが首相に就任した。また、それまで最大与党であった市民民主党は分裂し、同党内の反クラウス・グループの議員は自由連合という新政党を旗揚げした。2002年6月に行われた下院選挙では、社会民主党が第一党の地位を維持し、キリスト教民主連合・人民党、自由連合と連立政権を樹立、社会民主党党首のシュピドラVladimír Špidla(1951― )が首相についた。2003年2月、大統領のハベルは任期満了に伴い退任したが、同年1月に二度にわたって行われた大統領選挙では後任が決まらず、3月、三度目の選挙が行われ、元首相のクラウスが当選した。2004年5月にヨーロッパ連合(EU)に加盟したが、それを受けて翌6月に行われたヨーロッパ議会選挙において社会民主党は惨敗、シュピドラが首相を辞任し、グロスが引き継いだ。そのグロス政権も11月に行われた上院選挙で敗北、さらにグロスの金銭スキャンダルにもみまわれ、2005年4月に崩壊し、パロウベクJiří Paroubek(1952― )が新首相に就任した。2006年6月に任期満了に伴う下院選挙が行われ、最大野党の市民民主党が第一党を獲得、党首のトポラーネクMirek Topolánek(1956― )が首相となった。2008年3月にはクラウス大統領が再選された。トポラーネク政権は、下院で与野党の議席が伯仲するむずかしい状況のなか、2009年3月に不信任決議が可決されたため崩壊、フィシェルJan Fischer(1951― )が暫定政権の首相となった。

[林 忠行]

外交

1993年に独立したチェコは、一連の国際機関への加盟手続を行った。まず、独立直後の1993年1月に国連に加盟、1994、1995年にはその安全保障理事会非常任理事国に選出された。また、1993年4月にGATT(ガット)(関税および貿易に関する一般協定、現WTO)、同年6月にヨーロッパ審議会Council of Europeに加盟した。さらに同年10月にはEU(ヨーロッパ連合)と連合(準加盟)協定を締結し(発効は1994年5月)、1994年3月にはNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)との「平和のためのパートナーシップ」枠組み協定に調印。1995年11月にはOECD(経済協力開発機構)への加盟が認められた。

 チェコ政府は一貫してEUおよびNATOへの加盟を外交の最優先課題とし、それに向けて経済改革や国内法整備を進めてきた。その結果、1997年7月にNATO首脳会議はポーランド、ハンガリーとともにチェコを加盟候補国として指名し、1997年12月にこの3か国はNATO加盟議定書に調印、1998年4月にチェコ議会はこの議定書を批准し、1999年3月に正式加盟した。EU加盟についてもチェコは1996年1月に加盟申請を行い、1997年7月にEUは他の5か国とともにチェコを加盟候補国に指名し、具体的な加盟交渉が開始された。これらの動きを経て2002年12月、EUはチェコを含む10か国を2004年EUに加盟することを決定、2004年5月にチェコはEUに加盟した。

 地域協力としては、中欧自由貿易協定(CEFTA)や中欧イニシアティブ(CEI)などに参加している。1997年末まで継続したクラウス政権はNATOやEU加盟を優先し、これらの地域協力は実務的な経済協力に限ろうとしたが、その後の社会民主党政権はこれらの地域協力に肯定的な姿勢をとった。二国間関係ではドイツとの間で戦後のズデーテン・ドイツ人追放にかかわる問題が懸案となっていたが、1997年1月に両国は和解宣言に調印し、この問題でも一応の合意に達した。1993年の連邦分裂後、スロバキアとは通貨同盟、関税同盟を締結し、密接な関係を維持しようとしたが、経済政策の相違などから通貨同盟は1993年2月に破棄され、それぞれは独自の通貨をもつことになった。現在の通貨単位はチェコ・コルナ(CZK)。

[林 忠行]

経済・産業

1990年以降の民営化政策によって、公営企業の従業員比率は1990年の79.6%から1996年の22.4%に減少し、私営企業のそれは7.0%から58.9%に増加した。また、産業構造の再編によって同じ期間に農業従事者が労働人口に占める比率は11.8%から6.0%に、鉱工業は37.8%から32.0%にそれぞれ減少した。かわって、建設業の就労者が7.5%から9.0%、商業・修理サービスなどが9.8%から15.4%、ホテル・レストラン従業員が1.7%から3.1%、金融業が0.5%から1.8%に増加した。産業の再編や旧社会主義経済圏の崩壊の影響などでチェコの国内総生産(GDP)は急速に低下し、1990年との実質値の比較(以下同様)で1992年には86%にまで落ち込んだ。しかしこの年を底にしてその後は成長に転じ、1996年には97%の水準にまで回復した。工業生産額の低下はとくに著しく、1993年には68%となったが、その後回復傾向にある。失業率は連邦時代の1991年に4.1%に達したものの、その後は3%前後で推移していた。これは、建設、サービス部門の成長で一定数の雇用が確保できたことにもよるが、同時に企業のリストラがそれほど急速には進行しなかったことも一因と考えられる。

 1998年の統計では、貿易額は輸出が263億ドル、輸入が289億ドルで、26億ドルの輸入超過であった。先進国との貿易が多く、OECD諸国が輸出の78.8%(そのうちEUが64.2%)、輸入の70.9%(そのうちEUが63.3%)を占めていた。旧社会主義諸国との貿易は1990年以降に急減したが、それでも輸出の26.3%、輸入の21.1%を占めていた。また、チェコは原油、天然ガスの大部分をロシアからの輸入に依存している。

 チェコ経済は東欧諸国のなかでは比較的順調に市場経済への移行を達成し、また安定した成長を遂げているとみなされ、1995年には東欧諸国のなかでは最初にOECD加盟が認められた。しかし、1995年から1997年にかけて貿易収支が急速に悪化し、1997年の一時期には深刻な通貨不安も経験した。その結果、GDP成長率は1998年にマイナス成長を記録し、それまで安定していた消費者物価も1998年には前年比で20%の上昇となり、やはり安定していた失業率も1997年以降上昇し、1999年末には9%前後に達した。とくに、貿易収支の悪化は深刻で、政治不安にもつながった。

 その後、経済成長率はプラスに転じ、2001年2.6%、2002年1.5%、2003年3.1%、2004年4.0%と比較的高い成長率を記録しているが、2004年のEU加盟後も、失業率の漸増、財政赤字といった構造的問題を抱え、とくに財政赤字はユーロ導入の条件を整備するためにも、早急な対応が求められている。2007年のGDPは1751億ドル、失業率は6.0%。主要産業は機械工業、化学工業、観光業である。貿易額は輸出が1214億3500万ドル、輸入が1171億9500万ドル(2007)。主要貿易品目は、輸出入とも機械・輸送用機器、原料別製品、化学品などが中心。貿易相手国は、近隣のドイツ、スロバキア、オーストリアをはじめとするヨーロッパ諸国が多い。日本との貿易では、おもな輸出品目は自動車部品、ポンプ、合金など、日本からの主要輸入品目は映像機器部品、自動車などとなっている。

[林 忠行]

国防

1995年の国防軍の総兵力は7万3591、そのうち職業軍人は3万0413、徴兵が4万3178、そのほかに文官(文民スタッフ)civilianが2万7726であった。2001年の国防軍の総兵力は4万8139、そのうち職業軍人は2万3184、徴兵が2万4955、そのほかに文官が2万1157。2005年から徴兵制が廃止され、同年の国防軍総兵力は2万2272、文官が1万7858となっている。1999年のNATO正式加盟により、装備の更新や将校の英語教育などが課題となった。なお、チェコ軍は国連平和維持活動に参加し、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、ジョージア(グルジア)、タジキスタンなどに部隊や人員を送った。

[林 忠行]

社会

人口構成

民族構成はチェコ人90.4%、モラビア人3.7%、スロバキア人1.9%、その他(ポーランド人、ドイツ人、ロマなど)である(2001)。自然人口増加率は、1994年からマイナスとなっており、人口は減少傾向にある。人口1000人当りの出生率は9.6人、死亡率は10.5人。平均寿命は75.75歳(男性72.5歳、女性79.0歳)である(2004)。チェコの都市化は、工業化に伴って19世紀から始まった。チェコの行政区分によれば6233の地方自治体(都市および村)がある。比較的大きな都市としては、首都のプラハ(約118万)、ブルノ(約38万)、オストラバ(約32万)などがあり、人口5万人以上の22都市の合計人口は全人口の33%を占めている(2001)。

[林 忠行]

教育

6歳から15歳までの10年間が義務教育で、この間の初等教育は基礎学校で行われる。中等教育は原則として義務教育修了者を対象とし、教養教育を目的とするギムナジウムと基礎的な専門教育を目的とする技術中等学校は4年制で、卒業試験に合格すると大学進学資格を与えられる。そのほかに大学への進学を前提としない2年ないし3年制の職業中等学校、技術中等学校と職業中等学校をあわせた総合中等学校などがある。また、基礎学校後期教育と中等教育を一貫して行う8年制のギムナジウムもある。基礎学校は地方自治体が、中等学校は国が財政を担い、教育費は無料である。なお、1990年以後、私立学校や教会が運営する学校が、とくに中等教育で増加している。高等教育としては、中欧最古の歴史を誇るプラハのカレル大学をはじめとして、総合大学と単科大学をあわせて24の大学がある。大学進学率は高まる傾向にある。

[林 忠行]

医療・福祉

社会主義時代は医療、各種保険、年金等は国庫からの支出でまかなわれてきたが、独立後、これらの医療、社会保障制度の一部は民営化された。1993年以降、政権にあった中道右派連立政府は、これらの分野における国家の役割を最小限度にとどめ、民営部門の役割を拡大しようとした。しかし、1998年発足の社会民主党政権はそれまでの政策を見直す姿勢を示した。社会主義時代は人口当りの病院の病床数や医師の数の多さを誇っていたが、体制変革後は医療施設の老朽化、新しい医療設備導入の遅れ、医師の数の過剰などといった問題が生じている。年金受給年齢は、1995年の法改正によって、段階的に支給年齢が引き上げられ、2006年末には男性がそれまでの60歳から62歳に、女性は子供の数によって53~57歳とされていたが、57~61歳へと引き上げられた。

[林 忠行]

生活水準

チェコは東欧諸国のなかでは早くから工業化が進んだこともあり、生活水準は相対的に高かった。人口1000人当りの自動車の保有台数でみると、1993年が261台であったのに対して1995年は302台(東欧ではスロベニアに次いで2位)になり、15.7%の増加となっている。食料品の物価上昇はほかの東欧諸国と比べると緩やかではあるが、1994年には1990年のほぼ2倍になっている。1994年の人口1人当りの肉の消費量は1990年の84.1%に下がったが、他方で野菜の消費量は同じ期間で13.8%、果物は19.8%上昇している。これは、消費物資の多様化に伴い、チェコ人の食生活に変化が生じていることを意味する。ただし、市場経済への移行に伴う貧富の差の拡大も指摘されており、これは重要な政治的争点となっている。

 なお、電気洗濯機の保有率が1995年には69.7台(100世帯当りの台数、以下同)であったが2004年には91.2台、乗用車保有率は1995年には54.5台だが2004年には69.2台、パソコン保有率は1995年には5.2台だが2004年には39.7台となっている。また、携帯電話の保有率は、1997年には100人当り7.1台であったが、2003年には95.2台となっている。

[林 忠行]

文化

概観

チェコの文化は中世以来キリスト教と深く結び付いている。またハプスブルク帝国内で、ドイツ化やハンガリー化の潮流に抵抗しながら、チェコ人は自分たちの言語を守り、独自の文化形成に努力してきた。したがってその文化は、あらゆる分野でそのときどきの政治や民族運動と深いかかわりをもち、歴史家で19世紀のチェコ人民族運動を指導したパラツキー、哲学者マサリク(チェコスロバキア大統領1918~1935)、劇作家ハベル(チェコスロバキア大統領1989~1992、チェコ大統領1993~2003)などに代表される多くの文化人が政治の表舞台で活躍した。第二次世界大戦後、とくに1948年以降は、社会主義的文化革命がうたわれたが、1989年の共産党体制崩壊後は、チェコ文化の西欧的伝統が再度、強調されるようになった。

[林 忠行]

国民性

一般に、チェコ人は冷静で慎重な国民といわれる。国民生活のなかには、キリスト教、とくにカトリックの慣習が根を下ろしており、それは社会主義時代においても変わらなかった。チェコ人にとってクリスマスやイースターはいまでも長い休暇を家族とともに静かに過ごす楽しいひとときである。ただし、いずれの教会にも属さない人々が人口の半分以上を占め、社会の世俗化傾向も進んでいる。

 スポーツ人口は多く、またその水準は高い。とくに人気のあるスポーツはアイスホッケー、サッカー、バレーボールなどである。アイスホッケーでは、連邦分裂後も世界的強豪の地位を維持しており、世界選手権で何度も優勝している。世界的に有名なスポーツ選手としては、長距離走のザトペックと体操のチャスラフスカVěra Čáslavská(1942―2016)がいる。また、近年ではプロ・サッカーやプロ・テニスの世界でもチェコ出身の選手が数多く活躍している。サッカーのパベル・ネドベドPavel Nedvěd(1972― )は有名。

[林 忠行]

文化施設

博物館、美術館など公立の展示施設は、プラハの国民博物館をはじめとして363、常設の劇場が92(いずれも2004)あり、劇場は1989年の政治変動以後に数が増えている。首都プラハの歴史地区は世界文化遺産に登録されており、「百塔の町」「北のローマ」と賛美される美しい景観を残している。プラハ城、ブルタバ川に架かる14世紀の石橋カレル橋や旧市庁舎、教会など歴史的建造物が多く、ロマネスク期以降のあらゆる建築様式がみられ、町そのものが建築史の最良の教科書であるといわれる。また、古い建物の多くが今日でも使用されており、その維持と修理には大きな労力が払われている。

[林 忠行]

芸術

近代チェコ文学の発展は19世紀の民族運動とも深いかかわりをもつ。とくに19世紀のチェコ文学は何人かの優れた作家を生んだ。そのなかでは『おばあさん』のB・ニェムツォバーや詩人のJ・ネルダが有名である。また20世紀に活躍した作家ではJ・ハシェクやK・チャペックは世界中で翻訳され、親しまれている。さらに1984年には、第二次世界大戦前から戦後にかけて創作を続けた詩人、J・サイフェルトがノーベル文学賞を受賞し、共産党時代にフランスに移住したM・クンデラも世界中に読者をもっている。

 美術では19世紀の画家J・マーネスJosef Mánes(1820―1871)に続いて、国民劇場の建設に加わった人々、すなわち建築家J・ジーテク、彫刻家J・V・ミスルベク、画家のM・アレシュらの「国民劇場の世代」が現れている。またアール・ヌーボーの代表的画家A・ムハはパリで活躍したため、むしろフランス語読みのミュシャの呼び名で知られている。音楽では、オペラ『売られた花嫁』や交響詩『わが祖国』のB・スメタナ、交響曲第9番「新世界から」などのA・ドボルザーク、さらにL・ヤナーチェクの名をあげることができる。

 演劇のなかで特筆に値するのは人形劇で、チェコ語の擁護で重要な役割を果たしたという歴史をもち、その水準は高い。また、映像とパントマイムを組み合わせたプラハのラテルナ・マギカ劇場も有名。映画では1960年代に国際的な評価を受ける若い監督たちが現れ、現在でもその伝統は引き継がれている。ただし、共産党体制崩壊後に、アメリカや西欧の映画が流入したため、チェコでの映画製作本数は減少傾向にある。

[林 忠行]

日本との関係

両国間の交流は散発的なものではあったが、チェコスロバキア独立以前にまでさかのぼることができる。1871年(明治4)に派遣された岩倉(いわくら)使節団のなかの数人の研修生はボヘミアの各種の工場で技術研修を受けている。また今日、広島の「原爆ドーム」として知られる建物は、来日したチェコ人の建築家J・レッツェルJan Letzel(1880―1925)の設計による。

 日本でのチェコ文化の受容はおもに文学を通してであった。第二次世界大戦前に、重訳ではあったが、チャペックの戯曲が日本にも紹介され、築地(つきじ)小劇場で上演されている。戦後は、チェコ文学も直接チェコ語から翻訳されるようになり、その範囲はSF小説や童話を含む広い分野に及んでいる。とくに近年は、チャペックとフランス在住のチェコ人作家、クンデラの作品が数多く翻訳されている。

 絵画では、ムハ(ミュシャ)の作品が人気を集めており、また音楽ではチェコ・フィルハーモニーをはじめとする数多くの交響楽団、オペラ劇団の来日公演が続いている。

 チェコでの日本に対する関心も決して低くはない。第二次世界大戦前は、いくつかの日本についての旅行記が出版されたにすぎなかったが、戦中から戦後にかけて日本研究は本格的なものとなる。文学では『古事記』などの古典から安部公房(こうぼう)や大江健三郎などの現代作家に至る多くの作品が翻訳されている。また文学以外では、柔道、空手、いけ花などが多くの関心を集めている。とくに共産党体制崩壊後、文化交流における制約もなくなり、交流の多様化が進んでいる。

 なお、2002年7月に天皇・皇后、2009年5月に首相麻生(あそう)太郎がチェコを訪問、一方、2005年6月にパロウベク首相、2007年2月と2008年9月にクラウス大統領が来日している。

[林 忠行]

『大鷹節子著『チェコとスロバキア』(1992・サイマル出版)』『林忠行著『中欧の分裂と統合 マサリクとチェコスロバキア建国』(1993・中央公論社)』『V・チハーコヴァ著『新版プラハ幻影』(1993・新宿書房)』『小野堅・岡本武・溝端佐登史編『ロシア・東欧経済』(1994・世界思想社)』『山本茂・松村智明・宮田省一著『地球を旅する地理の本5 東ヨーロッパ・旧ソ連』(1994・大月書店)』『音楽之友社編・刊『チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ポーランド(ガイドブック音楽と美術の旅)』(1995)』『小川和男著『東欧再生への模索』(1995・岩波書店)』『沼野充義監修『中欧――ポーランド・チェコ・スロヴァキア・ハンガリー』(1996・新潮社)』『北川幸子著『プラハの春は鯉の味』(1997・日本貿易振興会)』『百瀬宏他著『国際情勢ベーシックシリーズ 東欧』第2版(2001・自由国民社)』『佐川吉男著『チェコの音楽――作曲家とその作品』(2005・芸術現代社)』『薩摩秀登著『物語チェコの歴史――森と高原と古城の国』(中央新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「チェコ」の意味・わかりやすい解説

チェコ
Czech

基本情報
正式名称=チェコ共和国Česká Republika/Czech Republic 
面積=7万8865km2 
人口(2010)=1052万人 
首都=プラハPraha(日本との時差=-8時間) 
主要言語=チェコ語(公用語) 
通貨=チェコ・コルナCzech Koruna

チェコは,チェコ語で正しくはチェヒČechyと呼び,英語ではチェックという。チェコ共和国は,西部のボヘミア,東部のモラビアの二つの地方からなるが,狭義にはボヘミアだけをさしてチェコと呼ぶこともある。

 チェコはスロバキアとともに連邦を形成していたが,スロバキアにおいて独立志向がしだいに強まり,1992年末に連邦は解体,93年1月1日,チェコ共和国として再出発することになった。

総人口(1989)のうち,主要民族は西スラブ族のチェコ人で94.0%を占める。次いで多いのが同じ西スラブ族のスロバキア人で4.1%。少数民族としては,ポーランド人0.7%,ドイツ人0.5%,ハンガリー人0.2%,ウクライナ人・ロシア人0.1%がいる。宗教ではカトリック教徒が総人口の40%を占め,次いで伝統的なフス派の流れをくむプロテスタント系のチェコ兄弟団2%,フス派教会1%である。

前1世紀には先住ケルト族(ボイイBoii。ボヘミアの語源となる)を圧迫したゲルマン諸族が住んでいたが,やがてスラブ諸族がカルパチ山脈を越えてゲルマン諸族の居住地に徐々に浸透していった。だが,文献上この地にスラブ人の存在が確認されたのは6世紀のことで,彼らはいわゆるゲルマン人の大移動で空白になったこの地に定着し,西スラブ族を形成したとされている。

 9世紀前半にカロリング朝フランク王国の東方進出に対抗して西スラブ族の手で大モラビア帝国が建設された。4代続いたこの帝国の領土は現在のスロバキア,モラビア地方を中心にボヘミア,ポーランド,ハンガリーにまたがっているとされる。第2代ロスチスラフRostislav王(在位846-870)は東フランク王国の支配を脱するためにビザンティン帝国との関係を強化した。彼はそのころ盛んになったフランク人によるキリスト教布教活動に対抗し,ビザンティン皇帝に要請して,テッサロニケ生れの宣教師キュリロスとメトディオスの兄弟を宮廷に招いた。キュリロスはみずからが考案したスラブ文字(グラゴール文字)を用いてスラブ語による布教を行った。だがキュリロスの死(869)後,大モラビア帝国ではラテン式典礼が導入され,ローマ教会との結びつきが強まった。

 10世紀初頭,この大モラビア帝国は,ビザンティン帝国をうかがいつつパンノニア平原に西進してきたハンガリー人に滅ぼされた(907)。ハンガリー人の占有した地域の西スラブ族はビザンティン帝国との文化的接触を断たれ,さらに第1次世界大戦終了まで約1000年間ハンガリー人の支配を受ける中で,スロバキア人として独自の民族性を形成していった。一方,ボヘミアでは大モラビア帝国末期の9世紀末にはすでにその支配を離れていた西スラブ諸族が,内部抗争を続けつつ統一の方向に進んでいた。その中で,チェコ人を中心として諸部族を統合したのがプシェミスルPřemysl家で,10世紀末までにはプシェミスル家の手でボヘミアは統一された(プシェミスル朝,900?-1306)。彼らは10世紀の後半にはモラビア,オーデル(オドラ)川上流,南ポーランドをも一時期支配下におさめた。歴代のプシェミスル侯はドイツの東方進出からの防衛を図り,国内で君主制を確立するためにドイツ王(962年以降は神聖ローマ皇帝をかねる)に臣従し(929),プラハに司教座を設置する(973)など,積極的にカトリックの受容を図る政策をとった。ことに布教に熱心であったバーツラフ1世(在位921-929)は,初代キリスト教君主となったが,ドイツの支配を離れようとした弟ボレスラフ1世Boleslav Ⅰ(在位929-967)に殺されたためカトリックの殉教者に列せられ,後世ボヘミアの守護聖人となった。

 経済面から見ると中世のボヘミアは貴金属の採掘で富み,君主はこの財政力と皇帝の援助をもって帝国内の地位を高めることができた。1158年にボヘミアの君主は神聖ローマ皇帝より世襲の王位(ボヘミア王)を,1204年にはボヘミア王国の独立も承認された。また隣接するモラビアは1182年にボヘミアより独立して帝国の辺境伯領となったが,実質的にはボヘミア王の支配する属領となった。13世紀半ば,ボヘミアはオーストリア公国のバーベンベルク家の断絶(1246)に乗じてオーストリア公領を奪い,ハンガリーを破ってさらに領土を拡大した。

 このようにボヘミアが中欧における一大強国になった背景には,ハンガリーやポーランドとは異なり,モンゴルの来襲にあわなかったために国土の荒廃をまぬがれたことと,13世紀に隆盛を見たドイツの東方植民があった。国王は財政政策の一環としてドイツ人の農民,職人,市民の移住を奨励し,都市建設や鉱山開発に彼らを従事させた。ことに鉱山業の発達はヨーロッパにおけるボヘミアの地位を著しく高めた。銀の産出は当時ヨーロッパ一を誇り,ボヘミアで鋳造された純度の高い銀貨は,国際通貨としてヨーロッパ市場を圧倒した。ドイツからの移民には多くの場合ドイツ法による自治と特権が賦与され,主要都市ではドイツ人商人が上属市民層を構成し,国王,大貴族の保護を受けて国外交易を独占した。ドイツ植民がもっとも盛んだったのは,ボヘミアでは,北,北西,西部国境地域で,のちの民族問題,国境問題の焦点になるところであった。

 13世紀後半にでたボヘミア王オタカル2世はドイツ移民をすすんで招き入れ,鉱山,都市から得た財力を基礎に,軍備を整え,領土をアドリア海から北海まで広げ,ついには帝位をうかがうにいたった。だが帝国の政治の中心が東方に移るのを恐れたドイツ諸侯がエルザス(アルザス)の小領主ハプスブルク家のルドルフを皇帝に選出し,オーストリア公国を継承させることによってオタカル2世の野望はくじかれた。その後プシェミスル朝はハンガリー・ポーランド王を兼ねたバーツラフ3世Václav Ⅲ(在位1305-06)が暗殺されると断絶し,以後,外来の君主がボヘミアを統治することになる。

中世におけるボヘミアの繁栄は14世紀のドイツ系のルクセンブルク朝(1310-1437)のもとで促進された。百年戦争中フランスの宮廷で成人した同朝のボヘミア王カレル1世(在位1346-78)は,ハプスブルク家の躍進を危惧したドイツ諸侯によって1346年皇帝に選出された(皇帝としてはカール4世)。彼は1356年に金印勅書を発布してボヘミア王位を7選帝侯の首位におき,帝国の強化の基礎をボヘミアにおいたのである。彼の時代,ボヘミア王国はシュレジエン,ラウジッツ,ブランデンブルクを加え,領土が拡大されるとともにフランス,ドイツ,イタリアの文化が帝国の首都プラハに集まった。1348年にはパリ大学を模した帝国内で最初の大学がプラハに設立され(カレル大学,プラハ大学),ヨーロッパ各地から教師,学生を招き入れるなど,ボヘミアは中欧における人文主義の一中心地となった。またカレル1世はプラハを大司教座に昇格させて,教会権力を握る一方,ノベー・ムニェスト(新市街),石橋(カレル橋)の建設などにより帝都の外貌を整えた。さらにカレル1世はドイツ語とともにチェコ語も尊重し,王国の公用語とした。このようにボヘミアをヨーロッパ第一級の国家におしあげたカレル1世の政策をたたえて,後世チェコ人はこの時代をボヘミアの黄金時代と呼び,カレルを〈祖国の父〉と称した。

 ただこの時代のボヘミアの政治・経済・文化的発展もドイツ化の促進と並行しており,大貴族,上級聖職者など支配層の多くがドイツ系に属し,都市の有力なドイツ系商人はドイツ経済と強く結合していたためにボヘミアはドイツ経済圏にしっかりと組み込まれた。ドイツ化の勢いはやがて民族的反動をひきおこす原因となった。

 ドイツ化に対するチェコ人の反撃はカレル大学の総長であったフスの宗教改革,それに続くフス派戦争で一挙に噴き出した。中世後期の異端運動の流れをくむフスは,国王の厚い保護を受けて所領を拡大し,悪弊にひたる聖職者を攻撃し,免罪符の販売に反対してプラハ大司教と衝突したためにローマ教皇から破門され,1415年異端の罪でコンスタンツで火刑に処せられた。このことはフスの教説の信奉者を激怒させ,ここにローマ教会と神聖ローマ帝国軍を敵とするフス派戦争が勃発した(1419-36)。フスの宗教改革はほぼ1世紀後にドイツで行われたルターの改革運動の先駆をなしているばかりか,その教えはカトリックの反宗教改革のもとで弾圧されながらもチェコ兄弟団の中に生き続け,今日アメリカ北部を中心に活動しているモラビア教会の基礎をつくっている。

 15世紀半ばには穏健派のフス教徒で大領主のイジー(在位1458-71)が一時ボヘミア王となるが,やがてポーランドのヤギエウォ家の王がボヘミア王とハンガリー王とを兼ねる時代が2代続くことになる。

 この時代にビザンティン帝国を滅ぼしたオスマン帝国は,バルカン半島の諸民族を服属させ,さらに勢いを西に伸ばした。ヤギエウォ朝のボヘミア・ハンガリー兼王のルドビーク1世(ラヨシュ2世)がトルコ軍との戦いで敗死すると,トルコから中欧を共同防衛するためにボヘミア議会は,オーストリア・ハプスブルク家のフェルディナント1世を国王に選んだ。ハンガリー議会もこれにならい,ここに強力な対オスマン・トルコ同君連合ができあがった。2度にわたるオスマン・トルコのウィーン攻撃を退けたオーストリアは,中欧における地歩を固め,経済的にもっとも重要なボヘミアで専制主義を強化するために,カトリック教会の力を利用して,ボヘミアの貴族や自由都市の自治権を制限した。

 ボヘミアとオーストリアの対立は,中・東欧における宗教改革の影響下で促進された。17世紀前半にヨーロッパ全体を巻き込んだ三十年戦争(1618-48)は,オーストリア・ハプスブルク家の反宗教改革的中央集権化政策に対するボヘミア・プロテスタント貴族の反発を直接の契機としている。すなわち,プロテスタントの抑圧者,皇帝フェルディナント2世が,1612年ボヘミア王として即位し,反宗教改革が推進されると,ボヘミアのプロテスタント貴族は,彼の即位を拒否し,カルバン派のファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア国王に選んだ。これに対し,フェルディナントはフランス,スペインの支援を受けてボヘミアを攻撃し,プラハ近郊のビーラー・ホラの戦でボヘミア貴族軍を粉砕した。だが戦火は拡大し,30年にわたる戦争が勃発した。ボヘミアは新旧教徒が入り乱れる長期の戦争で幾度となく戦場となり,人口は激減し,耕地も荒廃に瀕した。戦争の結果,プロテスタント派はことごとく弾圧されるか,国外への移住を余儀なくされた。近代教育学の祖とされるチェコ兄弟団の一員コメンスキー(コメニウス)もこの戦争でボヘミアを追われた一人であった。プロテスタント文化は根絶され,カトリック化とドイツ化が並行して国内をおおった。人口が減少した地域には新たにドイツ人が入植した。教会と絶対王政のもとで農奴制が強化され,自足的な経済活動が広く行われるようになった。ボヘミアの伝統的な民族的歴史学はこの時代をチェコ人の民族的独立が失われた〈暗黒時代(チェムノ)〉としており,19世紀にチェコ人の〈覚醒者(ブジテレー)〉が民族的〈再生運動〉を行うまでの暗い時代のはじまりとしている。

経済的にはボヘミアでは17世紀末から復興の兆しが現れはじめ,18世紀に入るとオーストリア継承戦争でプロイセンに奪われたシュレジエンに代わってボヘミアに繊維工業が発達した。経済的発展は精神文化の活性化にも作用し,啓蒙主義,ドイツ・ロマン主義の運動が18世紀末のボヘミアにおいてもチェコ民族の起源や言語,文化遺産への関心を呼び起こした。19世紀はじめにドイツのイェーナ大学やハレ大学に留学していたチェコ人,スロバキア人の知識層はヘルダーらドイツ・ロマン主義の強い影響を受けて,文化的スラブ民族運動の担い手となったのである。ユングマンJosef Jungmann(1773-1847)は《チェコ語・ドイツ語辞典》をつくり,パラツキーは膨大な《チェコ民族史》を書いた。

 1848年にヨーロッパに生じた革命的状況の中でオーストリア帝国内の被支配民族たるチェコ人,スロバキア人,ハンガリー人,クロアティア人,ポーランド人らが,それぞれの政治的要求をかかげる新たな民族運動の段階に足を踏み入れた(48年革命)。ボヘミアではオーストリアの中央集権化に反対する貴族の支援を受けたチェコ人自由主義知識人が,ボヘミアの完全な独立を要求せずに,オーストリアの保護のもとにスラブ民族の自治を獲得する方向を目ざした。この年の6月にプラハで開かれた初めてのスラブ人会議は,その志向の表れであった。

 だが,1866年の普墺戦争での敗北により,ドイツにおける盟主の地位をプロイセンに譲ったオーストリアは,国の再編成を図る必要から,1867年にハンガリーとアウスグライヒ(〈妥協〉〈和協〉の意)を行ってオーストリア・ハンガリー二重帝国を成立させた。スラブ民族を含めた民族的自治構想を葬り去られたチェコ人自由主義ブルジョアジーは,パン・スラブ主義的野心を抱くロシアに接近する一方,オーストリアの処置に不満をもつ諸民族の先頭に立って政府に抵抗した。19世紀の後半,ボヘミアでは近代的な食品工業,鉱山業,機械工業が起こり,1867年にはチェコ民族資本の銀行が設立されるなど,めざましい経済発展があった。したがって政府はチェコ人ブルジョアジーの要求を無視しえず,かねてからチェコ人知識人,ブルジョアジーの闘争目標であったチェコ語とドイツ語の公用語化の要求が獲得されると,当然ボヘミアのドイツ人は,政府のこうしたチェコ人慰撫政策に強い抵抗を示した。チェコ人とドイツ人の対立の激化は1882年にプラハ大学がチェコ人系とドイツ人系に二分されたことに現れている。さらに普通選挙制(制限制:1896,平等:1907)が導入されると,多数の政党に各民族大衆の意思が反映され,民族闘争が日常化することになった。以後オーストリア・ハンガリー二重帝国の支配にくみ入れられたチェコ人は,やがて,ハンガリー治下にあったスロバキア人と互いに呼応しながら民族独立の闘争をすすめていくが,これについては,チェコスロバキアの項目でのべることにする。
チェコスロバキア
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百科事典マイペディア 「チェコ」の意味・わかりやすい解説

チェコ

◎正式名称−チェコ共和国Czech Republic。◎面積−7万8867km2。◎人口−1051万人(2014)。◎首都−プラハPraha(127万人,2011)。◎住民−チェコ人94%,スロバキア人4%など。◎宗教−カトリック約30%,プロテスタントなど。◎言語−チェコ語(公用語)。◎通貨−チェコ・コルナCzech Koruna。◎元首−大統領,ミロシュ・ゼマンMilos Zeman(1944年生れ,2013年3月就任,任期5年)。◎首相−ボフスラフ・ソボトカBohuslav Sobotka(2014年2月就任)。◎憲法−1993年1月施行。◎国会−二院制。上院(定員81,任期6年),下院(定員200,任期4年)(2015)。◎GDP−2165億ドル(2008)。◎1人当りGDP−1万2680ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−7.5%(2003)。◎平均寿命−男74.6歳,女80.7歳(2013)。◎乳児死亡率−3‰(2010)。◎識字率−100%。    *    *ヨーロッパ中央部にある共和国。国土は東西に細長く,西部のボヘミア盆地はラベ(エルベ)川の流域で,ズデーテン,エルツ,ボヘミアの山地に囲まれる。東部のモラビア低地はドナウ川の支流モラバ川の流域。気候は温和な大陸性気候を示す。 東欧では旧東ドイツと並ぶ工業国で,鉄鋼,自動車,電機,繊維,ガラス,ビールなどの工業が発達する。農業はラベ川流域などが中心で,小麦,大麦,ジャガイモ,テンサイなどが主産物。森林資源に恵まれ,林業も重要。1989年の〈ビロード革命〉後,市場経済の原理を導入した経済改革が実施され,国営企業の民営化も進められている。1996年東欧諸国では初めてOECD(経済協力開発機構)加盟を承認された。1999年NATO(北大西洋条約機構)に加盟した。また,EU(ヨーロッパ連合)とは拡大候補の第一陣として1998年から加盟交渉を開始し,2004年5月,スロバキアらとともに加盟したが,通貨統合(ユーロ)には参加せず,通貨はチェコ・コルナ。 5−6世紀ごろスラブ系のチェコ人,スロバキア人が定着。9世紀に大モラビア王国が成立したが,906年マジャール人の進出で崩壊,東部のスロバキアはマジャール人の支配下に入り,西部のチェコ人はボヘミア王国を形成した。1526年オスマン帝国の脅威を前にハプスブルク家の支配下に入った。1918年オーストリア・ハンガリー二重帝国の解体でスロバキアとともにチェコスロバキア共和国として独立した。第2次大戦中ドイツに併合されたが,戦後独立を回復,その際ズデーテン地方のドイツ人約250万は国外に追放された。1948年2月のクーデタでチェコスロバキア共産党の政権が成立し社会主義国となった。1968年ドゥプチェクが共産党第一書記となり,民主化(プラハの春)が始まったが,ソ連の武力介入で民主派が後退,1969年ドゥプチェクは辞任した。その後,党第一書記(1971年から書記長)になったフサークは対ソ協調をさらに強化し,国内の民主化運動を弾圧した。1989年の民主化運動(ビロード革命)で共産党の独裁体制は崩壊し,市民フォーラムを結成して活動してきたハベルが大統領に選出された。1969年よりチェコとスロバキアの連邦制をとったが,1989年以降,スロバキア側で分離・独立の主張が急速に高まり,1993年チェコとスロバキアはそれぞれ独立の共和国となった。なお,ズデーテン・ドイツ人の追放問題はドイツとチェコの間のしこりとなっていたが,1997年両国間で和解協定が調印された。チェコスロバキア時代から3期大統領をつとめたハベルは2003年2月退任し,クラウスが後任に選出された(2008年3月再任)。2010年5月の下院選挙では,社会民主党が第1党となったが過半数を大きく割り込み,第2党の市民民主党と新党の〈トップ09〉と〈公共〉が中道右派連立政権を発足させ,市民民主党党首のペトル・ネチャスが首相となった。しかし同年10月の上院選挙,2012年10月の改選上院選挙では社会民主党が議席を増やし,上下院のねじれ状態が強まった。2013年の大統領選挙では,社会民主党を離れ2009年に市民権党を設立したミロシュ・ゼマンが決選投票で選出された。2013年10月に行われた下院繰り上げ総選挙の結果,ソボトカ社会民主党(CSSD)を首班とする連立政権が樹立され,2014年2月にソボトカ政権が正式に発足した。経済は,2009年の世界金融危機による打撃で急激に悪化,2009年はマイナス4.7%にまで落ち込んだ。その後ドイツの景気回復にともない若干のプラスに転じたが,深刻化するユーロ危機欧州債務問題による景気低迷で2012年は再びマイナス成長となった。しかし,2013年は第4四半期になって回復の傾向が見られ,2014年は2.6%の成長。政府は,財政赤字削減,緊縮財政政策を堅持しているが,成長策とのバランスをどのように取るか,難しい選択が続いている。→チェコスロバキア中欧
→関連項目パラツキープラハ大学

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旺文社世界史事典 三訂版 「チェコ」の解説

チェコ
Czecho

ドイツの東隣,ポーランドの南に位置するヨーロッパ中部の内陸国。首都プラハ
【古代〜近代】5世紀末〜6世紀に西スラヴ系のチェック(チェコ)人が定住。7世紀のスラヴ人の部族連合国家サモ王国をへて,9世紀にスロヴァキア(スロヴァク)人と統一国家の大モラヴィア王国を形成して繁栄。しかし,10世紀初めにマジャール人の侵入で同国が崩壊したのち,スロヴァキア地方は以後約1000年にわたりハンガリーの支配下に組み込まれたが,チェコ地方ではプシェミスル朝のもとでベーメン(ボヘミア)王国が建てられ,カトリックを受け入れた。11世紀になると神聖ローマ帝国に編入され,1300年にはベーメン王がポーランド・ハンガリー王をも兼ねた。1306年にスラヴ系のプシェミスル朝が断絶すると,王国はそれ以後,異民族に支配されることとなった。ドイツ出身のルクセンブルク朝時代,ベーメン王国は全盛期を迎え,カレル1世は1348年プラハ大学をつくり,55年神聖ローマ皇帝に即位(カール4世)し,翌56年には金印勅書を発布した。15世紀初め,フスによって宗教改革運動が起こると,チェック人の民族的自覚も生まれた。コンスタンツ公会議でフスを異端として処刑した神聖ローマ皇帝ジギスムント(カール4世の子)がベーメン王を兼ねると,カトリック政策が打ち出された。これに対しフス派新教徒によって,1419〜36年にフス戦争が起きた。その後,1471年からはポーランドのヤゲウォ(ヤゲロー)家の統治下に置かれ,1526年のハンガリーでのモハーチの戦い以後,婚姻関係によってオーストリアのハプスブルク家の領土に組み込まれた。国王フェルディナント2世の新教徒弾圧に対して1618年からベーメンの反乱が起こり,これが起因となってドイツで三十年戦争が始まった。これ以後,ベーメンはカトリック教国となり,ハプスブルク家に完全に支配された。1848年,二月革命の影響下,パラツキーの提唱によってプラハでスラヴ民族会議が開催されたが,意見の対立とオーストリアの弾圧で,この民族運動は挫折した。1867年以降はオーストリア−ハンガリー帝国の支配下に置かれると同時に,豊かな地下資源を背景に,ベーメンは二重帝国内で最も工業化の進む地域となったが,民族的差別政策のもとに置かれた。
【20世紀の動向】第一次世界大戦中の1918年になると,マサリクの指導で独立運動が急速に進み,大戦終了直前の1918年10月末,チェコスロヴァキア共和国としてオーストリアから独立した。戦間期のチェコスロヴァキアは,大統領マサリクの指導のもと,西欧型の民主主義が形成され,小協商国を形成した東欧諸国やフランスとの結びつきを強め,マサリクの死去する1935年まで繁栄を維持した。しかし,1938年にはいるとスロヴァキアのチェコに対する自治要求とともに,ズデーテン地方のドイツ系住民による分離要求が高まる中,ヒトラーによるズデーテン地方の割譲要求が出された。チェコスロヴァキア不在のミュンヘン会談でこの要求が認められると,翌1939年3月チェコ(ベーメン・メーレン)地域は併合され,スロヴァキア地域は保護国化され,チェコスロヴァキアが解体された。第二次世界大戦中は対独抵抗運動が続き,1945年5月,ソ連軍の支援で首都プラハが解放され,スロヴァキアとともにチェコスロヴァキア共和国を再興した。大統領ベネシュのもと,共産党が第一党になったものの議会政治が維持されていたが,マーシャル−プラン参加を決定したあたりからソ連の圧力が強まり,1948年2月に社会主義クーデタが発生した。その後,国名はチェコスロヴァキア人民民主共和国と改称され,人民民主主義型の社会主義が進められる中,1960年国名がチェコスロヴァキア社会主義共和国と改称された。1968年“プラハの春”と呼ばれる自由化運動が高揚するが,ソ連・東欧諸国軍の介入で弾圧された。改革の挫折後,1969年から同国はチェコ共和国とスロヴァキア共和国からなる社会主義連邦共和国に移行。フサーク政権下,表面的にはソ連の指導に従っていたが,1977年には文化人・労働者・聖職者らが基本的人権の擁護を訴える「憲章77」を発表。1989年の東欧諸国の民主革命が進む中,同年11月反体制知識人らが「市民フォーラム」を結成。共産党指導部が総退陣し,複数政党制に移行し,12月「市民フォーラム」代表の劇作家ハヴェルが新大統領に選出された。この一連の運動は「ビロード革命」と呼ばれた。1990年4月の憲法改正で国名も「チェコおよびスロヴァキア連邦共和国」と改称され,6月の自由選挙でチェコ共和国の「市民フォーラム」とスロヴァキアの姉妹党「暴力に反対する大衆」が圧勝した。しかしその後,チェコとスロヴァキアの利害対立が表面化し,1993年1月,連邦制が消滅して,チェコ共和国とスロヴァキア共和国とに分離した。その後,市場経済化のもとで経済回復の兆しが生まれ,国営企業の民営化も順調に進められている。1996年には東欧諸国で初めて経済協力開発機構(OECD)に加盟,またヨーロッパ連合(EU)への正式加盟を申請した。1998年にハヴェル大統領が再選され,西欧諸国との外交関係強化を継続している。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チェコ」の意味・わかりやすい解説

チェコ
Czech

正式名称 チェコ共和国 Česká Republika。
面積 7万8870km2
人口 1071万6000(2021推計)。
首都 プラハ

ヨーロッパ中部,ドイツの東,スロバキアの西に位置する内陸国。西のチェヒ地方(→ボヘミア)と,東のモラバ地方(→モラビア)からなり,国土の大半が低山に囲まれた盆地。気候は大陸性気候海洋性気候の混合で,海洋性気候の特徴は東部へ向かうほど弱まる。年平均気温は西端のヘプで 7℃,南東部のブルノで 9℃。年間降水量はボヘミア盆地で 450mm,最多月は 7月,最少月は 2月。6世紀までにスラブ人がボヘミアに定住するようになり,8世紀末にはモラビアにも勢力を広げた。モラビアは 9世紀半ばに大モラビア国を形成したが 10世紀初頭にマジャール族に滅ぼされた。代わってボヘミアが台頭したが,1526年ともにハプスブルク家の勢力下に置かれた。19世紀に入って民族主義の意識が高まり,1918年スロバキアとともに独立し,チェコスロバキア共和国を形成した。1969年連邦制の実施でチェコは,チェコスロバキア社会主義共和国の一連邦となり,1993年1月連邦が解体し独立した。1999年北大西洋条約機構 NATOに,2004年ヨーロッパ連合 EUに加盟。住民の 90%以上がチェコ人(ボヘミア人)とモラビア人で,公用語はチェコ語(チェック語)。キリスト教のカトリック信者が約 1割で,無宗教の者も多数いる。分離したスロバキアに比べ高度に工業化が進んでおり,エンジニアリングが最大の産業。次いで食品,エレクトロニクス,化学などの産業が有力。社会主義体制の崩壊後,1990年代初めに実施された経済改革が奏効してめざましい経済成長と低失業率を実現し,西側諸国の一員として認められた。輸出入とも機械類,輸送機器が主。(→チェコスロバキア史

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「チェコ」の解説

チェコ

ボヘミア
モラヴィア

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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