チュアン・リークパイ
Chuan Leekpai
[生]1938.7.28. ムアン
タイの政治家。首相(在任 1992~95,1997~2001)。教員の家庭に育ち,タマサート大学を卒業して弁護士となる。1969年下院議員に初当選,閣僚を歴任したあと,1991年民主党党首に就任。1992年スチンダ・クラパユン陸軍司令官の首相就任に反発する野党や学生による大規模な抗議行動を政府が武力弾圧し,流血の事態に発展した。スチンダ首相退陣後,アナン・パンヤラチュン暫定首相のもとで選挙が実施され,民主党が第一党となり首相に就任した。1995年選挙に敗れて首相の座をおりたが,1997年首相に返り咲いた。2001年選挙で民主党が大敗を喫し,首相を辞任した。タイで初めて,貴族,軍のいずれの後ろだてもなく首相に上りつめた。
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チュアン・リークパイ
チュアンリークパイ
Chuan Leekpai
- 国籍
- タイ
- 専門
- 政治家
- 肩書
- タイ首相;タイ民主党党首
- 資格
- 弁護士
- 別名
- 中国名=呂/基文
- 生年月日
- 1938/7/28
- 出生地
- トラン県トラン
- 学歴
- タマサート大学法学部卒
- 経歴
- 家が貧しかったためバンコクで寺に寄宿しながら絵画・彫刻学校に通い、名門タマサート大学法学部卒業後、弁護士になる。1969年総選挙にトラン県からタイ民主党候補として当選して以来、連続8回当選。この間’76年に第2次セニ内閣の司法相を務めたのを皮切りに、首相府相、’80〜86年のプレム政権時代には法相、商務相、農業・組合相、教育相を歴任し、’86〜88年下院議長、’89〜90年チャチャイ政権の副首相を務め、’91年のクーデターで下野。民主党副党首を経て、’91年1月から党首。’92年5月の民主化運動への流血事件では、道義党指導者チャムロンとは一線を画し、議会内で軍政批判を続けた。同年9月の総選挙で第1党となり、連立内閣の首相に就任。’95年7月の総選挙で敗北し、首相辞任。’97年11月チャワリット首相辞任で首相復帰。国防相兼任。’98年10月野党第2党の国家開発党を加え、内閣改造。2001年1月の総選挙で大敗し退任。2003年4月党首辞任。国会議員になってからも母親がトランの市場で野菜売りを続けるなど庶民的な面も有名。1994年来日。
出典 日外アソシエーツ「現代外国人名録2012」(2012年刊)現代外国人名録2012について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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