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チンギス・ハーン Chinggis Khan

世界大百科事典 第2版の解説

チンギス・ハーン【Chinggis Khan】

1167‐1227
モンゴル帝国の建設者。在位1206‐27年。元の太祖。名はテムジンTemüjin(鉄木真),モンゴル部の名門氏族キャト氏の出身。オノン川上流の地(モンゴル国北東部ダダル・ソム)に生まれた。生年については,諸説ある。1162年説,1154年説,1155年説などである。父イエスゲイYesügeiは,朝の支援を受けてモンゴル部の弱体化を図るタタール部との戦闘に活躍し,第3代部族長クトトラの没後には次の部族長の有力候補者になっていた。

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世界大百科事典内のチンギス・ハーンの言及

【オノン[川]】より

…流域のほとんどが森林ステップと純ステップのため,遊牧民の活動の場であった。チンギス・ハーンが生まれたのはその流域のデリウン・ボルダク(モンゴルのダダル・ソムとされる)であり,彼が1206年にモンゴル帝国を建てて即位したのも,この川の上源の地であった。【吉田 順一】。…

【感精伝説】より

…《元朝秘史》によれば,ドブン・メルゲンの未亡人のアラン姫は,寝室の天窓から入った黄色い光により妊娠し,3人の子を生んだ。その末子のボドン・チャルの12世の子孫がチンギス・ハーンである。日光感精伝承のなかには,父親探し型というべきものがある。…

【ケシク】より

…しかし当時の文献では怯薛(ケシク),怯薛歹(ケシクテイ)(あるいは怯薛丹(ケシクタン))の両方の形が確認され,簡単に決められない。1204年チンギス・ハーンが80人の宿衛(kebte’ül),70人の侍衛(turkha’ud),400人の箭筒士(khorchi)を設置したのがはじまり。2年後,モンゴル高原を統一すると,宿衛・箭筒士各1000人,侍衛8000人の合計1万人に拡充し,全体を4班に分け,各班の長には勲臣ボオルチュ,ムハリ,ボロクル,チラウンの4人の一族を起用して各班が3昼夜交代制で勤務し,12日間で一巡するしくみとした。…

【全真教】より

…また,金の世宗が七真の一人,王玉陽を召し天長観に住まわせ長生の要を問うたことも,教線の伸張にあずかって力があった。 13世紀の初葉,モンゴルの勢力が伸張すると,山東地方で布教していた丘処機は,チンギス・ハーンの招聘をうけて西遊し,インダス川上流のオルダ(行宮)にあった彼と会見した。この会見においてチンギス・ハーンより長生の道を問われた丘処機の答えは《玄風慶会録》に詳しい。…

【モンゴリア】より

…しかし金はモンゴリアへは力を伸ばすことができず,モンゴリアはトルコ系,モンゴル系の大小の遊牧集団が互いに争うようになった。 12世紀末,モンゴル部にテムジン(チンギス・ハーン)が現れ,モンゴル族を統一,さらに1206年に,モンゴリア全体を統一した。チンギス・ハーンはその後西夏,金への遠征を行うとともに,19年には中央アジアへ兵を進め,ホラズム王国を滅ぼした。…

【モンゴル帝国】より

…1206年にモンゴル部出身のチンギス・ハーンがモンゴル高原の遊牧諸部を統一して建て,のち彼とその子孫がユーラシア各地に支配を拡大した帝国。
[成立過程]
 モンゴル部は,唐代に蒙兀(もうごつ)(蒙瓦)の名で史料に初登場する。…

※「チンギス・ハーン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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