世界大百科事典(旧版)内のツァールスコエ・セローの言及
【プーシキン】より
…人口9万4900(1993)。1728年から1918年までツァールスコエ・セローTsarskoe Selo,37年までジェツコエ・セローDetskoe Seloと称された。プーシキン死後100年を記念して現在の名称となった。…
【プーシキン】より
…このアフリカの血はプーシキンの気質や相貌に明らかに現れている。1811年,ツァールスコエ・セロー(現,プーシキン)に開校された貴族の子弟のためのリツェイ(学習院)に1期生として入学,詩作で頭角を現し,在学中に約150編の詩を書いた(初めはフランス語による詩作が多かった)。進級公開試験に際し朗読した詩《ツァールスコエ・セローの思い出》(1815)で列席していた詩壇の長老デルジャービンの祝福を受け,リツェイ外にもプーシキンの名は知られるようになった。…
※「ツァールスコエ・セロー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」