テンプル(英語表記)Shirley Temple

精選版 日本国語大辞典 「テンプル」の意味・読み・例文・類語

テンプル

〘名〙 (temple)
① こめかみ。側頭。
※瀕死の青春(1957)〈井上友一郎〉三「右ストレートが、大和田のテンプル(こめかみ)へ、見事なカッティング・ブローとなって」
② 眼鏡のつる。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「テンプル」の意味・読み・例文・類語

テンプル(temple)

こめかみ。
眼鏡の、つる。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「テンプル」の意味・わかりやすい解説

テンプル
Shirley Temple
生没年:1928-

アメリカの映画女優。〈世界一かわいい子ども〉として人々に愛され,〈その笑顔がアメリカに不況を切りぬけさせた〉とローズベルト大統領に感謝されたというほどの不世出の子役スター。

 カリフォルニア州サンタ・モニカ生れ。母のすすめで3歳からダンスのレッスンに通ううちタレント・スカウトの目にとまり,幼児ばかりのキャストでヒット映画をパロディ化する1巻ものの短編《ベビー・バーレスク》シリーズに出演。数本の映画の端役をへて,レビュー映画《歓呼の嵐》(1934)で《ベビー・テイク・ア・バウ》を歌い踊って注目を浴び,つづく《可愛いマーカちゃん》(1934)で人気が沸騰,年末に封切られた《輝く瞳》(1934)ではタイトルの前に名まえが出され大スターの扱いとなった。翌年のアカデミー賞では6歳にして〈映画娯楽への顕著な貢献〉に対する特別賞を与えられる(これは現在もアカデミー賞の最年少受賞記録である)。1935-38年の4年連続で〈マネー・メーキング・スター〉の第1位に選ばれ,〈シャーリー・テンプル人形〉をはじめとするノベルティ商品が世界中で製造された。また,主演作の題名にもなった巻毛(《テムプルちゃんお芽出度う》(1935)の原題は《カーリー・トップ》)も流行した。年に2~4本つくられた主演映画には必ず歌と踊りの見せ場があるが,なかでも《小聯隊長》(1935),《テムプルの愛国者》(1936)など4本でコンビを組んだ黒人ダンサー,ビル・ロビンソン(愛称ボージャングルズ)とのタップ・ダンス,とくに階段をつかったそれは有名である。

 人気の延命策として《軍使》(1937)ではジョン・フォード,《農園の寵児》(1938)ではアラン・ドワンと第一級の監督を起用し,《テンプルちゃんの小公女》(1939)ではカラー作品にするなど作品の強化がはかられたが,MGMの《オズの魔法使い》(1939)に対抗してつくられた《青い鳥》(1940)が興行的に惨敗して子役スターとしての限界を証明(皮肉なことに,《オズの魔法使い》はMGMが自社のスター,ジーン・ハーローと交換に20世紀フォックスのシャーリー・テンプルを借り出して主演させようとした企画であったが,ハーローの死(1937)によってテンプル主演が見送られたという経緯がある),たちまち〈過去の子ども〉となっていった。《軍使》の西部劇版ともいうべきジョン・フォード監督による《アパッチ砦》(1948)など10余本の映画に〈娘役〉で出演したが,50年に映画界から引退した。

 1945年に結婚した俳優ジャック・エイガーと49年に離婚。50年に実業家チャールズ・ブラックと再婚(したがって現在はシャーリー・テンプル・ブラックを名のっている)。58年と60年にはテレビで彼女の名まえを冠した子ども向けのおとぎ話のシリーズにホステス兼ナレーターとして出演。68年,ニクソン大統領に国連代表委員に任命され,74年から76年にかけてフォード大統領の任命でガーナ大使をつとめるなど,その後は政界で活躍している。
執筆者:

テンプル
William Temple
生没年:1881-1944

英国国教会の聖職者,カンタベリー大主教オックスフォードで学び,マンチェスター主教(1921),ヨーク大主教(1929)を経て,1942年カンタベリー大主教。教会合同運動の指導者として世界会議の議長を務めるかたわら,社会問題,政治問題にも関心が深く,国の内外を問わず,正義と平等に基づく社会の実現のために尽くした。哲学者としては新ヘーゲル主義から出発し,独自の宗教哲学を構築した。主著《自然,人間,神》(1934)。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「テンプル」の意味・わかりやすい解説

テンプル
Temple, Shirley

[生]1928.4.23. カリフォルニア,サンタモニカ
[没]2014.2.10. カリフォルニア,ウッドサイド
アメリカ合衆国の子役スター。フルネーム Shirley Jane Temple。結婚後は Shirley Temple Black。1930年代に子役スターとして世界的人気を誇った。3歳のときダンス教室から選ばれて,短編コメディ映画シリーズ "Baby Burlesks"に出演。長編初出演となったミュージカル映画『歓呼の嵐』Stand Up and Cheer(1934)の成功を機に次々と映画出演をこなし,翌 1935年アカデミー賞特別賞を受賞した。『輝く瞳』Bright Eyes(1934)で歌った "On the Good Ship Lollipop"は有名。1935年から 1938年まではハリウッド一の稼ぎ頭となり,『小聯隊長』The Little Colonel(1935),『農園の寵児』Rebecca of Sunnybrook Farm(1938)などのヒット作を次々と生み出した。元気いっぱいの歌と踊り,えくぼ,ブロンドの巻き毛,そして映画のもつ単純で楽観的な雰囲気は,とりわけテンプルの絶頂期だった大不況時代にあってはきわめて魅力的だった。しかし 1940年代に入ると人気にかげりがみえ始める。1950年映画界を引退し,チャールズ・A.ブラックと結婚。1967年にはカリフォルニア州下院議員選挙で落選したものの,1969年から 1970年まで国連総会アメリカ代表を務め,その後もガーナ大使(1974~76),ジェラルド・R.フォード大統領の儀典長(1976~77),チェコスロバキア大使(1989~92)などの役職を歴任した。

テンプル
Temple, Sir William

[生]1628.4.25. ロンドン
[没]1699.1.27. サリー,ムーアパーク
イギリスの外交官,著述家。アイルランド議会議員を経て 1665年ブリュッセル駐在使節,68年フランスに対抗するオランダスウェーデンとの三国同盟締結に尽力。同年ハーグ駐在大使となったが,国王チャールズ2世の対フランス接近により 70年引退。 74年再度ハーグ駐在大使となり,77年オランニェ公ウィレム (のちのウィリアム3世 ) とメアリー (のちのメアリー2世 ) の結婚を成立させた。 79年枢密顧問官となったが,81年辞職して引退。散文体の模範として知られる多くの著述を残し,また J.スウィフトパトロンとしても知られる。

テンプル
Temple, William

[生]1881.10.15. エクセター
[没]1944.10.26. ウェストゲートオンシー
イギリス国教会アングリカン・チャーチ)の神学者,カンタベリー大主教。オックスフォード大学を卒業後,各教区の聖職を経て,1929~42年ヨーク大主教,1942~44年カンタベリー大主教。その知的で清新な時代感覚をもって,宗教,哲学,社会問題について多くの論文を著し,またエキュメニズムを指導するなど,ジョン・ヘンリー・ニューマン以後のイギリスの最も影響力ある聖職者となった。主著『キリストの真理』Christus Veritas(1924),『自然,人間,神』Nature, Man, and God(1934)。

テンプル
Temple, Frederick

[生]1821.11.30. ギリシア,ルーカス
[没]1902.12.23. ロンドン
イギリスの聖職者,教育改革家。オックスフォード大学在学中にオックスフォード運動の影響を受けたが不参加。 1847年司祭となる。翌年教育省に入り,57年にはラグビー校の校長となり,古典的な中等教育のカリキュラム改編に尽力。 96年カンタベリー大主教に叙せられ,イギリス国教会の統一のために献身した。主著『宗教と科学の関係』 The Relation between Religion and Science (1844)。

テンプル
Temple

アメリカ合衆国,テキサス州中部の都市。リトル川の岸にあり,1880年ガルフ・コロラド・サンタフェ鉄道会社によって建設された。まもなくミズーリ・カンザス・テキサス鉄道が通じ,その分岐点,修理工場の所在地になった。家畜および農産物の集散地。人口4万 6109 (1990) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「テンプル」の意味・わかりやすい解説

テンプル

アメリカの女優,外交官。カリフォルニア州サンタモニカに生まれる。1931年3歳の頃にダンスと音楽に強い関心を示したことで,母親がダンス・スクールに入学させたといわれる。1933年フォックス・フィルム(20世紀フォックスの前身)に見いだされ子役として映画出演,パラマウント映画に貸し出されて撮影された《可愛いマーカちゃん》で全米を熱狂させる子役スターとなり,30年代のすべての映画スターの中で最も格が高いスター,といわれアメリカの象徴的存在となった。ルーズベルト大統領がラジオ番組《炉辺談話》で〈大不況のさなか,アメリカ国民が映画でシャーリー・テンプルの笑顔を見て苦労を忘れることが出来るのは素晴らしいことだ〉と語ったという有名なエピソードが残されている。以後子役から少女スター,ティーンアイドルスターへと,スターであり続けることにも成功,外交官,実業家としての活動も加わって生涯にわたりアメリカのもっとも有名な人物の1人であり続けた。政治的には一貫して共和党中道派に属した。外交官としてはアメリカの国連代表の1人となるなど,1970年代前半に環境問題・青少年問題・人権問題に関する多くの国際会議でアメリカ代表として活躍。1974年から1976年にかけて駐ガーナ・米国特命全権大使,1989年から1992年までソ連崩壊で揺れるチェコスロバキアで大使を務めている。実業家としてもバンク・オブ・アメリカ,デルモンテ,ウォルト・ディズニーカンパニーなどの役員を歴任した。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル大辞泉プラス 「テンプル」の解説

テンプル

ジョンソンが製造・販売する廃油処理剤のブランド名。使用した油に粉末を入れて固めて捨てる「固めるテンプル」と、油を天然パルプ素材に吸収させて捨てる「吸わせるテンプル」がある。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のテンプルの言及

【アングリカン・チャーチ】より

…英国国教会は伝統的に聖職会議Convocationによって意思決定をしてきたが,現在では他の管区にならって,信徒も加えた総会を聖職会議に代わる意思決定機関としている。今世紀に入って教会合同運動が始まると,アングリカン・チャーチはカトリックとプロテスタントの間の橋渡し的存在としての特異な地位を利用して,運動の進展に積極的にかかわり,ブレントCharles Henry Brent,W.テンプルら優れた指導者が教会間の話合いを促進し,世界教会協議会の成立に尽くした。他方ローマ・カトリック教会との話合いも進められ,アングリカン・チャーチの特異な地位を認めた第2バチカン公会議終了後,聖公会=ローマ・カトリック教会国際委員会が発足し,現在までに〈ユーカリストの教理〉(1971),〈奉仕職の教理〉(1973),〈権威の問題〉(1976)に関して合意声明を公表している。…

【キリスト教社会主義】より

…その際R.オーエンやサン・シモンの社会主義の影響があったと見られる。第1次大戦後W.テンプルの指導により,バーミンガムで〈キリスト教政治・経済・市民生活に関する会議(COPEC)〉が開かれた。この運動はほぼ同時にヨーロッパ各国に起こり,ドイツではトートR.Todt,シュテッカーA.Stoecker,ナウマンF.Naumannらが指導して〈福音主義的社会主義会議〉を持った。…

【福祉国家】より

…現代的な意味で福祉国家という用語が用いられたのは,1930年代の終り,大恐慌のもとで市民の福祉を追求する民主主義政体への懸念が高まっていたとき,著名なオックスフォードの学者ジマンAlfred Zimmern(1879‐1957)がファシスト独裁の権力国家に対照させたのが始まりだといわれている。しかしこの用語を文書の中に初めて載せたのは,イギリスのヨークの大主教W.テンプルである。彼はその著《市民と教会員》(1941)の中で,国家は一般市民の福祉向上のために存在するものであると規定したが,〈ベバリッジ報告〉(1942)にこの用語が用いられてからイギリスで広く用いられ,ファシズムに対するイギリスならびに連合国の戦争目的を明らかにし,国民の戦意高揚にも大きな役割を果たした。…

※「テンプル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android