デュベレー(英語表記)Joachim Du Bellay

改訂新版 世界大百科事典 「デュベレー」の意味・わかりやすい解説

デュ・ベレー
Joachim Du Bellay
生没年:1522-60

フランス,ルネサンス期の詩人アンジュー地方の小貴族の家に生まれる。1544年ポアティエに学び詩作に目覚め,46年盟友ロンサールと出あいその推薦によって翌年パリのコクレ学寮にはいる。49年散文の論説《フランス語の擁護顕揚》を発表したが,これはのちに〈プレイヤード派〉と名付けられる,共通の新しい文芸理論を抱くグループの意見を代表するものであった。すなわち,フランス語は文学表現の手段として用いられて当然であるが,そのためには古代文芸,イタリア文学にならって内容を充実すべきであり,新語の導入,新詩型の移入修辞の工夫等に努力を払いつつ誇りと自覚をもって創作をおこなうことを説く。詩集《オリーブ》(1549)はペトラルカらを模した〈ソネ〉(十四行詩)50編より成り,みずからの主張を実践するものであった。53年一門の顕官ジャン・デュ・ベレーに従ってローマに赴き,4年間の滞在中に《ローマの古跡》《哀惜詩集》《田園遊楽詩集》(すべて1558)を構成する詩編を綴った。第1のものはみずからの視座を意識しつつ古代ローマの文化を賛美するソネ集,第2のものは彼の最高傑作とされる191編のソネ集で,現実のローマの生活で体験される偽善悪徳風刺嘲笑し,望郷の悲痛な思いを吐露する。デュ・ベレーはこれらの詩集で彼自身の真率心情,繊細な感受性から発する個性的な流麗かつ調和ある表現を展開し,模倣を超えた真の創出を実現した。病苦のうちに死去
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のデュベレーの言及

【ヨーロッパ】より

…第2の層は,王権の基盤である北フランスのオイル語,とりわけパリ地域で用いられてきたフランシアン方言を基準とする標準フランス語であった。人文主義者の一人J.デュ・ベレーは《フランス語の擁護と顕揚》(1549)において,この美しい〈フランス語〉を擁護する。その活動が全国的な人と物の流通の上に成立するブルジョアジーは,この国民語をこそ推奨しなければならない。…

【ラブレー】より

…以後新作出版のたびに神学部やパリ高等法院の追及を受け,著書は発禁,作者は亡命を繰り返すことになる。ただ幸いにも彼は人文主義的な重臣デュ・ベレー兄弟らに愛され,1534,35‐36,47‐49年の3回にわたって弟のパリ司教ジャンの侍医兼秘書としてローマその他に滞在し,古代文化に直接触れ,各地の人文学者と交流の機を得たし,1551年には生活の資となる二つの司祭職も与えられた。また1539‐40,41,42年にはフランス占領下の北イタリア,ピエモンテ地方総督代理となった兄ギヨームに随行し,トリノに滞在している。…

※「デュベレー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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