トルクメニスタン(読み)とるくめにすたん(英語表記)Republic of Turkmenistan 英語

精選版 日本国語大辞典 「トルクメニスタン」の意味・読み・例文・類語

トルクメニスタン

(Turkmenistan) 中央アジア南西部、アム川とカスピ海との間にある国。大部分をカラクム砂漠が占める。住民の過半数はトルクメン人。一九世紀末ロシアの支配下に入り、一九二四年ソ連邦構成共和国の一つ、トルクメン‐ソビエト社会主義共和国となる。九一年ソ連邦解体に伴い独立、改称。綿・石油の産地。首都アシガバット。

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デジタル大辞泉 「トルクメニスタン」の意味・読み・例文・類語

トルクメニスタン(Türkmenistan/〈英〉Turkmenistan)

中央アジアの南西部、アムダリアから西はカスピ海までの地域を占める共和国。東はアフガニスタン、南はイランと接する。首都アシガバット。1991年にソ連邦解体に伴い独立、1995年より永世中立国。砂漠が多く、灌漑かんがい農業や牧畜が行われ、また石油などを産する。人口494万(2010)。旧称トルクメン。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「トルクメニスタン」の意味・わかりやすい解説

トルクメニスタン
とるくめにすたん
Republic of Turkmenistan 英語
Turkmenostan Respublikasy トルクメン語
Республика Туркменистан/Respublika Turkmenistan ロシア語

中央アジアに位置する共和国。かつてはソビエト連邦を構成する15共和国の一つ、トルクメン・ソビエト社会主義共和国Туркменская ССР/Turkmenskaya SSRであったが、ソ連崩壊(1991年12月)直前の1991年10月独立を宣言、従来の地域名を採用してトルクメニスタンと改称した。トルクメンと別称する。トルクメンは同共和国の住民トルクメン人を意味する。ロシア語でトルクメニヤТуркмения/Turkmeniyaともいう。南はイラン、アフガニスタン、北はカザフスタン、北から東にかけてウズベキスタンに接し、西はカスピ海に面する。面積48万8100平方キロメートル、人口512万4000(2003推計)、530万(2014年国連人口基金)。住民の81%をトルクメン人が占め、ほかにウズベク人(9.0%)、ロシア人(3.5%)などが住んでいる。首都アシガバート(旧称アシュハバード)のほか、トルクメナバート(旧称チャルジョウ)、ネビト・ダグNebit Dag、バイラマリーBayramaly(バイラム・アリBairam Ali)などの新興都市がある。5州に分かれており、42地方自治区、15都市、74町村からなる。

[山下脩二]

自然

国土の大半はカラクム砂漠(約35万平方キロメートル)で占められている。南部のイラン、アフガニスタンとの国境付近にコペト・ダグ山地、バドフィズとカラビリの高地がある。したがって、気候は砂漠気候の特徴を示し、年平均気温は14℃~15℃、夏の平均気温35℃、カラクム砂漠南東部のレペテクでは最高気温50℃の記録がある。年降水量は80~280ミリメートルである。主要河川はアムダリヤ、ムルガーブ、テジェン、アトレクであるが、大河はなく、つねに水不足の状態であった。国内で唯一の水量豊富な川はアムダリヤで、1954年に中流よりカラクム砂漠を横断する大規模なカラクム運河の建設が進められ、1986年に完成した。灌漑(かんがい)用水のほか、水運、飲料水にも活用できる。

[山下脩二]

歴史

コペト・ダグ山地の麓(ふもと)のアナウに、紀元前2000年以上前の農耕遺跡のアナウ遺跡がある。トルクメニアの地域は前6~前4世紀イランに、紀元後7~8世紀アラブに、13世紀モンゴルに征服され、16世紀ヒバ・ハン国およびブハラ・ハン国の一部となり、一部はイラン人の支配下に入った。トルクメン人はオグズの一分派といわれ、トルコ語系の言語を話し、遊牧を行っていたが、19世紀後半ロシアのトルクメニア進出とともにロシアに征服された。1880~1888年ザカスピ鉄道の建設によって、ロシアとの経済関係も強まる。1917年12月アシュハバード(アシガバート)でソビエト政権樹立が宣言され、1918年春トルキスタン共和国形成とともにその一部となった。同年7月アシュハバードで暴動が発生、8月イギリス干渉軍が侵入するが、1920年2月までには全土にソビエト政権が復活し、同年ヒバ、ブハラでも人民ソビエト革命が成功、1924年中央アジア民族的境界区分によって現在の国境が形成され、1925年ウズベキスタンとともにソ連の構成共和国としてトルクメン・ソビエト社会主義共和国が発足した。1920~1922年、1925~1927年の土地・水利改革により、また1930~1931年農耕地帯の、1932~1935年畜産地帯の集団化によって、地主、富農は一掃された。

[木村英亮]

政治

1980年代後半、ソ連でペレストロイカ(改革)が進行しているなか、社会主義共和国最高会議議長で、共産党第一書記であったニヤゾフSaparmurad Niyazov(1940―2006)が、1990年10月27日に競争相手なしで大統領に選出された。1991年10月27日にソ連からの独立を宣言し、12月21日に他の国とともに独立国家共同体(CIS)に加盟した。共産党は1991年12月に正式に解散されたが、党員の多くは、共産党の資産を引き継ぎ、ニヤゾフが党首の民主党に集まった。その後1992年5月18日に大統領権限を強めた憲法を採択し、6月21日にニヤゾフが大統領に再選された。

 政権党である民主党のほかに、軍人、知識人、農業関係者などのグループがあり、ニヤゾフは農民党も組織して複数政党制の形式を整えたが、アグズイビルリク(統一)など反政府的な政党の活動は封じている。また大統領は、1994年1月15日の国民投票によって、2002年まで任期を延長し、12月11日の初の議会(マジュリス)選挙では、民主党が圧倒的な勝利をおさめた。1999年議会は憲法を改正して大統領の任期を無期限とし、2002年にニヤゾフを終身の大統領とし、長期にわたる独裁体制が続いたが、2006年12月にニヤゾフが急死。2007年2月に大統領選が行われ、ニヤゾフの死後より大統領代行をつとめたベルドイムハメドフGurbanguly Berdimuhamedov(1957― )が選出された(2012年2月再選)。議会は一院制で議員定数は125、直接選挙で選ばれ任期は5年。

 イスラム勢力は存在を認められ、サウジアラビア、カタール、イランなどからモスクの建設費やコーランなどの援助を得ているが、イスラム原理主義の影響は小さい。イランとの間にも1996年5月、南部のテジェンからイラン東部のマシャドまで鉄道が開通し、テヘランを経てトルコのイスタンブールまで路線がつながった。

 CISのなかでは独立の立場を守り、1994年10月の経済委員会の設置と共同防衛の文書には1か国だけ調印しなかったが、1995年5月にはロシアと2国間の経済協力協定と軍事協定を結んだ。2005年にCISを脱退し、準加盟国として参加する立場をとる。1991年の独立後、CIS諸国との貿易は縮小し、とくに輸入は輸出の6分の1に減った。トルコ・イスラム諸国との経済機構として、中央アジア5か国のほか、トルコ、イランなどを含めた経済協力機構(ECO)があり(2009年に正式加盟国から準加盟国となる)、またロシア、イランなど5か国でつくるカスピ海協力機構(CSCC)ではキャビアの価格維持のためのカルテル結成などを行っている。なお、1995年12月国連総会で「永世中立国」として承認されている。

[木村英亮]

産業・経済

国土の大半はカラクム砂漠で、ほとんど降雨がなく日照が強く乾燥しているため、灌漑による綿の栽培に依存している。ソ連からの独立後、原綿生産は若干減少したが、穀物生産は1985年の31.6万トンから1994年の113万トンへ増大し、これは食糧自給体制づくりへ政策転換が行われたことを示している。農業の中心は綿花生産で、そのほか小麦、トウモロコシ、果物、野菜が栽培される。ウマとカラクルヒツジ、ラクダはブハラ絨毯(じゅうたん)などの原料を供給する。天然ガスの大鉱床があり、石油、鉛、亜鉛、銅、金も豊富である。輸出の大半は非食料・工業原料で、なかでもウクライナなどCIS諸国向けの天然ガスの比重が大きかったが、1997年3月ウクライナ、ジョージアグルジア)などの代金未払問題等のため、これら諸国へのガス輸出を全面的に停止することがあった。天然ガスの大部分はCIS以外の国向けで、イラン、トルコ経由でヨーロッパに至るパイプライン建設計画もあり、1995年9月イランと天然ガスパイプライン建設計画に調印した。イラン向けパイプラインは1997年12月に開通した。しかし、ロシアとの関係は重視しており、1999年ロシアとの間に天然ガスの輸出契約を締結するなど輸出を増加している。日本も1996年(平成8)9月、日本輸出入銀行(現、国際協力銀行)がトルクメンバシ製油所改修に対し130億円の融資を行うことを決定。さらに1997年には、綿花加工工場建設プロジェクトに対して163億円の貸付を実施した。これら二つのプロジェクトは、2000年2月に完成したが、それとは別に1998年には、ポリプロピレン製造プラント向け融資(総額476億円)も行い、2001年10月に完成した。

 小企業の私有化は進められているが、土地、水、石油・ガス工業は国有を維持している。天然ガスなどの資源が豊かで、ソ連解体後の経済活動はCIS諸国のなかで、もっとも落ち込みが少なかったが、1994年ごろから沈滞がみられた。たとえば天然ガス生産量は1989年には832億立方メートルであったが、1994年には356億立方メートルと前年の55%に急減した。石油生産量は1975年には1560万トン、1985年には600万トン、1994年には410万トンに落ちている。2003年時点では天然ガス591億立方メートル、石油1040万トンと生産量の復活がみられるが、これらの分野では新投資による整備が必要とされている。

 2014年の輸出額は197億8200万ドル、輸入額は166億3800万ドルで貿易収支は黒字である。おもな輸出品目は天然ガス、石油、石油製品、織物、綿繊維など、輸入品目は機械設備、原料・資材、消費財(非食料品)などである。おもな輸出相手国は中国、ロシア、イラン、トルコ、輸入相手国はトルコ、ロシア、中国、イランなどである。

 通貨はロシアのルーブルにかえ、1993年11月1日にマナトを導入した。義務教育は10年間(初等・中等教育)。公用語はトルクメン語で、ロシア語も広く通用している。宗教はイスラム教スンニー派が多数を占め、ロシア正教も存在している。

[木村英亮]

『下斗米伸夫著『独立国家共同体への道』(1992・時事通信社)』『緒方修著『シルクロードの未知国(みちのくに)――トルクメニスタン最新事情』(1994・芙蓉書房出版)』『中村泰三著『CIS諸国の民族・経済・社会――ユーラシア国家連合へ』(1995・古今書院)』『中津孝司著『ロシア・ClS経済の変容と再建』(1996・同文館出版)』『橋田担編『中央アジア諸国の開発戦略』(2000・勁草書房)』『小松久男・梅村担他編『中央ユーラシアを知る事典』(2005・平凡社)』『清水陽子著『シルクロードを行く――中央アジア五カ国探訪』(2008・東洋書店)』


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改訂新版 世界大百科事典 「トルクメニスタン」の意味・わかりやすい解説

トルクメニスタン
Turkmenistan

基本情報
正式名称=トルクメニスタン共和国Türkmenistan Jumhuriyäti/Republic of Turkmenistan 
面積=48万8100km2 
人口(2011)=510万人 
首都=アシガバートAshgabat(旧名アシハバード)(日本との時差=-4時間) 
主要言語=トルクメン語(公用語),ロシア語 
通貨=マナトManat

独立国家共同体(CIS)を構成する中央アジアの共和国の一つ。旧ソ連邦の構成国であったトルクメン・ソビエト社会主義共和国が1991年独立し,改称したもの。地域名としてはトルクメニアとも呼ぶ。中央アジア南西部に位置し,南はイラン,アフガニスタンと国境を接し,西はカスピ海に面する。

国土は広いが,大部分はカラクム砂漠で,人口密度は1km2当り9.8人(2004)となっており,CIS諸国のうちではカザフスタンに次ぐ低さである。イランとの国境沿いに走るコペトダグ(コッペダーク)山脈も,標高1000mまでは砂漠で,そのうえ1800mまでは乾燥したステップである。この山脈の北西部にバルハン山脈があり,そのほか南東部にパロパミス,クギタングタウの山脈がある。地下資源としては,石油,天然ガス,地蠟,硫黄,ボウ硝石,ヨード,臭素がある。豊かな日照に恵まれ,CIS諸国でもっとも気温が高い。山脈から流れる河川はほとんど砂漠の中に消えるが,アム・ダリヤのみがアラル海に注ぐ。

 共和国の民族構成は,トルクメン人が73.3%を占め,ロシア人9.8%,ウズベク人9.0%,カザフ人2.0%などとなっている(1993)。人口は河川沿いとコペトダグ山脈ふもとのオアシス地帯に集中しており,都市人口は45.0%(1989)で比較的高い。首都アシガバート(人口60万5000)のほか,チャルジョウChardzhou(現トルクメナバート),ダシュハウズDashhowuz(旧名タシャウズTashauz),マリ,トルクメンバシ(旧名クラスノボーツク)などの都市がある。

トルクメニスタンは,絶えまのない内乱とイラン人の侵入にさらされていたため,個々の民族がロシア政府の保護を求めることはあったが,ロシアの進出の画期となったのは,1869年にN.G.ストレトフの率いるロシア軍がカスピ海の東岸に上陸し,クラスノボーツクの基礎をおいてからである。81年にはアスハバード(現,アシガバート)がロシア軍の手に落ち,82年カフカス総督管区内のザカスピ州とされた。90~97年陸軍大臣の直轄となった後,トルケスタン総督区の一部となる。1880-88年ザカスピ鉄道が敷設されてロシア中央部とつながり,綿花の栽培面積は1890年の983haから1915年の6万2000haに急増,ロシア綿工業の集中的な原綿供給地となった。綿花の精製,綿実の搾油も始まり,石油もカスピ海東岸のチェレケンを中心として採掘されるようになった。

 第1次世界大戦中の1916年後半に,ムスリム(イスラム教徒)を戦時後方労働へ徴集する勅令を契機として起こった中央アジア大反乱には,トルクメン人も積極的に参加した。このとき徴集され,前線でロシア人兵士と接した後方労働者は,革命時に大きな役割を果たすことになる。17年11月中央アジアの中心都市タシケントでソビエト政権が成立した後,12月15日,アスハバードで開かれていた第4回ザカスピ州ソビエト大会はソビエト政権成立を宣言し,7人からなる人民委員会議を選出,この冬に州全域にソビエトが創設された。1917年8月に形成されたアスハバードの州ムスリム委員会は18年2月に解体され,移民管理局も解散されて,赤衛隊がつくられ,トルクメン人の活動家が生まれた。18年4月末トルケスタン自治ソビエト社会主義共和国創設によってザカスピ州はその一部となったが,トルクメニスタンの若干の地域はヒバ・ハーン国ブハラ・ハーン国にとどまった。18年7月11日にはアスハバードで反革命暴動が起こり,ソビエト政権は一時崩壊した。8月12日にはイギリス軍が侵入し,干渉が始まる。イギリス軍は9月20日に26人のバクーのコミッサールをザカスピで殺害した。しかし干渉軍は19年4月には撤退を余儀なくされ,20年2月6日クラスノボーツクも解放され,全土にソビエト政権が復活した。20年にはヒバ人民ソビエト共和国とブハラ人民ソビエト共和国が成立する。

 国内戦の期間にもともと未発達であった工業,石油採掘業,鉄道は荒廃し,播種面積は半分となったが,ただちに復興が始まり,21-22年には土地・水利改革が行われた。24年には中央アジアの国家・民族間の境界画定が行われ,10月,ここにトルクメン・ソビエト社会主義共和国が誕生した。25-27年には第2次土地・水利改革が遂行される。ソ連政府や他の共和国の援助によって近代的工業も創設され,石油・金属加工・繊維・生糸工業などが操業を開始した。30-31年には綿作地域,32-35年には畜産地域で農業経営の集団化が行われ,地主や富農は完全にいなくなった。カラベカウル,クリ・アリクなど多くの灌漑運河や貯水池が建設され,播種面積は1913年の31万8000haから40年には41万0900haへ増大,うち綿花栽培面積は15万0400haであった。

 第2次世界大戦中は,ボルガ川沿岸,北カフカスでのドイツ軍との戦闘で,カスピ海を挟んでその対岸にあるクラスノボーツクやアシハバード鉄道の果たした役割は非常に大きい。共和国の重工業生産も増強された。

第2次大戦後のトルクメニスタン経済の柱は,膨大な石油と天然ガスの開発である。工業ではボウ硝石採掘,化学,建設資材,織物,食品などの部門が発展した。1954年にはアム・ダリヤとカスピ海を結ぶカラクム運河の建設が始まり,90年の播種面積は123万2000ha,綿花を主とする工業原料用作物の栽培面積は62万5000ha,収穫高は145万7000tと,ウズベク(現,ウズベキスタン)共和国に次ぐソ連第2位となった。メロンなどの果物,カラクリ羊などの畜産も特産の一つである。とくに天然ガス,石油の生産量は急増し,電力も1990年に146億kWhとなった。

 トルクメニスタンは,十月革命前は中央アジアでもとくに文化的におくれた地域で,部族的な伝統は根づよい。遊牧民であったトルクメン人の大部分は読み書きができなかったが,今日では定住化し労働者・農民となっており,識字率は100%近い。1991年現在,首都のゴーリキー記念トルクメン大学をはじめ九つの高等教育機関(学生数4万1700),中等専門学校41(同3万3700)などの教育施設がある。医者も91年1万3800人で住民1万人当り36.2人,ベッド数も4万3400床,1万人当り114床と,改善されている。このような社会的・文化的変化は宗教生活にも反映している。土着的なスーフィズムなどムスリムとしてのさまざまな慣習は残っているとしても,イスラム教は経済・政治の面ではその基盤を失っており,この点では,隣接するイランとの関係が今後注目される。

1991年10月27日に独立を宣言し,12月21日にCISに加わった。ニヤゾフ大統領は,もと共産党第一書記で,現在は共産党の党員と資産を引き継いだ民主党の党首である。92年5月18日には新憲法を採択した。ニヤゾフ大統領の権限が強い。CIS諸国のなかでは独立の立場を守ろうとしているが,95年5月にはロシアと2国間の経済協力協定と軍事協定を結んだ。トルコやイスラム諸国との経済機構として,中央アジア5ヵ国やアゼルバイジャンのほかトルコ,イランをふくめた経済協力機構(ECO。1984年に現名となり,92年中央アジア諸国も加盟)があり,ロシア,イランなど5ヵ国ではカスピ海協力機構(CSCC。1992年設立)をつくっている。96年5月には,イランとの鉄道が開通した。輸出のなかでは天然ガスが7割以上(1995)を占め,輸出先としてCIS諸国のなかではウクライナの比重が大きいが,91-93年にはヨーロッパも大きかった。イラン,トルコ経由のパイプライン建設も計画されている。独立後,穀物生産を増やし,自給を図っている。独自の通貨として1993年11月にマナトManatを導入した。
トルクメン族
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百科事典マイペディア 「トルクメニスタン」の意味・わかりやすい解説

トルクメニスタン

◎正式名称−トルクメニスタンTiurkmenostan/Turkmenistan。◎面積−44万8100km2。◎人口−504万人(2010)。◎首都−アシガバートAshgabad(70万人,2012)。◎住民−トルクメン人85%,ウズベク人5%,ロシア人4%など(2005)。◎宗教−イスラム(スンナ派)87%,ロシア正教6%など。◎言語−トルクメン語(公用語),ロシア語。◎通貨−トルクメン・マナトTurkmen Manat。◎元首−大統領,ベルドイムハメドフ Gurbanguly Berdymuhammedov(1957年生れ,2007年2月選出,2012年再選)。大統領が首相を兼任。◎憲法−1992年5月制定。◎国会−一院制(定員125,任期5年)(2013)。◎GDP−183億ドル(2008)。◎1人当りGDP−1564.2ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−35%(1997)。◎平均寿命−男61.4歳,女69.8歳(2013)。◎乳児死亡率−47‰(2010)。◎識字率−99.6%(2009)。    *    *中央アジア西部の共和国。略称トルクメン。住民は7割余のトルクメン人のほか,ウズベク人,ロシア人,カザフ人など。アルメニア人,アゼルバイジャン人や北カフカスからの来住者も多く,非イスラム系の人口が中央アジア諸国の中で最も少ない。国土の大部分はカラクム砂漠で占められ,西端はカスピ海に面する。カラクム運河があり,アム・ダリヤ川,ムルガプ川,テジェン川など流域オアシスで綿花を主とする灌漑(かんがい)農業が行われる。羊,ヤギ,牛の牧畜も盛ん。世界有数の埋蔵量を誇るネビト・ダク周辺の天然ガスと石油をはじめ,地蝋,カラ・ボガズ・ゴル湾岸の硫化鉱,石炭などの鉱産があり,各種工業も興っている。最重要の資源である天然ガスについては,結びつきの強いロシアとの関係に配慮しつつも,輸送ルートの多角化を目指す。特に中国への天然ガス輸出を急増させている。 トルクメン人はトルコ系の民族であるが,1924年社会主義共和国が成立するまで,民族としての統一体を形成したことはなかった。ロシア革命に呼応して中央アジア各地に樹立されたソビエト政権は,1924年の民族間境界画定によって整理統合されたが,その一環としてトルクメン・ソビエト社会主義共和国が樹立され,ソビエト連邦に加わった。1990年に主権宣言を採択し,1991年10月独立した。初代大統領ニヤゾフは,1994年の国民投票で任期を2002年まで延長することが認められ,さらに2000年1月の国民評議会で終身大統領に決まった。今日も部族的な伝統が強く生きており,ニヤゾフ大統領も〈トルクメンの頭領(バシュ)〉の称号をもち,国内の反対派を抑圧する一方,個人崇拝の傾向を強めたが,2006年12月に急死,2007年2月の大統領選挙でベルドイムハメドフが89.23%の得票率で当選し後を継いだ。2008年9月に憲法を改正し,最高意志決定機関であった人民評議会を廃止,選挙による議員選出に基づく議会(メジリス)の権限が大幅に強化された。同年12月には,同国で初めて国際監視団の活動をともなう形で議会選挙が実施された。なお,トルクメニスタンは1995年,国連総会で〈永世中立国〉としての地位が認められている。→トルクメン語
→関連項目ウズベキスタン中央アジアトルキスタントルクメン[人]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トルクメニスタン」の意味・わかりやすい解説

トルクメニスタン
Turkmenistan

正式名称 トルクメニスタン Türkmenistan。
面積 49万1210km2
人口 611万8000(2021推計)。
首都 アシガバート

中央アジア南西部の国。北はカザフスタンウズベキスタン,南はイランアフガニスタンと国境を接し,西はカスピ海に面する。国土の大部分はカラクム砂漠で,南西部にコペトダグ山脈がある。主要河川はアムダリアムルガブ川テジェン川。著しい大陸性気候で,最低気温と最高気温の差が大きく,夏は日中の気温が 35℃以上,砂漠では 50℃に達することもある。冬は気温が下がり,南部のアフガニスタンとの国境では最低気温が-30℃以下になる。かつてのソビエト連邦でも最も乾燥した地域で,年降水量は北東部のアムダリア沿岸低地で 80mm,南西部の山地でも 400mm。チュルク語系諸族トルクメン人が住民の 85%を占め,そのほかにウズベク人,ロシア人,カザフ人などもいる。スンニー派イスラム教徒が多い。トルクメン人の起源は明らかではないが,14~15世紀に今日のトルクメン人が形成されたと考えられる。19世紀にロシアが進出してきたときには,この地域にはいくつもの部族からなる遊牧民が住んでいたが,1881年ロシアに併合。1924年トルクメン=ソビエト社会主義共和国成立。1925年ソビエト連邦構成共和国となったが,1991年10月独立して現国名に改称し,公用語をトルクメン語とした。独立国家共同体 CIS構成国。1992年国際連合加盟。石油,天然ガス,硫黄,カリウム塩,岩塩などの地下資源に恵まれて,これらの資源が開発されている。特に西部での石油生産が盛んで,石油加工部門もつくられ,また硫黄,カリウム塩などをもとに化学工業が発達してきた。在来工業部門である繊維工業は綿,羊毛,絹を原料とした加工部門が発展しており,食品工業(食肉,水産物缶詰,食用油,ワイン)も重要である。住民の半数は農村に住み,ワタ栽培とカラクール種のヒツジの飼育,養蚕を中心に,ブドウその他の果樹,ウリなどの栽培を河川やカラクム運河沿岸の灌漑地帯で行なっている。主要交通機関は南部を東西に走る鉄道,ハイウェー,アムダリアに沿う鉄道,ハイウェー,アムダリアとカスピ海の水運で,航空路線も発達している。またカラクム運河,石油や天然ガスのパイプラインが近年その総延長を延ばしている。

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知恵蔵 「トルクメニスタン」の解説

トルクメニスタン

長年サパルムラト・ニヤゾフ大統領の独裁体制が続いていたが、2006年12月死亡し、07年2月の選挙でグルバングリ・ベルディムハメドフ(49歳)が大統領に選ばれた。ニヤゾフ時代は鎖国状態が続き市場化も民主化も遅れているが、新大統領の下で多少の開放政策が実施されている。天然ガスの埋蔵量は4兆4000億立方メートルといわれ、04年の採掘量は740億立方メートルに達する予定で、前年を25%上回る。03年には、同国在住のロシア人の二重国籍廃止問題で、ロシアとの関係が悪化した。ロシアはトルクメニスタンを、渡航を禁止する「危険国家」に指定した。その一方でロシアは中央アジアへの影響力を回復する努力も強め、トルクメニスタンとも関係改善に乗り出した。03年4月にトルクメニスタンは天然ガスを25年間ロシアに供給する契約を結んだ。ただ、06年6月には、価格が安すぎるとして、ガスプロムに対して1000立方メートルあたり現行の約2倍の110〜125ドルを要求し、受け入れられない場合は拒否すると警告した。07年5月には、ロシア、カザフスタンと沿カスピ・ガスパイプラインの建設に合意した。05年3月のキルギスの政変(チューリップ革命)の後、ニヤゾフ大統領は警戒心を強め、国民を外の世界から遮断する措置をとり、05年には国外からの印刷物は新聞も雑誌もすべて持ち込みが禁止された。トルクメニスタンは中立国を宣言しているおり、05年8月のCIS首脳会議でCISからの脱退の意向を表明したが、新政権はロシアやCIS諸国との関係復活を図っている。

(袴田茂樹 青山学院大学教授 / 2008年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「トルクメニスタン」の解説

トルクメニスタン

トゥルクメニスタン

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世界大百科事典(旧版)内のトルクメニスタンの言及

【オグズ】より

…北アジア,中央アジアの古トルコ系遊牧民族の名称。アラブ史料ではグズGhuzz。古くは広義の鉄勒(てつろく)(テュルク)の一部分を構成し,突厥(とつくつ)時代以後,狭義の鉄勒の名称となった。その活動範囲は広く,アルタイ山脈周辺から,西方はカスピ海以西に及ぶ。中央アジアのトルコ系諸集団の名称として特に重要であり,トルクメンとも同義に使われる。イスラム化したトルコ族の始祖と考えられ,セルジューク朝もオスマン朝も共にオグズ・ハーン伝説をもつ。…

【セルジューク朝】より

…トルコ系の王朝。1038‐1194年。大セルジューク朝とも呼ばれる。トルクメン族の族長セルジュークは,カスピ海,アラル海の北方方面より10世紀末にシル・ダリヤ河口のジャンドへ移住してムスリムとなり,ガージーを集めて勢力をなした。その子イスラーイールIsrā‘īl(?‐1032)は,サーマーン朝,次いでカラ・ハーン朝,ガズナ朝と同盟して力を伸ばした。その甥のトゥグリル・ベク,チャグリー・ベクChaghrī Bek(987‐1060)らは,1038年ニーシャープールに無血入城し,40年にはダンダーナカーンDandānqānの戦でガズナ朝軍を破り,ホラーサーンの支配権を手中に入れた。…

※「トルクメニスタン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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