世界大百科事典(旧版)内のドゥランゴ(スペイン)の言及
【スペイン内乱】より
…この事件後,首相の座が社会党過激派のラルゴ・カバリェロから親共産党のJ.ネグリンへ移ったために,共和国陣営内での共産党の発言力はしだいに増していった。 ドイツ,イタリア両国の空軍,とりわけイタリア空軍の援助(1937年3月1日のドゥランゴへの爆撃および4月26日のゲルニカ爆撃)により,フランコの軍隊は6月19日に,通称〈鉄のベルト地帯〉と呼ばれる防御線を突破した。その後,ビルバオへ向けて進撃し,サンタンデル(8月26日),オビエド(10月17日),ヒホンとアビレス(10月21日)を占拠し,ビスケー湾に臨む北部一帯を制圧した。…
※「ドゥランゴ(スペイン)」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」