ハドリアヌスの壁(読み)ハドリアヌスのかべ

百科事典マイペディアの解説

ハドリアヌスの壁【ハドリアヌスのかべ】

英国イングランド北部,スコットランドとの国境近くに残るローマ時代の防壁。122年ごろローマ皇帝ハドリアヌスの命令で,北方民族の侵入を防ぐために築かれたもので,ローマ帝国の北限を示す。防壁は盛り土の上に切り石を積んで造られ,高さ約5m,幅2.5−3m。当時はニューカッスル・アポン・タインからカーライルまで118kmも続いていた。防壁の上には1マイル(1.6km)ごとに監視所,その間に小監視所2ヵ所,重要地点15ヵ所に要塞があった。英国に現存するローマ遺跡では最大。1987年,世界文化遺産に登録。

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世界大百科事典内のハドリアヌスの壁の言及

【イギリス】より

…以後5世紀初めころまでをイギリス史上のローマン・ブリテン時代という。 ローマは北の辺境に長城ハドリアヌスの壁を築いて北方からの攻撃に備え,約80のローマ風都市を建設し,道路をつくってこれを結んだ。都市には公会堂,競技場,浴場,水道など石造の公共建築物がつくられ,農村にはブリトン人の農民や奴隷を使役する農業経営の場であるウィラが多数成立した。…

【ブリタニア】より

…今日のイギリス本国,グレート・ブリテン島のローマ時代における呼称。この島の南東部にヨーロッパ大陸から移り住んでいたケルト人の一派のブリトン人(ラテン語でブリタンニBritanni)に由来し,〈ブリトン人の国〉を意味する。この島とローマとの関係は,前1世紀中ごろガリア征服を進めていたカエサルが,ガリアのケルト人を支援していたブリトン人を討つべく,前55年と前54年の2度にわたってこの島の南東部に侵入したときに始まる。…

【ローマ】より

…東部ではさらにユダヤ人が反乱を起こし(116),それはすぐ鎮圧されたが,132‐135年,第2次ユダヤ戦争が起こり,反乱軍殲滅後破壊されたエルサレムのあとにローマ市民植民市アエリア・カピトリナが建設され,ユダヤ人はすべてエルサレムから追放された。ブリタニアではスコットランドが放棄され,国境に〈ハドリアヌスの壁〉(122‐127),次いでさらに前進した線に〈アントニヌスの城壁〉(142‐143)がつくられた。北部ではドナウ諸属州にマルコマンニ族,クアディ族らのゲルマン人が侵入し北イタリアにまで達した。…

※「ハドリアヌスの壁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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