バルト(Karl Barth)(読み)ばると(英語表記)Karl Barth

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

バルト(Karl Barth)
ばると
Karl Barth
(1886―1968)

スイスプロテスタント神学者で、弁証法神学の運動の中心となった。5月10日、バーゼルで古代教会史教授フリッツFritz Barth(1856―1912)の長男として生まれる。父の転任によりベルンに移り、ギムナジウムを経て、ベルン大学神学部に入学、基礎学科を修めた。のちドイツのベルリンチュービンゲンマールブルクの大学に学び、ベルリンではハルナックについて、そのゼミナールで優れた学生と評価された。1909年ジュネーブのドイツ語教会副牧師となり、かたわらドイツの自由主義神学の機関誌『キリスト教世界』の編集にも携わった。1911年からアールガウ州の小工業村ザーフェンビルの牧師となって、村民の生活を守る戦いのなかで、宗教社会主義運動に触れ、やがて1915年社会民主党に入党した。この活動のなかでなされた教会の礼拝説教から新しい聖書解釈が生まれ、それが『ローマ書』(1919)として出版された。本書とその改訂2版(1922)は、第一次世界大戦後に彼と同様の閉塞(へいそく)状況にあったスイスやドイツなどの若い牧師・神学者に大きな反響を呼び起こし、「弁証法神学」とよばれる神学運動の発火点となった。それによってプロテスタント神学は近代主義の枠を突破し、現代的展望にたつことができた。彼は、1921年にゲッティンゲン大学の寄付講座教授になり、ミュンスターからボンの各大学に転任し、その間に、その神学の基礎構造をつくりあげた。アンセルムス研究によって神学方法論を確立したのち、1932年以来『教会教義学』4巻13冊を書き続けた。ヒトラー台頭に際して、反ナチ教会闘争の中心となり、1934年バルメン宣言の起草に加わり、翌1935年、ヒトラーへの忠誠宣言を拒否したことなどからボン大学教授を罷免され、故郷のバーゼル大学教授に就任、スイスから運動を指導した。1948年第二次世界大戦後のハンガリーを旅行、社会主義下のキリスト教を認め、それを支持した。1950年代には、R・ブルトマンとの間で「非神話化」の問題をめぐって論争した。バーゼル大学を引退後、1962年にはアメリカ合衆国を訪問、1966年にバチカンを訪問して、神学上の意見を交換した。1968年12月10日バーゼルにて没。主著の『教会教義学』は1万ページを数えたが、4巻末尾と5巻は未完に終わった。

[小川圭治 2018年1月19日]

『井上良雄・吉永正義訳『教会教義学』36冊(1959~1996/オンデマンド版・2005~ ・新教出版社)』『佐藤敏夫訳『バルト自伝』(1961・新教出版社)』『井上良雄他訳『カール・バルト著作集』全18巻(1967~2007、18巻未完・新教出版社)』『小川圭治・岩波哲男訳『世界の大思想 ローマ書講解』(1968・河出書房新社)』『小川圭治著『主体と超越――キルケゴールからバルトへ』(1975・創文社)』『宮田光雄著『政治と宗教倫理――現代プロテスタンティズム研究』(1975・岩波書店)』『大木英夫著『人類の知的遺産72 バルト』(1984・講談社)』

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