バン・デ・ベルデ
Henry van de Velde
生没年:1863-1957
ベルギー出身のアール・ヌーボーの建築家,デザイナー。アントワープ生れ。はじめ絵画を学ぶ。まずブリュッセルの自邸(1895)で家具・食器類まで含め,有機的曲線に満ちたアール・ヌーボーのデザインを試みる。これが美術史家マイアー・グレーフェJ.Meier-Graefeと美術商ビングS.Bingの目にとまり,招かれてパリのビングの店に家具類を出展。ついでドイツに招かれ,ハーゲンのフォルクワング美術館(1902),ワイマール工芸学校(1907),ケルンのドイツ工作連盟博モデル劇場(1914)を手がける。第1次大戦勃発後スイスに移り,オランダのクレーラー・ミュラー家の依頼によりオッテルローに美術館(1937-54)を設計する。また《近代工芸のルネサンス》(1901)などの著書によりアール・ヌーボーの理論家としても知られる。
執筆者:山口 廣
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内のバンデベルデの言及
【アール・ヌーボー】より
…[オルタ]はタッセル邸,ソルベー邸などの建築・室内装飾で,鞭あるいはつる草のような曲線を多用した。また[バン・デ・ベルデ]は,あらゆる領域を手がけた総合的なデザイナーで,後にバウハウスにも大きな影響を与えている。フランスでは,[ギマール]が99年から翌年にかけてパリの地下鉄駅入口をデザインし,鋳鉄によって植物的な曲線をあらわした。…
【室内装飾】より
…さらにボイジーCharles A.Voyseyは,時代的な様式主義のディテールから脱却して近代装飾へ前進した。1893年ブリュッセル市の博覧会に〈アール・ヌーボー〉という名称をつけて,独創的な様式の装飾を提案したバン・デ・ベルデは,大陸風のロココ的な有機的形態によって歴史様式を打ち破った。しかしアール・ヌーボーはドイツ,フランス,オーストリアなどにひろまったが,結果的には一種の様式主義に堕して消失した。…
【バウハウス】より
…創設者[W.グロピウス]はこの新しい傾向のなかでももっとも際だった存在で,ファグス靴工場(1911),ケルンのドイツ工作連盟博覧会(1914)の建築で,新しい建築言語を確立していた。現実的には,ワイマール工芸学校の校長であったH.バン・デ・ベルデが第1次大戦の勃発によって敵国人になったため,後事をグロピウスに託そうとしたことからはじまる。グロピウスは大戦中に学校側から交渉をうけ,大戦後の1919年に校長に就任,大公アカデミーと工芸学校を併合して,25年〈ワイマール国立バウハウスStaatliches Bauhaus,Weimar〉と改称した。…
【ベルギー】より
…同じく創立会員のアンソールは,独特の幻想世界を創造,強烈な色彩と大胆な筆致により,表現主義の先駆ともなった。 世紀のかわり目に主として工芸・建築に新風を吹き込んだ[アール・ヌーボー]の運動においても,オルタとバン・デ・ベルデという傑出した建築家を生んだベルギーの役割は大きい。さらに後者は1901‐14年にドイツで活動して機能主義の美学を標榜するバウハウス運動を準備し,帰国後は装飾を排した近代建築の推進者となった。…
※「バンデベルデ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」