パリ条約(読み)パリじょうやく

精選版 日本国語大辞典 「パリ条約」の意味・読み・例文・類語

パリ‐じょうやく ‥デウヤク【パリ条約】

[一] 一七六三年、イギリス・フランス・スペインの間で結ばれた七年戦争の講和条約。七年戦争はインドやアメリカにおける英仏の植民地争奪戦と並行して行なわれていたが、いずれもイギリスが優勢で、結局、イギリスはフランスからカナダとミシシッピ以東のルイジアナを、スペインからフロリダを得、一方スペインはフランスからミシシッピ以西のルイジアナを得た。インドではフランスがシャンデルナゴルポンディシェリーを除く全植民地を放棄した。
[二] アメリカ独立戦争の結果、イギリスとアメリカの間に結ばれた条約。一七八二年に調印、翌年に批准された。イギリスがアメリカの独立を認め、カナダ、フロリダを除くミシシッピ以東の地を与えたもの。
[三] ナポレオン戦争の終結により、一八一四年対仏同盟諸国とフランスとの間で結ばれた条約。フランスは一七九二年一月一日の国境を認められ、イギリスはセイロン島ケープ植民地、マルタ島などを得た。ドイツ諸邦は独立を回復してドイツ連邦を組織、イタリア諸国も独立を回復した。
[四] ナポレオンの百日天下の後、一八一五年に対仏同盟諸国とフランスとの間に結ばれた条約。フランス領をさらに制限して一七九〇年の国境とし、新たに賠償、その他の負担を課した。
[五] 一八五六年、クリミア戦争を終結させ、ロシアの南進を阻止した条約。ロシア・トルコ・フランス・イギリス・オーストリアプロイセンサルデーニャ間に結ばれたもの。トルコの独立と領土の保全、ボスポラス・ダーダネルス両海峡閉鎖の原則の確認、黒海の中立化、ドナウ川の自由航行などを定めた。
[六] 一八九八年の米西戦争を終結させた条約。キューバの独立、プエルトリコ、グアム、フィリピンのアメリカへの譲渡を決めた。
[七] 一九四七年、第二次世界大戦後に連合国とイタリア・ルーマニアハンガリーブルガリアフィンランドとの間に結ばれた講和条約。イタリアはエチオピアの独立を承認し、海外の全植民地を放棄した。

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デジタル大辞泉 「パリ条約」の意味・読み・例文・類語

パリ‐じょうやく〔‐デウヤク〕【パリ条約】

パリで締結された国際条約。
1763年、七年戦争の結果、イギリスとフランス・スペインとの間に結ばれた条約。
1783年、アメリカ独立革命の結果、イギリスがアメリカの独立を承認した条約。
1814年、ナポレオンワーテルローで敗れたのち、フランスと対仏大同盟諸国との間で結ばれた条約。第一次パリ条約。
1815年、ナポレオンの百日天下ののち、フランスと対仏大同盟諸国との間で結ばれた条約。第二次パリ条約。
1856年、クリミア戦争の結果、ロシアとイギリス・フランス・オーストリア・トルコとの間に結ばれた条約。トルコの領土保全を内容とし、ロシアの南下政策が阻止された。
1898年、アメリカ‐スペイン戦争の結果、米国とスペインとの間で結ばれた条約。キューバの独立、フィリピンの米国への譲渡を決めた。
1947年、第二次大戦の結果、連合国とイタリア・ルーマニア・ハンガリー・ブルガリア・フィンランドとの間で結ばれた条約。
1960年、OECD-NEAで採択された原子力損害賠償に関する国際条約。1968年発効。フランス・ドイツ・イタリア・英国などが加盟。賠償責任限度額は7億ユーロ。→CSC

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改訂新版 世界大百科事典 「パリ条約」の意味・わかりやすい解説

パリ条約 (パリじょうやく)

パリで締結された国際条約は多いが,歴史的に著名な条約として以下のものがあげられる。

(1)1763年2月10日,七年戦争の終結にあたりイギリス,フランス,スペインの間に結ばれた条約。この条約により,フランスは,北アメリカではカナダ,ミシシッピ川以東のルイジアナおよび西インド諸島の多くをイギリスに譲り,インドではポンディシェリーとシャンデルナゴルを除いて他の植民地を放棄した。アフリカでもフランスはセネガルをイギリスに譲ったが,代りにゴレ島を返還された。スペインは,前年にフランスからミシシッピ川以西のルイジアナを得た代りにイギリスにフロリダを譲り,イギリスからハバナを含むキューバの征服領を得た。この条約の結果,イギリスの植民地帝国としての地位が確立された。

(2)1783年9月3日,アメリカ独立革命を終結させたイギリスとアメリカ合衆国の間の条約。イギリスはアメリカの独立を認め,北は五大湖から南はジョージア南境まで,西はミシシッピ川にいたる領土を与え,さらにミシシッピ川の自由航行権とニューファンドランド近海の漁業権を認めた。アメリカは戦前のアメリカ人に対するイギリス人の債権の有効性を認め,国王派の没収財産を返還するよう各州に勧告することを約束した。

(3)1814年5月30日,ナポレオンの敗北に伴い,ルイ18世治下のフランス政府と対仏大同盟諸国の間に結ばれた条約。第1次パリ条約。同盟諸国はフランスのブルボン王朝の強化を望み,条件を寛大なものにした。フランスは1792年1月1日現在の国境を保有し,ドイツ諸邦は独立を回復してドイツ連邦を組織した。イタリア諸国とスイスも独立を回復し,オランダではオレンジ家が支配を復活した。イギリスはフランスからサン・ルシー島,トバゴ島,フランス島などを取り,セイロン,ケープ植民地,マルタ島などを領有とした。同盟諸国はフランスに対する賠償要求を放棄し,条約の施行細目については2ヵ月以内にウィーンに国際会議を招集して決定することになった。

(4)1815年11月20日のいわゆる第2次パリ条約。ウィーン会議開催中にナポレオンはエルバ島を脱出して決起したが百日天下で敗れ,その結果,改めてフランスと同盟諸国の間で結ばれた。条件は第1次の場合に比べてフランスには過酷になった。フランスはほぼ1789年の国境に制限され,北部と東部の国境地帯の要塞にはフランスの負担で5ヵ年以内同盟軍が駐留すること,フランスは7億フランの賠償金を支払うことが定められた。

(5)1856年3月30日,クリミア戦争の終結に際して,ロシア,イギリス,フランス,オーストリア,プロイセン,サルデーニャ,オスマン・トルコの間に結ばれた講和条約。締結国はトルコの独立と領土保全を認め,その内政への不干渉を約し,トルコは国内で宗教,民族の別なく平等の権利を人民に与えることを約した。ロシアはドナウ川河口地帯をトルコに,ベッサラビアの一部をモルドバに譲り,モルドバとワラキアはトルコの主権のもとに自治権を獲得,セルビアも自治権を認められた。ボスポラス,ダーダネルス両海峡閉鎖を定めた1841年の海峡協定は再確認され,黒海の中立化と商船の自由航行およびその沿岸地帯の非武装化,ドナウ川自由航行の保証のための国際委員会の設置などが定められた。この条約の結果,ロシアの南下政策とトルコ領内への勢力浸透はいったんは阻止された。

(6)1898年12月10日に調印されたアメリカ合衆国とスペインの間の講和条約。これにより米西戦争は終結した。スペインはキューバの独立を承認し,プエルト・リコとグアム島をアメリカに譲った。アメリカは治安維持のためキューバを軍事占領下におき,またスペインからフィリピン群島を2000万ドルで譲りうけた。この結果,スペインはアメリカ大陸ですべての領土を失い,アメリカはカリブ海の支配を強め,極東進出の足場を築いた。

(7)1928年8月27日に調印された戦争放棄に関する一般国際条約で,不戦条約,ケロッグ=ブリアン条約などとも呼ばれる。フランス外相ブリアンとアメリカ合衆国国務長官ケロッグは,国策の道具としての戦争を放棄する条約の締結を提唱した。国際紛争解決の手段としての戦争を否定し,紛争の平和的解決を呼びかけたもので制裁規定は設けられなかった。

(8)1947年2月10日,イタリア,ハンガリー,ブルガリア,フィンランド,ルーマニアの枢軸国5ヵ国と連合国21ヵ国の間に結ばれた第2次世界大戦の講和条約。戦敗5ヵ国は賠償金を課せられ,軍備を制限された。イタリアはアフリカの植民地を放棄し,エチオピアの独立を認め,ユーゴスラビア,フランス,ギリシアに領土を割譲した。トリエステは自由地域とされ,国際連合の管理下におかれることになった。ハンガリーはトランシルバニアをルーマニアに,ドナウ川左岸の一部の土地をチェコスロバキアに返還した。ルーマニアはハンガリーからトランシルバニアを得たが,南ドブロジャをハンガリーに譲り,ベッサラビアと北ブゴビナをソ連に与えた。フィンランドは国境地帯をソ連に譲り,フィンランド湾の海軍基地の租借権をソ連に認めた。

(9)1954年10月20日から23日にかけて,パリで開かれた西ヨーロッパ9ヵ国外相会議の結果成立した一連の諸協定を指し,パリ協定といわれる。西ドイツの主権を回復して北大西洋条約機構への加入を認め,ブリュッセル条約を修正して西ドイツ,イタリアを西ヨーロッパ連合に加えた。翌55年にこの協定は発効し,西ドイツの再軍備が進められた。

(10)1973年1月27日,パリで成立したアメリカ合衆国と北ベトナムの間のベトナム戦争(インドシナ戦争)休戦協定。アメリカの軍隊は全面的に撤退することになり,ベトナム戦争は75年4月末の臨時革命政府のサイゴン制覇とともに終わった。

 このほか,第1次世界大戦後のパリ講和会議の結果成立したベルサイユ条約などもパリ条約と呼ばれる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「パリ条約」の意味・わかりやすい解説

パリ条約
ぱりじょうやく

フランスのパリで締結された国際条約は多数あるが、ここでは一般にパリ条約とよばれる主要なものをあげる。(1)1763年2月10日、七年戦争の終結に際してイギリスとフランス、スペインとの間に結ばれたもの。これによって、フランスはカナダとルイジアナ(ミシシッピ川以東)をイギリスに割譲して、若干の島々と権益のほかには北アメリカ大陸における領土を失った。インドでは、フランスはシャンデルナゴルなどを除く全植民地を放棄した。イギリスはスペインからフロリダを獲得し、スペインはかわりにフランスからルイジアナ(ミシシッピ川以西)を得た。(2)1783年9月3日、アメリカの独立戦争を終わらせた講和条約。イギリスはアメリカ植民地の完全独立を承認し、さらにアメリカの領土としてカナダ、フロリダを除くミシシッピ川以東の土地を認めた。(3)1814年5月30日、ナポレオンと戦ったヨーロッパ諸国とフランスのルイ18世の政府との間に結ばれたもの。フランスはナポレオンの占領地を放棄し、1792年1月1日の国境に復することになったが、賠償は課せられなかった。イギリスはフランスから若干の島、オランダからセイロン島、ケープ植民地を得た。またマルタ島はナポレオンとイギリス・ロシアとの争奪戦の対象であったが、この条約の結果、イギリス領となった。なお、この条約の施行の細目に関してウィーン会議の開催が約された。しかし、ウィーン会議の開催中にナポレオンの百日天下があったために、1815年11月20日、改めて第二次パリ条約が調印された。これは第一次パリ条約よりも条件がフランスにとって厳しく、フランスの国境は1790年当時のものとなり、7億フランの賠償を課せられた。なお、同盟軍は5年間北フランスを占領することとなった。(4)1856年3月30日、ロシア、イギリス、フランス、オーストリア、トルコ、プロイセンおよびサルデーニャの間に調印され、クリミア戦争を終結させたもの。そのおもな条項は、トルコの独立と領土保全の保障、ボスポラス、ダーダネルス両海峡の外国軍艦の航行の禁止、ドナウ川航行の自由、ベッサラビアのロシアからモルダビアへの割譲、モルダビア、ワラキアおよびセルビアの自治権の獲得。この条約は、ロシアの南下政策とトルコ領内への勢力浸透を阻止しようとしたものである。(5)1898年12月10日、アメリカ合衆国とスペインとの間に調印されたアメリカ・スペイン戦争(米西戦争)の講和条約。スペインはキューバの独立を認め、プエルト・リコ島、他の西インド諸島の島々、グアム島、フィリピン諸島をアメリカに譲ることになった。(6)1947年2月10日、第二次世界大戦において枢軸陣営に属したイタリア、ルーマニア、ブルガリア、フィンランド、ハンガリーの五か国と連合国21か国との間に結ばれた講和条約。これによってイタリアは海外の植民地をすべて放棄し、ヨーロッパで若干の領土を割譲し、軍備を制限され、3億6000万ドルの賠償を課せられた。その他の各国も軍備制限や賠償を課せられ、国境の多少の変更を被った。(7)1954年10月20~23日、パリで調印された西ドイツの主権回復に関する諸条約の総称。普通はパリ協定という。これにより西ドイツは主権回復を認められ、占領状態が終了した。西ドイツは北大西洋条約機構(NATO(ナトー))に加盟した。西ヨーロッパ連合を拡大して、イタリアとともに西ドイツを加え、西ドイツはこの機構のなかで再軍備をすることになった。

[斉藤 孝]

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百科事典マイペディア 「パリ条約」の意味・わかりやすい解説

パリ条約【パリじょうやく】

(1)1763年結ばれた七年戦争の講和条約。これにより,英国はカナダ,ルイジアナ東部をフランスから奪い,フランスの勢力を北米から一掃し,またインドにおける優位を確立した。(2)1783年結ばれたアメリカ独立戦争(アメリカ独立革命)の講和条約。英国は米国の独立を認め,フロリダをスペインに返した。(3)1814年,ナポレオン戦争の終結に伴い対仏大同盟諸国とフランスが結んだ条約。フランスは1792年当時の国境を保有,英国はセイロン,ケープ植民地,マルタ島を獲得。またドイツ連邦創設とウィーン会議開催を決定。百日天下の後,1815年に第2次条約が結ばれ,フランスは国境を1790年当時のものに縮小され,賠償金支払等の義務を課された。(4)1856年結ばれたクリミア戦争の講和条約。トルコの独立・領土の保全,黒海中立化,ドナウ川自由航行等を決定。ロシアの南下政策が阻止された。(5)1898年結ばれた米西戦争の講和条約。米国はスペインからプエルトリコ,フィリピンを奪い,キューバ独立を承認させた。(6)1947年連合国と敗戦国たるイタリア,ハンガリー,フィンランド,ブルガリア,ルーマニアの間で結ばれた第2次世界大戦の講和条約。イタリアは全海外植民地を失い,他の敗戦国も領土を割譲,軍備制限・賠償金を課された。(7)1954年パリで開かれた14ヵ国外相会議で採択された諸協定。ドイツ問題が中心になり,この協定に基づいて西独は主権を回復した。(8)工業所有権保護同盟条約の別名。
→関連項目サン・ピエール[島]セントルシアヨーロッパ市場統合ロンドン条約

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パリ条約」の意味・わかりやすい解説

パリ条約
パリじょうやく
Treaties of Paris

(1) 1763年2月10日,イギリス,フランス,スペイン間に結ばれ,七年戦争を終結させた平和条約。イギリスはフランスからカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを,スペインからフロリダを得,スペインはそのかわりにミシシッピ川以西のルイジアナを獲得。フランスはインドでも,若干の都市を除く全植民地を放棄し,イギリスは世界制覇の第一歩をしるした。
(2) 1783年9月3日,イギリスと北アメリカ諸邦との間で調印され,翌 1784年批准された条約。これによってイギリスはアメリカ合衆国の独立を認め,ミシシッピ川以東がアメリカ領になった。
(3) 1814年5月30日,ナポレオン戦争の終結に伴い,連合諸国とフランスとの間に結ばれた条約。フランスは 1792年1月1日時点の国境を認められ,イギリスはセイロン島(スリランカ),マルタ島,ケープ植民地を獲得。またウィーン会議の開催を決定した。
(4) ナポレオン1世による百日天下ののち,1815年11月20日に結ばれた連合国とフランスとの第2次条約。フランスはその国境を 1790年1月1日時点のものに縮小され,7億フランという多額の賠償金を課せられた。
(5) 1856年3月30日,クリミア戦争を終結させた平和条約。トルコの主権と領土の保全,ボスポラス海峡ダーダネルス海峡の閉鎖,黒海の中立化,ドナウ川の自由航行,ロシアはベッサラビアモルドバ公国に譲ること,セルビアに自治権を認めることなどを定め,ロシアの南進を阻止した。
(6) 1898年12月10日に調印されたアメリカ=スペイン戦争を終結させた条約。スペインの敗北により,カリブ海太平洋の旧スペイン植民地はアメリカの管理下に置かれることになった。キューバの独立,フィリピンのアメリカへの譲渡などが定められた。
(7) 1947年2月10日,第2次世界大戦の連合国と,枢軸国のイタリア,ルーマニア,ハンガリー,ブルガリア,フィンランドとの間で結ばれた条約。敗戦諸国は賠償と領土の割譲を課せられた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「パリ条約」の解説

パリ条約(パリじょうやく)

①〔1763〕イギリス,フランス,スペインの間で結ばれた植民地七年戦争(フランスおよびインディアンとの戦争)終結の条約。(1)イギリスはフランスからカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを,スペインからフロリダを得,スペインは代わりにフランスからミシシッピ川以西のルイジアナを獲得。(2)インドでは,フランスは若干の商業都市を除き全植民地を放棄。

②〔1783〕イギリス,アメリカ間で結ばれたアメリカ独立戦争の講和条約。イギリスはアメリカの独立を認め,これにミシシッピ川以東の地を与えた。

③〔1814〕ナポレオン戦争の終結に伴い,同盟国とフランスとの間で結ばれた条約。フランスは1792年時点の国境を保有,イギリスはセイロンケープ植民地マルタ島を得,またウィーン会議の開催を決定。

④〔1815〕ナポレオンの百日天下ののちに結ばれた同盟国とフランスとの第2次条約。フランスの国境を1790年時点のものに縮小し,フランスに賠償を課した。

⑤〔1856〕クリミア戦争を終結させロシアの南進を阻止した条約。(1)トルコの独立と領土の保全。(2)トルコは宗教的差別をしないこと。トルコに対する内政不干渉。(3)ダーダネルス,ボスフォラス両海峡閉鎖の原則の確認。黒海の中立化。(4)ドナウ川の自由航行。(5)ロシアはベッサラビアモルドヴァに譲渡。モルドヴァ,ワラキア両州はトルコの主権下に自治。セルビアの自治権の確認。

⑥〔1898〕アメリカ‐スペイン戦争を終結させた条約。キューバの独立,フィリピンのアメリカへの譲渡を決定。

⑦〔1947〕第二次世界大戦後に連合国とイタリア,ルーマニア,ハンガリー,ブルガリア,フィンランドとの間で結ばれた講和条約。敗戦諸国は軍備の制限と賠償を課せられ領土を割譲した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「パリ条約」の解説

パリ条約
パリじょうやく

①1763年,北米大陸とインドにおける七年戦争を終結させた条約
②アメリカ独立戦争の結果,1783年にイギリスがアメリカの独立を承認した条約
③ナポレオン戦争を終結させた条約
④1856年,クリミア戦争を終結させた条約
⑤1898年,米西(アメリカ−スペイン)戦争を終結させた条約
⑥第二次世界大戦後の1947年に結ばれた講和条約
イギリス・フランス・スペイン間に結ばれ,イギリスはカナダなどを獲得し,植民帝国としての地位を決定づけた。
アメリカはミシシッピ川以東のルイジアナを獲得した。
第1次は1814年に結ばれ,ナポレオン1世をエルバ島に流し,フランス領を1792年当時の状態に制限した。第2次は1815年百日天下のあとに結ばれ,領土をさらに1790年当時のものに制限,7億フランの賠償も課した。
ロシア・イギリス・フランス・オーストリア・トルコ・プロイセン・サルデーニャの6か国間に結ばれ,トルコの領土保全に関する列強の利害を調整した。
アメリカ・スペイン間に結ばれ,アメリカはフィリピン群島・グアム島などを獲得した。
連合国21か国とイタリア・ルーマニア・ハンガリー・フィンランド・ブルガリアとの間に結ばれた。
 以上6つのほか,パリで定められた国際的取決めは多く,1925年の第一次世界大戦後のドイツの賠償支払いに関するアメリカ・ドイツ間の協定,28年の不戦条約(パリ協約),1930年の連合国のオーストリア・ハンガリー・ブルガリアとの賠償に関する協定,1954年の西ドイツの北大西洋条約機構(NATO)加入を定めたロンドン−パリ協定などがある。

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知恵蔵 「パリ条約」の解説

パリ条約

産業財産権の保護を目的に1883年パリで締結された同盟条約。産業財産権に関する国際的な憲法に相当し、日本は1899年加盟。数次の改訂が行われているが、内国民待遇、優先権制度及び特許独立の原則が三大原則。同条約での産業財産権としての保護対象は、特許、実用新案、意匠、商標からサービスマーク、商号、原産地表示、原産地名称、不正競争防止に関するものにまで及んでいる。三大原則のうち、内国民待遇とは、同盟国国民は他の同盟国において内国民同様平等に取り扱われること。優先権制度とは、同盟国内での出願は、一定期間内であれば、他の同盟国でも最初の出願日に出願したものとみなして優先的に取り扱われる制度。現在、その優先期間は特許及び実用新案は12カ月、意匠及び商標は6カ月。特許独立の原則とは、各同盟国内で出願された特許は、それぞれの国での特許成立、不成立に関係なく独立して審査、判断される原則である。

(桜井勉 日本産業研究所代表 / 2007年)

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ブランド用語集 「パリ条約」の解説

パリ条約

パリ条約(工業所有権の保護に関するパリ条約)とは特許、実用新案、意匠、商標などの国際的保護のための国際条約のことをいう。1883年成立。日本は1899年に加盟。

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世界大百科事典(旧版)内のパリ条約の言及

【インド文学】より

…ケーシャブダースの《ラシクプリヤー》,ビハーリーラールの《サトサイー(七百吟)》(17世紀)などがその代表的な例である。 以上は大部分が韻文文学であるが,19世紀後半のバーラテンドゥ・ハリシュチャンドラは,評論・戯曲の創作と翻訳を行いながら散文を広めようと努力した。彼の主張の根幹は,インドの伝統を近代の諸条件のもとで再興しようというものである。…

※「パリ条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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