パークス(Sir Harry Smith Parkes)(読み)ぱーくす(英語表記)Sir Harry Smith Parkes

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

パークス(Sir Harry Smith Parkes)
ぱーくす
Sir Harry Smith Parkes
(1828―1885)

イギリスの外交官、幕末維新期の駐日イギリス公使イングランドスタッフォードシャーに生まれる。1841年、中国のアヘン戦争従軍、1844年に厦門(アモイ)で通弁官となり、以後福州、上海(シャンハイ)、厦門、広東(カントン)と転勤し、1854年厦門領事に就任。翌1855年全権委員として英・タイ条約を締結し、1856年には広東領事代理となる。アロー戦争(第二次アヘン戦争)では、1860年英仏連合軍に加わって従軍したが捕虜となる。1865年(慶応1)5月、初代駐日公使オールコックの後任として日本に赴任し、駐日全権公使に就任し、以後、1883年(明治16)までその職にあった。その間、その政治的手腕を発揮して幕末諸条約の勅許や改税約書の調印に成功し、また江戸城開城を斡旋(あっせん)した。彼の対日外交政策は、激動する維新期の日本の政局渦中にあって、日本に開明的な政府を樹立させ、これを支援して政局を安定させ、完全な開国を実現させ、自国の利益の貫徹を図るという、いわゆる開化慫慂(しょうよう)政策ともいうべきもので、武力を背景に開国と自由貿易政策を強要する砲艦政策(ガンボート・ポリシー)を一枚脱皮した政策であった。

 彼はそのため、薩摩(さつま)や長州の開明的政治勢力に接近してこれを支援し、倒幕・明治新政府樹立の政治路線の推進に大きな役割を果たした。この点では、幕府を援助して将軍権力の絶対主義路線を支援し自国の政治的優位を確立しようとしたフランス公使ロッシュと対立的関係にあった。パークスは戊辰(ぼしん)戦争では局外中立を表明し、列国の外交団をこれに追随させ、また明治政府を最初に承認して、その後も、成立直後の新政府が対外的難局に直面すると、助言を与えて政治的基盤の確立に力を貸し、日本に対する自国の指導的立場を固めることに尽力した。また、条約改正問題では寺島宗則(てらしまむねのり)外務卿(きょう)の条約改正案には反対した。井上馨(いのうえかおる)の改正予議会の翌年1883年1月に駐清(しん)公使に転じ、1884年駐韓公使を兼ね、1885年北京(ペキン)で没した。

[加藤榮一]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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