ピサーノ(英語表記)Andrea Pisano

精選版 日本国語大辞典 「ピサーノ」の意味・読み・例文・類語

ピサーノ

[一] (Andrea Pisano アンドレア━) イタリア中世の彫刻家建築家フィレンツェ大聖堂鐘塔などの建築にたずさわった。(一二九〇頃‐一三四八
[二] (Giovanni Pisano ジョバンニ━) イタリアの彫刻家、建築家。ニコラ=ピサーノの息子。シエナ大聖堂正面を設計したほか、多くの説教壇彫刻において同時代のゴシック彫刻を代表する、写実に基づく劇的表現を完成させた。(一二五〇頃‐一三一四頃
[三] (Nicola Pisano ニコラ━) イタリア中世の彫刻家。ピサ洗礼堂の説教壇をはじめ多くの説教壇を制作。イタリア彫刻にゴシック的要素と古典的要素を併せ持つ劇的な造型表現を導いた。(一二二〇頃‐一二八四頃

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デジタル大辞泉 「ピサーノ」の意味・読み・例文・類語

ピサーノ(Pisano)

(Nicola ~)[1220ころ~1280ころ]イタリアの彫刻家。ピサの洗礼堂の説教壇浮き彫りなどにより、ゴシック的要素と古典的要素とを併せ持つ独自の世界を確立した。
(Giovanni ~)[1250ころ~1314ころ]イタリアの彫刻家・建築家。の息子。父の技法を発展させた劇的な表現でゴシック彫刻を代表する。

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改訂新版 世界大百科事典 「ピサーノ」の意味・わかりやすい解説

ピサーノ
Andrea Pisano
生没年:1290ころ-1348

イタリアの彫刻家,建築家。ニコラ・ピサーノおよびジョバンニ・ピサーノ父子とは家系的にも流派的にも無関係だが,ピサ近郊のポンテデーラPontedera出身であるため,この名で呼ばれる。おそらくピサで修業のあと1330年にフィレンツェの洗礼堂の青銅扉の注文を受け,36年バプテスマのヨハネ伝と諸徳擬人像の計28場面の浮彫パネルからなる一対の扉を完成。これらはフランス・ゴシックに起源をもつ四つ葉のクローバー型の枠をもち,またジョットの影響の明らかな,簡素な背景と単純化された形体をもつ少数の人物による物語表現を見せる。37年のジョット没後,その跡を継いでフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の鐘楼の大理石浮彫を制作。晩年はオルビエト大聖堂の建設に携わり,没後は息子ニーノNino Pisano(1315ころ-68ころ)が引き継いだ。
執筆者:

ピサーノ
Nicola Pisano
生没年:1220ころ-78か84

イタリアの彫刻家。記録からピサよりも南イタリアのプーリア地方の出身とされ,また修業も同地方で積んだと思われる。初期の作ピサ洗礼堂の説教壇(1260)では,ピサのカンポサントローマにあった古代彫刻の研究成果を踏まえ,モニュメンタルで力強く簡素な手法を達成し,彫刻におけるジョット的役割を果たしている。シエナ大聖堂の説教壇(1269),さらには晩年の作ペルージアの大噴水(1278)になると,構成は複雑となり,洗練度を高めて北方ゴシックへの接近を見せている。
執筆者:

ピサーノ
Giovanni Pisano
生没年:1248ころ-1314ころ

イタリアの彫刻家,建築家。ニコラ・ピサーノの子。青年期にはペルージアの大噴水(1278)その他を父と共作。人体をその有機的構造を明確にしつつ量塊として力強く表現する父の古典主義的作風に対し,衣褶の流れや人物の感情表現,彫刻面における光と影の交錯などを強調するゴシック的な造形感覚への移行を示す。代表作はピストイアのサンタンドレア教会説教壇(1301)およびピサ大聖堂説教壇(1302-10)。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「ピサーノ」の意味・わかりやすい解説

ピサーノ

イタリア・ロマネスク最後の彫刻家。経歴不詳。最初の大作は,1259年に完成したピサの洗礼堂説教壇の彫刻。1265年―1268年には息子ジョバンニ・ピサーノと弟子アルノルフォ・ディ・カンビオとともにシエナ大聖堂の説教壇の人像彫刻を制作。その後もペルージアの噴水彫刻など,多くの浮彫を手がけた。古典的作風を特徴とするが鋭い自然観察の成果が見られ,ジョットなどの後代の画家に影響を与えたため,プロトルネサンスの作家とされる。
→関連項目ピサ大聖堂

ピサーノ

イタリアの彫刻家。ピサ近郊のポンテデーラ生れ。ピサで彫刻,金工を修業後,フィレンツェのサン・ジョバンニ洗礼堂青銅扉の洗礼者ヨハネの物語の浮彫を制作(1330年―1336年)。続いてサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の建築主任をつとめていたジョットの死後,同大聖堂鐘塔の施工と下部装飾に従事し,21面の浮彫を完成。精緻(せいち)な金工技術を用いて彫塑性豊かに表現し,ルネサンスの到来を準備した。

ピサーノ

イタリアの彫刻家,建築家。ニコラ・ピサーノの息子。彫刻家としてはピストイアのサンタンドレア教会やピサ大聖堂の説教壇などを制作。建築家としては,シエナ大聖堂のファサードほかを残した。父の古典的造形に人間の心理や感情の表現を織り込み,同時代また後代の芸術家たちに深い影響を与えた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ピサーノ」の意味・わかりやすい解説

ピサーノ
Pisano, Giovanni

[生]1250頃. ピサ
[没]1314以後. シエナ?
13~14世紀に,イタリアのピサを中心に活動したピサ派の彫刻家。父ニッコロ (→ピサーノ) の影響で初め擬古代様式の作風を示していたが,父の死後,その影響を抜け出して自在に自己の感覚を発揮していく。ピストイアのサンタンドレア聖堂の説教壇 (1301完成) やピサ大聖堂の説教壇 (1310完成) など,写実に基づいたゴシック風の劇的感情表現へと進んでいった。その他,シエナ大聖堂の工事主任としてその正面装飾(→ファサード)に従事したり,またパドバのアレーナ礼拝堂やプラト大聖堂にも携わった。

ピサーノ
Pisano, Niccoló

[生]1220頃,アプーリア
[没]1278/84,ピサ
13世紀にイタリアのピサを中心に活動した彫刻家。ピサ派の始祖。ニコラともいう。代表作として,ピサ洗礼堂の説教壇 (1260) ,息子ジョバンニ (→ピサーノ ) と共作したシエナ大聖堂の説教壇 (1268) ,ペルジャの噴水彫刻 (1277~80) などがある。とりわけピサ洗礼堂の説教壇浮彫では,古代ローマの石棺浮彫装飾を研究して古代復興の先駆をなしてルネサンスの黎明を告げた。また,息子をはじめ弟子のアルノルフォ・ディ・カンビオ,ドナート,ラーポらを育てて,ピサ派の基礎を築いた。

ピサーノ
Pisano, Andrea

[生]1290頃.ポンテデラ
[没]1348/1349. オルビエト
イタリアの彫刻家,金工家,建築家。 1330年ピサからフィレンツェに移り,洗礼堂の扉にブロンズによる浮彫を担当 (1330~36) 。四つ葉飾りの枠の中でアレゴリーや聖書の場面を表現した。 1337年ジョットの跡を継いでフィレンツェの大聖堂の建築を完成し,同カンパニーレの浮彫を担当した。その作風はジョットの晩年の様式の影響を受けているとみられ,形態の塊量性と構図の明晰性を特色とする。最後の作品はオルビエトの聖堂建築で,息子のニーノによって完成された。彼のブロンズによる扉の浮彫様式は,ピサの大聖堂の扉やパリやルーアンの聖堂建築に影響を与えた。

ピサーノ
Pisano, Giunta

[生]1202? ピサ
[没]1258
イタリア,13世紀前半のピサ派における重要な画家。個人名として知られている最初のイタリアの画家。 1236年アッシジのサン・フランチェスコ聖堂のために描いたといわれる磔刑図は現存しない。彼の署名とされる作品はアッシジのサンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂 (1240頃) などに3点が残る。彼の創造した磔刑図は前代の「勝利のキリスト」とは異なり,「苦しむキリスト」を表現した。

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世界大百科事典(旧版)内のピサーノの言及

【サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂】より

…ラテン十字形平面をもつ3廊式教会堂であるが,八角形の大交差部を囲む方形祭室によって内陣と翼廊を同形とした集中的構成はゴシック教会堂として前例のない斬新さを示す。1331年以降,工費を負担しえなくなった司教にかわって同市の羊毛組合が工事を主導し,14世紀を通じてジョット,アンドレア・ピサーノ,フランチェスコ・タレンティ,ジョバンニ・ラポ・ギーニらが建築主任として市の威信と栄光をかけたこの大建設事業を進めた。ジョットの設計,監督によって34年に起工され,その没後A.ピサーノとF.タレンティによって完成された鐘楼(いわゆる〈ジョットの鐘楼〉。…

【ピサネロ】より

…イタリアの画家,メダル作家。本名アントニオ・ピサーノAntonio Pisano。1395年以前にピサに生まれ,幼いときに母の生地ベローナに移り,おそらく同地でステファノ・ダ・ゼビオStefano da Zevio(1374ころ‐?)について修業したものと思われるが,初期の作品にはアルティキエロAltichieroの影響も看取される。…

【ゴシック美術】より

…この新興イタリア美術は,これがただちに15世紀のルネサンスに連なるところから,ゴシック美術を狭義に解してそのうちに入れない傾向があるが,他の西ヨーロッパの同時代美術と相互に影響関係があるので,この点からとりあげることとする。イタリア美術復興のさきがけをする彫刻家ニコラ・ピサーノとその子ジョバンニの芸術には,古代彫刻の影響とともに,ゴシック彫刻とその新気運の影響があった。ジョバンニの情熱には新興イタリア都市の誇らかな人間的自覚があり,これが開花するのがジョットの芸術であった。…

【シエナ大聖堂】より

…内部の柱・壁は色大理石で水平の縞模様をなし,床も多色大理石のモザイクで覆われる。ジョバンニ・ピサーノ設計の西正面(下半分のみ原案どおり)は,飾り破風や小尖塔を伴ったばら窓と3扉口によりフランス式構成を示すが,彫刻やモザイク画の豊かな装飾は全体としてなおイタリア的な平板性にとどまっている。南袖廊と側廊に接して正方形平面の鐘塔が立ち,やはり色大理石の縞模様が外壁面を飾る。…

【チマブエ】より

…記録によって確認される彼の現存作品は,ピサ大聖堂内陣モザイクのうちの《ヨハネ》(1301‐02)1点しかなく,その他の彼の作品とされるものは,すべて様式上からの帰属による。2点の《キリスト磔刑》(アレッツォ,フィレンツェ)は,図像的にジュンタ・ピサーノGiunta Pisano(13世紀前半に活躍)の確立した〈苦悩のキリスト〉を踏襲しているが,刻線的な強い輪郭線,金のハイライトを施した繊細な衣のひだの描写,彫刻的な肉付けは,コッポ・ディ・マルコバルドCoppo di Marcovaldoの影響を示している。また《玉座の聖母子と四天使およびフランチェスコ》の壁画や,《サンタ・トリニタの聖母》では,聖像に人間的生命を注入し,三次元的空間感覚をも見せている。…

【プノンペン】より

…カンボジアの首都。人口92万(1994)。メコン河口から約300km遡航した自然堤防上の河岸に開けた都市で,港は2500トンまでの船が横づけできる。プノンペンとはカンボジア語で〈ペンの丘〉を意味する。《王朝年代記》によれば,洪水のときに上流から仏像4体が流れつき,敬虔なペンという名の夫人がこの仏像を小さな丘の東斜面に安置したという。これが〈ペン夫人の丘の寺院〉説話で,プノンペン発祥伝説のもととなった。…

【ゴシック美術】より

…この新興イタリア美術は,これがただちに15世紀のルネサンスに連なるところから,ゴシック美術を狭義に解してそのうちに入れない傾向があるが,他の西ヨーロッパの同時代美術と相互に影響関係があるので,この点からとりあげることとする。イタリア美術復興のさきがけをする彫刻家ニコラ・ピサーノとその子ジョバンニの芸術には,古代彫刻の影響とともに,ゴシック彫刻とその新気運の影響があった。ジョバンニの情熱には新興イタリア都市の誇らかな人間的自覚があり,これが開花するのがジョットの芸術であった。…

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