フェルディナント[1世](神聖ローマ)(読み)ふぇるでぃなんと

世界大百科事典(旧版)内のフェルディナント[1世](神聖ローマ)の言及

【アウクスブルクの宗教和議】より

…時の神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)は,ドイツにおける宗教改革運動を,カトリックの立場から抑圧しようとつとめたが失敗。結局,ドイツ問題の処理をゆだねられたカールの弟フェルディナント(のち神聖ローマ皇帝,1世)の主宰するこの帝国議会で,〈アウクスブルク信仰告白〉を奉ずるルター主義者に,カトリックと同等の権利が承認された。しかし,これは一種の政治的妥協であり,ドイツ国民一般に信教の自由を保障したものではない。…

【カール[5世]】より

…そのうえ,皇帝権の強化をよろこばぬ諸侯は,52年,ザクセン公モーリツを中心に,ほとんど宗派をこえた反乱をおこし,フランス王アンリ2世もこれに手を貸した。カールの弟フェルディナント(1503‐64,1世,神聖ローマ皇帝としては,在位1556‐64)は,ハプスブルク家の本領オーストリアのほか,ボヘミアとハンガリーの王位をもついでいたが,ここにいたってカールはドイツ問題の処理をフェルディナントにゆだね(アウクスブルクの宗教和議),ネーデルラントやスペイン,ナポリの支配権は長子フェリペに譲り,56年スペインの片田舎ユステに隠退した。以後ハプスブルク家は,フェリペ2世のスペイン系と皇帝フェルディナント1世のオーストリア系に分かれる。…

【宗教改革】より

…このシュマルカルデン戦争(1546‐47)は皇帝側の勝利に終わったが,それに乗じて皇帝の統治権を強化せんとするカール5世の野心は,52年に宗派をこえたドイツ諸侯の反撃にあい,むなしくついえ去った。失意の皇帝がネーデルラントに退いたのち,カールの弟フェルディナント1世が主宰するアウクスブルクの帝国議会で,ドイツの宗教問題に政治的な決着がつけられた。このいわゆるアウクスブルクの宗教和議により,ルター派は帝国内におけるカトリックとの同権を認められたが,両宗派を選択する権利が諸侯と帝国都市当局のみに与えられた事実からもわかるように,この取決めは領邦教会制の法的な是認を意味していた。…

【ハプスブルク家】より

…その帝国改革は失敗に終わるが,96年その子フィリップ1世美公(1478‐1506)をスペイン王女フアナと結婚させ,孫のカール5世が1519年ドイツ国王に選出されたとき(翌20年神聖ローマ皇帝),スペイン王国との結合によるハプスブルク世界帝国が実現する。加えて東方に対しても孫フェルディナント1世を16年にボヘミア・ハンガリー王女アンナと婚約させている。こうした結婚政策はフランスとの対立を激化させ,これと結んだオスマン・トルコの北上を招いたが,26年モハーチの戦でのラヨシュ2世の敗北はボヘミア・ハンガリー両王国を王家に結びつけたのである。…

※「フェルディナント[1世](神聖ローマ)」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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