フェルナンド2世(読み)フェルナンドにせい(英語表記)Fernando II, Duque de Bragança

改訂新版 世界大百科事典 「フェルナンド2世」の意味・わかりやすい解説

フェルナンド[2世]
Fernando Ⅱ
生没年:1452-1516

アラゴン王。在位1479-1516年。1469年カスティリャイサベル1世と結婚,妻の即位(1474)後は法的にも実質的にもカスティリャ王となったためにフェルナンド5世とも呼ばれ,さらにグラナダ王国征服の功績をたたえてローマ教皇庁から授与された〈カトリック王〉の名でも知られる(カトリック両王)。

 内憂外患の中で終始苦境にあった父フアン2世を助けて早くから政治に関与したフェルナンドは,アラゴン連合王国が13世紀末以来地中海地域にもつ多様な権益をめぐってフランスと鋭く対立,娘たちの結婚によって反仏同盟を結成して,後の2世紀間にわたるスペイン,フランス抗争の発端をつくった。一方,内政面ではアラゴン農民に対する過酷な領主支配を固定化し,次いでカタルニャでは反転して農民側に立った有名なグアダルーペ裁断(1486)で内戦を収拾した。1504年妻の死後,いったんアラゴンに退いたフェルナンドはシスネロス枢機卿の要請で摂政としてカスティリャに戻った。そしてフランスとの紛争に乗じてナバラ武力で征服(1512),これの自治体制を温存したままカスティリャ王権の版図に組み入れた。マキアベリから〈名声栄光においてキリスト教国第一の王〉と評されたことは有名。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フェルナンド2世」の意味・わかりやすい解説

フェルナンド2世
フェルナンドにせい
Fernando II, Duque de Bragança

[生]1430
[没]1483. エボラ
ポルトガルのブラガンサ公家の3代当主。ポルトガル王ジョアン2世 (完全王) の中央集権化政策に反対する有力貴族の陰謀を指導した嫌疑で逮捕され,処刑された。

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世界大百科事典(旧版)内のフェルナンド2世の言及

【カトリック両王】より

…アラゴン王フェルナンド2世(在位1479‐1516)とカスティリャ女王イサベル1世(在位1474‐1504)の2人の通称。カトリック王の称号は,イベリア最後のイスラム国グラナダを征服した功績をたたえて,ローマ教皇アレクサンデル6世から贈られた。…

【スペイン帝国】より


[スペインの誕生]
 15世紀後半,イベリア半島はカスティリャ,アラゴン連合王国(以下アラゴンと略記),ポルトガル,ナバラおよびイスラム教徒のグラナダ王国(ナスル朝)の5ヵ国に分かれ,そこにはまだスペインという国はなかった。しかし,カスティリャにイサベル1世が立ち(1474),次いでアラゴンの王位にフェルナンド2世が就くと(1479),その後40年足らずの間にポルトガルを除く4ヵ国はカトリック両王のもとに一つの王権を共有するという形で新しい政治単位を形成,周辺諸国はこれをスペインと呼び始めた。 しかし,このスペインは決してカスティリャとアラゴンの統一合体を意味するものではなかった。…

【ナポリ王国】より

…シャルル8世の遠征(1494‐95)に続いて,ルイ12世は1501年にナポリへ侵入し王国を手中に収めたが,介入したスペイン軍によってわずか3年でナポリを追われた。1504年にスペイン,フランス両国間で妥協が成立し,スペインのフェルナンド2世がナポリ王に即位した。こうしてナポリ王国は政治的独立性を失い,スペインの総督によって統治されるようになった。…

※「フェルナンド2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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