フサイン

百科事典マイペディア 「フサイン」の意味・わかりやすい解説

フサイン

アラビア半島の北西部,メッカメディナを含む地域ヒジャーズ国王。在位1916年−1924年。イスラムの預言者ムハンマドの家系であるハーシム家に生まれた。当時の支配者オスマン帝国スルタンアブデュルハミト2世の命によりメッカに拘束されていたが,1908年のアブデュルハミト2世の専制政治に反対する〈青年トルコ〉党の革命後,ムハンマドの子孫シャリーフ)としてメッカの知事となった。第1次世界大戦の当初はオスマン帝国とともにドイツ側についていたが,その後T.E.ロレンスの助言で連合国側につき,1915年−1916年,カイロの英国高等弁務官マクマホンと書簡フサイン=マクマホン書簡)を交わし,戦後にアラブ王国の独立を承認するという約束をとりつけて,息子のファイサル1世らとともにオスマン帝国に対して反乱を起こした。英国はアラブの王となることは認めず,1916年,ヒジャーズの王位につくことで妥協した。第1次大戦後オスマン帝国が滅びトルコ共和国が発足,1924年にカリフ制の廃止を決めると,フサインは自らカリフを標榜,ムスリム指導者間で孤立した。同年,ナジュド地方で勢力を増していたアブド・アルアジーズ・ブン・サウードに攻められてアカバに逃れ,翌年キプロス亡命,1931年アンマンで死去し,エルサレムに埋葬された。

フサイン

フセイン〉とも。イスラムのシーア派第3代イマームアリーと預言者ムハンマドの娘ファーティマとの間に生まれた第2子。ウマイヤ朝の創始者ムアーウィアが息子ヤジードをカリフの継承者と定めると,これを認めず対立。680年挙兵したが,カルバラーでウマイヤ朝軍に包囲され戦死した。シーア派ではこれを殉教と見なして精神的よりどころとし,毎年ムハッラム月の最初の10日間にその死を悼む殉教祭(アーシューラー)が行われる。

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改訂新版 世界大百科事典 「フサイン」の意味・わかりやすい解説

フサイン
Ḥusayn b.`Alī b.Abī Ṭālib
生没年:625-680

シーア派第3代イマーム。第4代カリフ,アリーと預言者ムハンマドの娘ファーティマとの間に生まれた第2子。メディナに隠退していた兄ハサンの死で,シーア派は彼を同派の盟主と仰ぐにいたった。680年,ウマイヤ朝カリフ,ムアーウィヤ1世の死後,カリフ位を継承したヤジードを認めず,シーア派の招きに応じてクーファで反旗を翻すべく同地に向かった。しかし,クーファ近郊のカルバラーでウマイヤ朝の政府軍に包囲され,これと戦って戦死した(680年10月10日,ヒジュラ暦61年ムハッラム月10日)。彼の死でシーア派の政治的運動は頓挫し,以後同派の運動はしだいに宗教的色彩を強めていった。彼の殉教は,以後のシーア派の精神的拠り所となった。とくにサファビー朝以後,イランのシーア派ムスリムは,フサインの死を悼み,毎年ムハッラム月の最初の10日間,殉難祭を行い,最終日の10日目(アーシューラー)に祭りは頂点に達する。
執筆者:

フサイン
Ḥusayn b.`Alī
生没年:1852ころ-1931

ヒジャーズ王。在位1916-24年。第1次世界大戦下のアラブ反乱の名目上の代表者。預言者ムハンマドの後裔とされるハーシム家の生れ。オスマン帝国のアブデュルハミト2世の命令でメッカに拘束されたが,1908年青年トルコ革命でシャリーフとしてメッカ知事となった。アラブ民族主義者たちに推戴され,14年末よりカイロに密使を送ってイギリス側と接触(フサイン=マクマホン書簡),戦後のアラブ王国独立の承認の約束をとりつけ,息子のファイサル1世,アブド・アッラーフ・ブン・フサインらとともに反乱を開始し,16年ヒジャーズ王となった。24年カリフ制廃止に即応して自らカリフを宣言したが,ムスリム指導者間で孤立,同年サウード家のアブド・アルアジーズ・ブン・サウードにメッカを攻められ,アカバに逃亡し,25年イギリス船でキプロスに亡命した。31年アンマンで死去,エルサレムに埋葬された。
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20世紀西洋人名事典 「フサイン」の解説

フサイン
Ḥusayn bin Ṭalāl


1935.11.14 -
ヨルダン国籍。
ヨルダン国王。
別名フセイン1世,Amir Abdullah Hussein I.。
英国に留学後、1953年国王に即位。’58年2月アラブ連邦を結成するが、同年8月イラク革命で連邦解消し、アラブ世界で孤立。’67年アラブ連合と共同防衛条約に調印、中東戦争に突入する。’70年軍事政権を樹立し、パレスチナ・ゲリラとの対立で内戦状態となる。その後’78年PLOと和解、’80年のイラン・イラク戦争の際にはイラクを支持。’82年アル・ファタハの在ヨルダン事務所の閉鎖を発表し、PLOとの協調関係が破綻。同年9月パレスチナ問題解決のためPLOとの連合国家構想を提唱した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のフサインの言及

【ヨルダン】より


[政治]
 現在のヨルダン・ハーシム王国は第1次世界大戦によって誕生の契機を与えられた国の一つである(それ以前の歴史については〈シリア〉の項目を参照されたい)。1916年6月イスラムの聖都メッカのシャリーフであったハーシム家フサインはオスマン帝国に対抗して〈アラブ反乱〉を起こし,アカバを占領,トランス・ヨルダン,シリアへ向かう足がかりを確保した。18年10月フサインの息子ファイサル1世に率いられたアラブ軍はイギリス軍とともにダマスクスに入城し,シリア(大シリア)は400年にわたるオスマン帝国の支配から解放された。…

【シーア派】より

…この後,アリー支持のクーファの民がウマイヤ朝に反対した。アリーの子フサインはクーファの民の誘いに応じてクーファに向かうところをウマイヤ朝の軍に包囲されてカルバラーで戦死し,受難の英雄となった。685年ムフタールが,アリーの子ムハンマド・ブン・アルハナフィーヤをイマームおよびマフディーとして奉じ,ウマイヤ朝に対する反乱(ムフタールの乱)を起こした(カイサーンKaysān派と呼ばれる)。…

※「フサイン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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