フッガー家(読み)フッガーけ

精選版 日本国語大辞典 「フッガー家」の意味・読み・例文・類語

フッガー‐け【フッガー家】

(フッガーはFugger) 中世末期ドイツアウグスブルク市の豪商。買い占め・領主への貸し付け・鉱山開発で財をなした商業・金融資本家の典型で、一五世紀末~一六世紀中頃、ヤコブ二世フッガーの時に最も繁栄した。

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デジタル大辞泉 「フッガー家」の意味・読み・例文・類語

フッガー‐け【フッガー家】

Fugger》15、6世紀、ドイツのアウグスブルクの豪商の一族。東方貿易や鉱山経営によって巨富をなし、教皇や皇帝・諸侯らに融資を行うなどして国際政治にも大きな影響力を持った。

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改訂新版 世界大百科事典 「フッガー家」の意味・わかりやすい解説

フッガー家 (フッガーけ)

宗教改革時代の南ドイツ,アウクスブルクの豪商。領主への貸付けと鉱山業で有数の富豪となり,ハプスブルク家カトリックの陣営を援助し,ルネサンス学芸を保護した。1367年ハンスHans Fugger(1348-1409)が近郊のグラーベン村からアウクスブルクへ出て織工ツンフトに加入,その子ヤーコプJakob Fugger(1407ころ-69)はベネチア織物や香料の取引を行った。ヤーコプは7男4女をもうけ,その末子ヤーコプ2世Jakob Ⅱ Fugger(〈富豪ヤーコプ〉,1459-1525)は幼時に聖界に入ったが還俗,イタリアで商業を習い兄を助けて家業についた。1485年以来チロルの領主への貸付けの代償に銀の先買権を獲得し,その販売で大きな利益をあげた。後の皇帝マクシミリアン1世との関係もこのころ始まった。94年ハンガリー王からノイゾール銅山を賃借し,クラクフの技師トゥルツォの協力で銅の採掘,精錬,販売に着手し,国際的巨商への道を歩んだ。93年国際市場アントワープに支店を開き,98年ベネチアの銅市場で同業者と販売カルテルを結び,1505-06年リスボンに進出,4000ドゥカーテンを出資して東インド貿易に参加した。フォン・メッカウなど有力者との結びつきを利用して教皇庁の銀行家となり,各地の司教からローマへの献納金や免罪符売上代金の送金を引き受けた。宗教改革の原因になったマインツ大司教の免罪符販売は,フッガーへの返済のために行われたのである。1519年の皇帝選挙ではカール5世マクシミリアンの孫でスペイン王カルロス1世)のために選挙資金85万グルデン中54万グルデンを調達した。その回収のためにチロル銀山のほかスペインの騎士修道会領の収益がフッガーに委譲された。南欧と東欧を中心に20以上の支店と60の町の代理商や駐在員を結ぶ国際的取引網を築いた。このころ大商人の独占に対する非難が激しく,23年の帝国議会はヤーコプ2世を裁判にかけることを決議したが,彼は皇帝に強い詰問の手紙を送って裁判の中止と営業の保証をとりつけた。

 ドイツ農民戦争では領主側に資金と武器を提供したが,ハンガリーでは民族的反抗にあって鉱山の放棄を決意せざるをえず,心労のなかで25年66歳で死去した。危篤の病床を皇帝が見舞ったという。兄から引き継いだ財産を10倍に増やし,1507年以降領地を購入し,14年に伯爵に叙せられたが,みずからは称号を使わず商人を通した。寄付や慈善に尽くし,14年に敬虔な貧民のためにアウクスブルクに建てた低家賃住宅フッゲライFuggereiには23年52家族の入居者がいた。

 家業を継いだ甥のアントンAnton Fugger(1493-1560)のときに資産は最大になったが,返済の保証のない債権が増加して資産内容は悪化した。営業の中心はスペインへの貸付けとアントワープでの投機に移り,その結果スペイン王室の支払停止(1557,1575,1607)とアントワープの陥落(1585)で痛手を受け,17世紀半ばごろにはすべての事業から手を引いた。土地所有貴族となったフッガー家は現在,公爵家1,伯爵家2が存続し,アントンの代から集めた多数の史料がディリンデンの〈フッガー文庫〉に収蔵される。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フッガー家」の意味・わかりやすい解説

フッガー家
ふっがーけ
die Fugger

宗教改革時代の南ドイツの豪商。ヤコブ2世Jacob Ⅱ(「富豪ヤコブ」、1459―1525)の代に大いに繁栄した。1367年、彼の祖父ハンスがアウクスブルクへ出て織工ツンフトに加入、父ヤコブ1世Jacob Ⅰ(1412―69)はベネツィアと織物や香料の商業を営む。

 七男四女の末子に生まれたヤコブ2世は、聖界に入ったが、還俗(げんぞく)してイタリアで商業を習い家業についた。1485年以来チロールの領主への貸付けの代償に銀の先買権を獲得し、銀の販売で大きな利益をあげた。後の皇帝マクシミリアン1世との関係もこのころから始まった。94年ハンガリー王からノイゾール銅山を賃借し、クラクフの技師トゥルツォーの協力を得て銅の採掘と精錬を始め、輸送路を確保するため取引範囲を拡大した。銀と銅は当時東方への輸出品であった。93年に新興の国際市場アントワープ(アントウェルペン)に支店を開設、98年にはベネチアで同業者と銅の販売カルテルを結び、1505、06年にはリスボンへ進出、4000ドゥカーテンを出資して東インド貿易に参加した。教皇庁の高官フォン・メッカウなど有力者との結び付きを利用して取引網を広げ、教皇庁の銀行家として各地の司教からローマへの献納金や贖宥(しょくゆう)状(免罪符)売上金の送金を引き受けた。ハプスブルク家を援助し、19年の皇帝選挙ではカール5世(マクシミリアンの孫でスペイン王カルロス1世)の選挙資金85万グルデン中54万グルデンを融通した。その回収のためチロール銀山のほかスペインの騎士団領の収益がフッガーに委譲された。このころ大商人の独占に対する非難が激しく、23年帝国議会はフッガーを裁判にかけることを決めたが、彼は皇帝に詰問の手紙を送って裁判の中止と取引の保証を取り付けた。農民戦争では領主側に資金と武器を提供したが、ハンガリーでは民族的反抗にあって鉱山の放棄を決意し、心労のなかで25年66歳で死去した。

 彼は、兄から引き継いだ財産を10倍に増やし、20以上の支店、60の町の代理商と駐在員を使って国際的な商業と金融業を営んだ。1507年以後領地を購入し、14年に伯爵に叙せられたが、自らは称号を使わず商人で通した。学芸を保護し、寄付や慈善を続け、14年には低家賃住宅フゲライを建てた。

 ついで、彼の甥(おい)のアントンAnton(1493―1560)の代に、資産は最大になったが、返済の保証のない債権が増加し、事業はスペイン王室への貸付けとアントワープでの投機に傾いた。そのためスペイン王室の支払い停止(1557、1575、1607)とアントワープの陥落(1585)で痛手を受け、17世紀には商業から退いた。

 フッガー家は、土地貴族として現在まで続いており、アントンの代から集めた多数の史料がディリンゲンのフッガー文庫に収蔵されている。

[諸田 實]

『諸田實著『ヤコプ・フッガー』(松田智雄編『巨富への道』所収・1955・中央公論社)』『諸田實著『ドイツ初期資本主義研究』(1967・有斐閣)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フッガー家」の意味・わかりやすい解説

フッガー家
フッガーけ
Fugger

15~16世紀の南ドイツで台頭した史上有名な財閥の家系。当時のドイツを経済史学上「フッガー時代」と呼ぶほど顕著な存在で,その取引圏はアウクスブルクを中心としてドイツ,ハンガリー,ボヘミア,オーストリアからイタリア,スペインなどヨーロッパ各地に及んだ。 14~15世紀に織物商人として出発したが,15世紀後半,蓄積した富を利用して金融業を開始し,本拠アウクスブルクを中心にアントワープやベネチアでも営業。 15世紀末から 16世紀初めにヤコプ2世 (フッガー ) のもとで最盛期を迎えた。ローマ教皇や国王,皇帝を財政的に援助するのと引替えに,鉱山開発の特権や商業上の独占権を獲得し,資産をますます大きくしていった。スペイン王カルロス1世が神聖ローマ皇帝カルル5世として選出されるにあたっては,選挙資金の過半をフッガー家が供給した。その結果,フッガー家はスペインとドイツを支配するハプスブルク家と密接な関係を結び,この有力君主の保護を受けて,各地に支店を設け,大規模な国際取引を営んだ。しかし,スペイン王室にあまりにも深く関係したため,16世紀後半に同王室が財政的に破綻すると,それと運命をともにせざるをえなかった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「フッガー家」の解説

フッガー家(フッガーけ)
Fugger

南ドイツ,アウクスブルクの大財閥で,15世紀末から16世紀の商業資本繁栄期にその名を残した商業・金融資本家の最たるもの。ヴェルザー家と異なり都市貴族の出ではないが,15世紀ヤーコプ(1412~69)のときイタリアとの香料・羊毛取引で産をなし,その末子ヤーコプ2世(1459~1525)のもとでティロルやハンガリーの領邦君主への高利貸付と引替えに有利な鉱山特権(銀,銅)を獲得し,一躍国際的な金融財閥にのし上がった。経営は同族会社組織によって行われ,あくどい買占め,独占によって庶民の反感を買ったが,他方でハプスブルク家の皇帝やスペイン王,ローマ教皇などへの融資を通じて宗教改革期の国際政治に大きな影響を及ぼした。

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旺文社世界史事典 三訂版 「フッガー家」の解説

フッガー家
フッガーけ
Fuggers

南ドイツ,アウグスブルクの富豪
14世紀半ばごろ同市で織物業を営み,全盛期のヤコブ2世(1459〜1525)は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世・カール5世に融資して銀・銅の採掘権を得,鉱山業,金融業,東方貿易でヨーロッパ最大の富豪となった。ローマ教皇レオ10世も融資を受け,その返済のためにドイツで贖宥状(免罪符)を販売し,ルターの宗教改革を誘発した。しかし,商業革命で打撃を受け,スペイン王室への多額の融資がこげつき,急速に衰退した。

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世界大百科事典(旧版)内のフッガー家の言及

【アウクスブルク】より

…古くからドイツとイタリアを結ぶ交通の要衝であり,現在も鉄道3線が交差し,ロマンティッシェ・シュトラーセの中間に位置する。15,16世紀には南ドイツ経済の繁栄の中心になり,フッガー家をはじめ多くの国際的巨商が輩出した。19世紀以降綿工業が発達し,現在は機械工業の中心でもある。…

※「フッガー家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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