ブリヤート族(読み)ブリヤートぞく(英語表記)Buryat

改訂新版 世界大百科事典 「ブリヤート族」の意味・わかりやすい解説

ブリヤート族 (ブリヤートぞく)
Buryat

ロシア連邦,南シベリアのモンゴル系の言語を話す民族。ブリヤート・モンゴルBuryat-Mongolともいう。大部分はロシア連邦のブリヤート共和国に住んでいる。人口はロシア全土で約41万7400(1989)。形質人類学的にはモンゴロイドの内陸アジア型。17世紀にラマ教(チベット仏教)がチベットからモンゴルを経由して入ってくるまでは,住民の間にはシャマニズムが行われていた。シャーマンには白と黒があり,白は天に住む善神テンゲリン,黒は地下に住む悪神に仕えるものとされた。西部の住民は形式的にはロシア正教徒とされたが,ラマ教徒と同じくシャマニズムの痕跡を著しく残していた。

 ブリヤートの諸部族チンギス・ハーンのはるか以前からバイカル湖周辺に住んでいた。ロシア人の進出した17世紀当時,おもな部族はブラガートBulagaty,エヒリトEkhirity,ホリンツィKhorintsy,ホンゴドルKhongodoryなどであった。その後モンゴルやエベンキ族(北方ツングース)の一部もこれに同化された。17世紀末から18世紀にかけてロシア帝国に編入された後,一民族として統合された。

 生業は牛,羊,馬,ラクダ牧畜と,春まきの麦類を主とする農耕で,西部は東部よりも農耕の比重が高かった。狩猟漁労も若干の役割を果たしたが,漁労はほとんどバイカル湖岸,オリホン島(バイカル湖にある),セレンガ川湖沼などでのオームリ(コクチマス科の魚)漁であった。

 衣食住の伝統的なものはモンゴルのハルハ部族の牧畜文化とほとんど同じであった。右側に襟のある外衣,移動用の組立式ゲル天幕),乳製品と肉を主とする食物などである。しかし,西部の住民にはロシアの影響が著しく,今では東部でも広く木造の住居が普及している。祭りの代表的なものは弓射,相撲,競馬を催すスル・ハルバンSur-kharbanとよばれる春祭である。十月革命後,社会主義化がすすめられ,牧畜も農耕もすべて集団化されている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブリヤート族」の意味・わかりやすい解説

ブリヤート族
ブリヤートぞく
Buryat

南シベリアの半農半牧民でモンゴル人の一民族。ロシアに約 37万人,モンゴルに約4万人が住む。ロシアでは主としてブリヤート共和国,チタイルクーツクなどに居住している。以前はバイカル湖周辺の山地で天幕生活をする遊牧民であったが,17世紀中頃からロシア人と接触し,定着して農耕も行うようになった。コムギ,ジャガイモ,野菜,ビートを栽培し,ウシ,ウマ,ヒツジ,ラクダなどを飼育し,組織的な狩出し狩猟を行う。父系氏族制で,社会は上層,下層の2階級に分れる。シャーマニズムと仏教の混合した宗教を信じ,東部のブリヤート族はハルハ・モンゴルの影響でより仏教的である。少数のロシア正教徒もいる。

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世界大百科事典(旧版)内のブリヤート族の言及

【パンディタ・ハンボラマ】より

…ザバイカル地方のブリヤート族(今のロシア連邦のブリヤート共和国に居住)におけるラマ教主。ブリヤート族の間にラマ教が伝来したのは18世紀初めのことであるが,その普及の勢いはめざましく,約半世紀後にはザバイカル地方全域に及んだ。…

【ラマ教】より

…オイラート族の一部は17世紀初めにロシア領内のボルガ川下流域地方へ移住して,ボルガカルムイクと呼ばれ,ラマ教信仰を守ったが,今はカルムイク共和国を作っている。 ザバイカル地方のブリヤート族の間に黄帽派ラマ教が広まったのは18世紀前半からであるが,普及の速さはめざましく,1846年にはザバイカル全体でラマ廟34,ラマ僧4500余人,信者12万余人を数えた。ラマ教界の統轄者としてパンディタハンボラマが1764年以来置かれ,その歴代の就任には帝政ロシア政府の承認を必要とされた。…

※「ブリヤート族」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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