日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブール」の意味・わかりやすい解説
ブール(George Boole)
ぶーる
George Boole
(1815―1864)
イギリスの数学者。リンカーンの靴職人の子として生まれた。父は教養が高く、子供にいろいろな語学を教えた。ブールは16歳から4年間、小学校の補助教員を勤め、20歳ごろから数学を独学した。彼は貧民の出身であったことから、イギリスの著名な大学の教授にはなれず、コークのクィーンズ大学教授として一生を終わった。
数学上の仕事としては、1841年、初めて代数的不変式論の基礎を築いた論文を発表した。その後、微分方程式や定差方程式についても大きな貢献をした。1854年、大著『論理と確率の数学的な理論の基礎になる思考の法則の研究』を刊行した。このなかで今日のクラスの論理を展開し、それが今日の「ブール代数」になった。B・ラッセルはブールの著作をみて「純粋数学はブールによって発見された」と、その仕事をたたえている。著作『微分方程式論究』(1859)、『定差法論究』(1860)の二つは名著として広く利用された。
[井関清志]
ブール(Pierre Marcelin Boule、人類学者)
ぶーる
Pierre Marcelin Boule
(1861―1942)
フランスの地質学者、古生物学者、人類学者。とくにヨーロッパのネアンデルタール人の研究で有名。トゥールーズおよびパリで地質学と古生物学を学び、のち古人類化石の研究を行った。1892年にフランス国立自然史博物館の助手となり、1902~1936年にわたって教授を務めた。ヨーロッパ、パレスチナ(イスラエル)、北アフリカの古人類を研究したが、1908年にラ・シャペル・オ・サン(フランス発見のネアンデルタール人)の骨格を復原、研究。その結果、ネアンデルタール人は、現代人に比べてきわめて原始的であることを強調したが、この見解はのちに否定され、逆に両者の近縁性が証明された。しかし、その著書『化石人類』は現在も重要な文献とされている。晩年にはフランス地質学会長となり、古人類研究所を設立し、学界に大きく貢献した。
[埴原和郎]
ブール(Hermann Buhl)
ぶーる
Hermann Buhl
(1924―1957)
オーストリアの登山家。インスブルックに生まれ、少年時代からチロール、ドロミーティなどで登山を行い、1948年フライシュバンクの南東壁、49年エギュイーユ・ブランシュ・ドプトレイ北壁、50年マルモラータ南西壁冬季、52年ピッツバデイレ北東壁などヨーロッパ・アルプスの困難なルートを多くの場合単独で登攀(とうはん)した。53年ヘルリヒコファーの率いる登山隊に参加、ナンガ・パルバトに単独で初登頂、57年カラコルムのブロード・ピークに4人の隊で初登頂に成功した。その帰りにチョゴリザで雪庇(せっぴ)を踏み抜き遭難死。自伝的記録の『八千米(メートル)の上と下』があり、孤高で激しい登攀の精神は後の登山者に多くの影響を与えた。
[徳久球雄]
ブール(Pierre Boulle、小説家)
ぶーる
Pierre Boulle
(1912―1994)
フランスの小説家。アビニョンに生まれる。パリ大学に学ぶ。技術者として東南アジアの農園経営にあたったのち、第二次世界大戦に参戦、ビルマ(現ミャンマー)などに転戦する。その経験から『戦場にかける橋』(1952)を書き、サントブーブ賞を受ける。エキゾチスムと白人中心の英雄主義にたつ数多くの冒険小説で成功を収め、一方、SFの形をとる一種の哲学小説『猿の惑星』(1963)の苦いまなざしももつ。
[小林 茂]
『関口英男訳『戦場にかける橋』(ハヤカワ文庫NV)』▽『大久保輝臣訳『猿の惑星』(創元推理文庫)』