プガチョフの乱(読み)プガチョフのらん

精選版 日本国語大辞典 「プガチョフの乱」の意味・読み・例文・類語

プガチョフ‐の‐らん【プガチョフの乱】

(プガチョフはPugačjov) 一八世紀ロシア農民一揆一七七三‐七五)。エカテリーナ二世治下、ドン‐コサック出身のプガチョフの指導もとボルガ川沿岸のコサックや農民蜂起鉱山・製鉄労働者・逃亡農奴も加わって農民戦争にまで発展したが、政府軍に敗れた。

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改訂新版 世界大百科事典 「プガチョフの乱」の意味・わかりやすい解説

プガチョフの乱 (プガチョフのらん)

1773-75年にロシアに起こったコサック,非ロシア人原住民,ロシア人農民らの反乱。指導者プガチョフEmel'yan Ivanovich Pugachyov(1740か42-75)はドン川流域の下層コサックの出身で,数度にわたり戦争に従軍し将校となったが,1771年末に自由を求めてカフカスに逃亡して以来,潜伏逮捕,脱走,放浪を繰り返した。73年8月,ヤイク・コサックのなかに姿を現し,前年に鎮圧されたヤイクの反乱の参加経験者たちと共謀してロシア皇帝ピョートル3世を僭称し,農民の参加を予想して反乱を起こした。73年9月17日にコサックに対する勅語を出し,19日に約80人で進撃を始め,10月にはオレンブルグ包囲,73年末には砲86門,3万人の大部隊となり,南ウラル一帯を制覇したが,74年3月大敗を喫した。包囲を解いたプガチョフは,バシキール人の大部分を反乱にひき入れ,みずからはウラル山脈を横断して工場や要塞を落とし,カマ川流域に出て,ボルガ中流の要衝カザンを攻撃したが,撃破された。この大敗によってプガチョフはモスクワ進撃を断念してボルガを渡河し,農業地帯に入った。自由と土地を約束された地主農民(ポメーシチチエ・クレスチヤーネ)は地主を襲撃して反乱に加わり,各地に無数の農民軍が活躍し,モスクワ周辺地域にもその勢いが及んだ。露土戦争を急いで終結した政府は討伐軍を増強してプガチョフ本隊を急追し,そのためプガチョフはドン川に向かって南下,その途中で同志の裏切りにより逮捕され政府軍に引き渡された。プガチョフとその4人の同志は75年1月モスクワで処刑されたが,各地の農民反乱は同年夏まで続いた。この大反乱に驚いた政府は,同年治安対策を主眼として郡県制度の大々的な再編成を実施した。

 ロシア最後の農民戦争といわれるこの反乱は,農奴主貴族の全一的支配に対して,下層コサック,工場農奴,地主農民,非ロシア人住民が〈善良なる百姓皇帝〉のもとに,コサックの自由を理想として戦ったものといえる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「プガチョフの乱」の意味・わかりやすい解説

プガチョフの乱
ぷがちょふのらん

1773~75年のロシアの農民戦争。エカチェリーナ2世の治下で農奴の奴隷化が促進されたが、この乱は、このような圧制に対して頻発する農民一揆(いっき)を背景にしたものであった。

 ドン・コサック出身のプガチョフЕмельян Иванович Пугачеёв/Emel'yan Ivanovich Pugachyov(1742ころ―75)が、1773年ヤイク川(現ウラル川)地方に現れ、政府の課した負担に反発していたヤイク・コサックを率いて反乱を宣し、秋にオレンブルグ要塞(ようさい)を包囲した。反乱軍には逃亡農民やバシキール人なども加わった。要塞の攻略には失敗したものの、以後反乱軍は最盛時に5万人に達した。カマ川流域を制圧して、翌年夏にはボルガ川の要衝カザン、サラトフを占領した。プガチョフはピョートル3世を僭称(せんしょう)して、農奴解放の詔勅を発し、多くの貴族、役人を処刑した。ボルガ川から中央ロシアにかけての各地で農民が蜂起(ほうき)し、その勢力はモスクワに非常な脅威を与えた。しかし増強された政府軍に敗退を重ね、74年8月末ボルガ下流で決定的な敗北を被った。プガチョフは再起を図ってドン地域に走ったが、密告のため政府軍に捕らえられ、75年1月モスクワで処刑され、反乱に参加した農民も残酷な報復を受けた。反乱は長く支配層に恐怖感を与えた。

 なお、プーシキンの小説『大尉の娘』はこの反乱を素材としたものである。

[伊藤幸男]

『阿部重雄著『帝政ロシアの農民戦争』(1969・吉川弘文館)』『米川哲夫訳「プガチョーフ反乱史」(『プーシキン全集5』所収・1973・河出書房新社)』

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百科事典マイペディア 「プガチョフの乱」の意味・わかりやすい解説

プガチョフの乱【プガチョフのらん】

1773年―1775年にわたりロシアに起きた農民戦争。ドン川流域のコサック出身のプガチョフEmel'yan Pugachyov〔1742ころ-1775〕を指導者(彼は皇帝ピョートル3世を僭称)にコサック,非ロシア人先住民,ロシア人農民,鉱山労働者らが圧政に抗して蜂起(ほうき)。地主貴族打倒や土地解放を要求し,ヤイク川(ウラル川)流域から南ウラル一帯に波及した。プガチョフの逮捕,処刑で終結。
→関連項目エカチェリナ[2世]オレンブルグポチョムキン

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旺文社世界史事典 三訂版 「プガチョフの乱」の解説

プガチョフの乱
プガチョフのらん
Pugachyov

1773〜75年,エカチェリーナ2世治下のロシアに起こった農民反乱
露土(ロシア−トルコ)戦争中,コサック出身のプガチョフ(1742 (ごろ) 〜75)が農奴の解放を唱えて反乱を指導。反乱はヴォルガ川・ウラル川など南ロシア一帯に広まったが,鎮圧された。

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世界大百科事典(旧版)内のプガチョフの乱の言及

【カザフ族】より

…18世紀後半になると,カザフスタンは,畜産物供給地,穀物や工業製品の市場としてロシアとの経済的結びつきを強め,同時に,軍隊や商人,入植者によって土地を奪われたカザフの不満は,しだいにつのっていった。プガチョフの乱は,小オルダと中オルダの一部をもまき込んだが,それに続き,1783‐97年には,反ロシア暴動が勃発するにいたった。19世紀前半,ロシアは中・小オルダを相ついで直接管轄下に置き,ホーカンド軍を破って大オルダをも服属させ,1860年代には,全カザフスタンを支配下におさめた。…

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