日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベック」の意味・わかりやすい解説
ベック(Jeff Beck)
べっく
Jeff Beck
(1944―2023)
イギリスのロック・ギタリスト。サリー県生まれ。1960年代にエリック・クラプトンやジミ・ヘンドリックスとともに、エレクトリック・ギター演奏の可能性を広げた一人。ロンドンのアート・スクール在学中に音楽活動を始め、スクリーミング・ロード・サッチScreamin' Lord Sutch(1940―1999、ボーカル)のバンドでの演奏が注目を集める。1964年末にクラプトンの後任としてヤードバーズのリード・ギタリストとなった。フィードバック奏法(アンプの音をギターのピックアップに共鳴させて音を伸ばし続ける奏法)などの革新的な技巧を駆使しての攻撃的なギター演奏によって、白人ブルース・ロック・バンドであったヤードバーズのサウンドをサイケデリック・ロック風に発展させ、「ハート・フル・オブ・ソウル」や「シェイプス・オブ・シングス」などのヒット曲を生んだ。この時期のヤードバーズはミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『欲望』(1966)に出演しており、当時の彼らのパフォーマンスをみることができる。
ベックは1966年末にヤードバーズを脱退。ロッド・スチュアート(ボーカル)、ロン・ウッドRon Wood(1947― 、ベース)らとジェフ・ベック・グループを結成。1968年の『トゥルース』と1969年の『ベック・オラ』の2枚のアルバムを発表する。ベックのギターとスチュアートのボーカルのスリリングなかけ合いと、ブルースを大音量のハード・ロックに編曲したサウンドは、ヤードバーズの同僚であったジミー・ページJimmy Page(1944― )率いるレッド・ツェッペリンに先駆けるもので、1970年代のヘビー・メタルの雛型(ひながた)にもなった。
1970年にスチュアートとウッドがフェイセス加入のためにそろって脱退。ベックはグループを解散して、バニラ・ファッジのリズム・セクションであったティム・ボガートTim Bogert(1944―2021、ベース)とカーマイン・アピスCarmine Appice(1946― 、ドラム)とトリオを組もうとするが、自動車事故で重傷を負い、療養を余儀なくされた。1971年に健康を回復したベックは、マックス・ミドルトンMax Middleton(1946― 、キーボード)やコージー・パウエルCozy Powell(1947―1998、ドラム)らと第2期ジェフ・ベック・グループを結成し、2枚のアルバムを発表した後、翌年に解散。1973年にボガート、アピスと念願のトリオ、ベック・ボガート&アピスを実現させるが、結局はアルバム1枚と日本で録音されたライブ盤だけで解散し、トリオは短命に終わった。
ベックがソロ・アーティストとしての地位を確立したのは、ビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンGeorge Martin(1926―2016)がプロデュースを手がけた1975年のアルバム『ブロウ・バイ・ブロウ』である。これは全曲がインストゥルメンタル曲で、ジャズ、フュージョンを志向した作品であった。そのアルバムへの高い評価と全米ヒット・チャート第4位という好セールスに励まされ、翌1976年には元マハビシュヌ・オーケストラのキーボード奏者ヤン・ハマーJan Hammer(1948― )と組んで、やはり全曲インストゥルメンタルの『ワイアード』を発表。ハマーのグループとはいっしょにツアーも行い、翌1977年にはライブ・アルバムを残している。
1980年代以降のベックはロンドン郊外の自宅で静かに暮らし、数年に1枚アルバムを発表するというペースで活動する。目だった活動としては、ナイル・ロジャーズNile Rodgers(1952― )にプロデュースをまかせた1985年のポップ・ロック・アルバム『フラッシュ』から、ロッド・スチュアートが客演して歌った「ピープル・ゲット・レディ」がヒットしたこと、1987年のミック・ジャガーのソロ・アルバムへの参加、1989年に行ったブルース・ギタリストのスティービー・レイ・ボーンStevie Ray Vaughan(1954―1990)との合同ツアーなどがある。2003年にアルバム『ジェフ』を発表した。
[五十嵐正]
ベック(Henry Becque)
べっく
Henry Becque
(1837―1899)
フランスの劇作家。家が貧しく、高等中学校卒業後転々と職をかえながらオペラの台本や通俗喜劇を書いた。1870年社会劇『ミッシェル・ポーペ』がようやく日の目をみたが、翌年発表した『誘拐』とともに認められず、その後は演劇記者を勤め、やっと『梭(おさ)』(1878)と『堅気の女』(1880)で成功。かねてコメディ・フランセーズに提出してあった『からすの群』が採用されたのは1882年である。突然夫に先だたれた小工場の未亡人とその3人の娘が、死体に群がるからすのように冷酷な債権者らの餌食(えじき)になる惨状を、古典劇と同じ簡潔な台詞(せりふ)でありのままに描いたこの作品の真実性は、実生活にはあっても当時の因襲的な演劇にはみられぬものと、上演もそうそうに打ち切られた。85年初演の『パリの女』は、のちに自由劇場のアントアーヌがこの作にふさわしい雰囲気を醸し出して上演し、『からすの群』とともにベックは写実主義演劇の祖となる評価を後世に残した。しかしベックは貧困と病苦の63年の生涯を、孤独な慈善病院で終えた。
[本庄桂輔]
『小田切照訳『群鴉』(『世界戯曲全集 第33巻』所収・1930・近代社)』▽『堀口大学訳『巴里女』(『近代劇全集 第14巻』所収・1929・第一書房)』
ベック(Aleksandr Al'fredovich Bek)
べっく
Александр Альфредович Бек/Aleksandr Al'fredovich Bek
(1903―1972)
ソ連の小説家。1941年のモスクワ防衛戦を描いた『ウォロコラムスク街道』(1943~44)で有名になり、その後は戦記物や、工業技術面に題材をとったドキュメンタルな伝記的ジャンルで新境地を開いた。夫人ロイコとの共作『若人たち』(1954)、長編『ベレシコフの生涯』(1956)などがあり、スターリン時代を告発した長編『新しい任務』(1972)は国外で発表されたものである。
[江川 卓]