ベニン(英語表記)Benin

翻訳|Benin

精選版 日本国語大辞典 「ベニン」の意味・読み・例文・類語

ベニン

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デジタル大辞泉 「ベニン」の意味・読み・例文・類語

ベニン(Benin)

ベナン

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改訂新版 世界大百科事典 「ベニン」の意味・わかりやすい解説

ベニン
Benin

基本情報
正式名称=ベニン共和国République du Bénin 
面積=11万4763km2 
人口(2010)=878万人 
首都ポルト・ノボPorto-Novo(日本との時差=-8時間) 
主要言語フランス語,フォン語,ヨルバ語 
通貨CFA(アフリカ金融共同体)フランFranc de la Communauté Financière Africaine

西アフリカギニア湾に面した共和国。ベナンとも呼ばれる。もとはダホメーダオメー)Dahomey共和国といっていた。面積は日本の本州の約半分で,アフリカのなかでは小国に属する。

南北に細長い国土をもつベニンの自然は,南北で大きく変化している。ギニア湾に面した南部の気候は高温多湿で,乾季と雨季がそれぞれ年2回みられ,低湿な地形とあいまって,海岸地帯にはマングローブ林の茂るラグーン(潟)が発達している。内陸は起伏の緩やかな丘陵地帯がつづき,気候は北部に向かうほど乾燥が著しく,乾季と雨季がそれぞれ年1回の典型的なサバンナ型となる。12~3月には北方のサハラ砂漠から乾燥した熱風ハルマッタンが吹く。水系は,北西部の高原を境に,北のニジェール川水系と南に流れてギニア湾に注ぐウエメ川水系とに二分される。
執筆者:

総人口の2/3は南部の海岸地方に集中している。住民は大きく三つのグループに分かれる。かつてダホメー王国ポルト・ノボ王国,アラーダ王国などを建設したフォン族が最大の勢力を誇り,アジャ族もそれに近縁である。南部にはまた,隣国のナイジェリアから浸透してきたヨルバ族も多く居住し,おもに商業に従事している。中部にはバリバ族,バヤダ族,イチャ族,チャベ族,マニグリ族など,北部にはデンディ族,グルマ族,ボコティエンガ族,ベルバ族,チョコシ族,ウォアバ族などが居住している。北部には牧畜民のフルベフラニ)族も1万人弱居住している。フルベ族以外の住民は農耕民で,南部ではキャッサバ,トウモロコシを,中・北部ではシコクビエ,ヤムイモ,ラッカセイ,イネを主作物として栽培している。また南部ではアブラヤシ,ココヤシが貴重な輸出作物となっている。海岸のラグーン地帯には漁労を行うアイゾ族,ペダ族,ミナ族などがいる。さらに海岸地方には,かつて奴隷交易に従事し,その後はパーム油の取引に従事する,ブラジル帰りの混血も居住している。

 フランス植民地時代の教育の普及などの影響を受けた南部の住民は,独立後も大きな勢力を形成し,北部の住民との対立が生じている。南部においても,ダホメーとポルト・ノボの歴史的な対立が尾を引き,結局ベニンの政治勢力は三分状態である。ベニン人はコートジボアールなど,もとのフランス植民地の各国で下級役人などの職で活躍していた。言語はフランス語が公用語で,フォン,ヨルバ,デンディなどの言語も有力である。宗教は多くの人が固有の伝統宗教を信仰しているが,海岸地方にキリスト教が浸透し,北部にはイスラム教徒も居住している。
執筆者:

わずか東西100kmほどの幅でギニア湾に面しているこの国の沿岸地域には,15世紀ころからヨーロッパ人が渡来し,基地を建設して奴隷貿易を盛んに行っていたことから,このあたりの沿岸をヨーロッパ人は奴隷海岸と呼んでいた。19世紀末にフランスによって植民地化されるまでは,この地域は文化的系譜を異にするバリバ,ヨルバ,フォンなど数多くの部族によって住み分けられ,数多くの小王国が栄枯盛衰を重ねてきた。そのなかで,今日のアボメー市を都として建設されたダホメー王国は,18世紀前半にアラーダ王国を征服して沿岸の奴隷貿易港ウィダーの支配権を握って以来,ヨーロッパ人との奴隷貿易によって繁栄した。19世紀に奴隷貿易が衰退したのちは,パーム油の生産,輸出を経済的基盤とし,1894年フランス軍に敗北するまで繁栄を続けた。その強力な中央集権的政治組織を基盤に栄華を極めたゲゾGhezo(Guézo)王(在位1818-58)の名は,同国が組織したアマゾンと呼ばれる女性の軍隊とともにヨーロッパにも知れわたった。

 19世紀末までにほぼ完全に全土をフランス軍に征服されたこの地域は,1904年セネガルのダカールに総督府をおくフランス領西アフリカに編入された。以来,フランスによって推し進められた植民地開発は,さしたる鉱物資源も存在しないこの地域ではそれほどの成果を生み出さなかった。ただ宣教師の活動を含め,南部を中心に行われたヨーロッパ式教育の普及が進み,数多くのアフリカ人植民地エリートを輩出し,アフリカのカルティエ・ラタン(パリの学生街の名)と呼ばれた。

 アフリカの年といわれた1960年8月1日,この地域は前述の王国の名を冠してダホメー共和国として独立を達成した。しかし,植民地化前の文化的系譜の多様性,植民地時代の開発の南北の格差などを反映して形成されたマガHubert Maga(初代大統領。バリバ族出身),アピティSourou Migan Apithy(ヨルバ族出身),アホマデグベJustin Ahomadegbé(フォン族出身)をそれぞれ領袖とする三大政治勢力のあいだでの政権抗争が絶えなかった。これに軍部がからんで,72年にケレクAhmed Kérékou(1933- )少佐が軍事クーデタによって政権を奪取するまで,前後4回のクーデタが繰り返された。

 北部の小部族(ソンバ族)出身の青年将校でわずか39歳の若さで政権の座についたケレクは,75年過去の政争に終止符を打つべく,自国内ではなく現在のナイジェリアにかつて栄えたベニン王国の名を採用し,かつケレク政権のマルクス=レーニン主義的志向を表明すべく,国名をベニン人民共和国と改めた。

1972年の軍事クーデタの成功によって政権の座についたケレクは,75年に国名を改めるとともに,〈ベニン人民の至高の形態の政治組織〉としてベニン人民革命党(PRPB)を単一政党として結成した。続いて77年に制定された〈基本法〉は,革命国民議会を〈国家権力の最高機関〉として,国家元首である大統領選出の権限を与えた。またこの基本法は,マルクス=レーニン主義の学習の必要性を主張し,人民の革命的独裁を肯定したが,農民の土地私有は,手工業者その他の私有財産とともに承認し,外国人の資産,活動も,それが国の経済に益するかぎり保護を与えるとした。89年8月ケレクは大統領に三選されたが,政治民主化を求める反体制運動に押されて12月にはマルクス=レーニン主義の放棄,一党制の廃止を発表した。さらに90年3月,基本法を廃止して国会を解散,新憲法制定までの暫定内閣を発足させ,国名からマルクス=レーニン主義志向を示す〈人民〉の2字を除きベニン共和国に改めた。91年3月新憲法のもとでの初めての大統領選挙では,ソグロNicéphore Sogloが,18年間政権の座にあったケレクを破って当選を果たした。しかし5年後の96年選挙では,いまやマルクス=レーニン主義の衣を脱ぎ捨てたケレクがソグロを破って再び大統領の座に返り咲いた。

ベニンは,人口の80%以上が農業に依拠し,貿易も輸出総額の85%がパーム油,ラッカセイなどの農産物によって占められている農業国である。沿岸地方一帯40万haに広がる天然のアブラヤシ林では,独立以来,改良品種への植えかえが進められてきた。

 国内に電力用の水資源がなく,電力の9割をガーナから輸入しているということもあって,工業は未発達で,繊維,食品加工業などの国内総生産に対する寄与率は十数%の水準にとどまっている。鉱物資源も乏しく,わずかに沿岸沖合に発見された推定300万tの油田開発に期待が寄せられている。
執筆者:

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ベニン」の解説

ベニン
Bénin

西アフリカ,ギニア湾に面する共和国。沿岸部は15世紀以降,ヨーロッパ人による奴隷貿易が行われ,奴隷海岸と呼ばれた。19世紀末,フランスの支配下に置かれた。1960年,ダホメ共和国として独立。75年,ベニンと改称。

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百科事典マイペディア 「ベニン」の意味・わかりやすい解説

ベニン

ベナン

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベニン」の意味・わかりやすい解説

ベニン
べにん

ベナン

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベニン」の意味・わかりやすい解説

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