ブルガリア北部,ヤントラYantra川上流の河岸にある都市。同名県の県都。人口10万(1990)。1965年までタルノボTǎrnovoと呼ばれた。ソフィアの東方240kmに位置し,ソフィアに遷都されるまでのブルガリアの首都であった。黒土41%という肥沃な地帯の農業中心で,食肉加工,製糖,缶詰,蜂蜜,バター,牛乳加工,ブドウ酒製造などの食品工業(市の工業生産の約60%)が盛んである。工業生産は1861年イタリア人によって織物工場が建てられたのに始まるが,今では農業機械,建設機械などの機械製作,金属加工,木材加工,製紙,化学および合成ゴム,繊維などの諸工業がある。ソフィア~バルナ,ルセ~スタラ・ザゴラ間を鉄道と自動車道で結ぶ交通の要衝である。1822年にリラの修道院などと同じく,ブルガリアで最初の教会学校ができ,56年には皮革工組合の技術学校がつくられ,現在,士官学校と総合大学,各種図書館,劇場,歴史博物館がある。30をこえるホテルがあり,旧都の史跡を見学するために集まる観光客が多い。
町の歴史は古く,旧石器時代の遺跡もある。1393年まで,イワン・アッセン1世(在位1187-96)に始まる第2次ブルガリア王国時代の栄光の都で,アッセン2世(在位1218-41)の時代にはスラブ文化全体の中心地となった。ロシア,ルーマニア,セルビアなどからの留学生の集まる学都となり,〈ブルガリアのアテネ〉と呼ばれた。1393年オスマン・トルコ軍に攻略されて第2次ブルガリア王国は滅亡したが,以後5世紀にわたるオスマン・トルコ支配の間もブルガリアにおける教育の中心都市であった。1876年の武装蜂起(四月蜂起)の中心となり,91年にブラゴエフらの指導するブルガリアで最初の社会主義協議会ができた。この地に生まれ育った社会主義運動は第2次大戦期に反ファシズム運動として引き継がれ,その最大の拠点であった。
執筆者:山本 敏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…ビザンティン帝国は北のノルマン人と北西のハンガリー人の侵攻に対する対応に追われていたので,国内での権威はゆるんでいた。そこで,タルノボ(現ベリコ・タルノボ)一帯を掌握していたクマン系のブルガリア人貴族ペータルPetâr(?‐1197)とアセンAsen(?‐1196)の兄弟が蜂起を宣言し(アセン兄弟の蜂起),ペータルはブルガリア皇帝(ツァール)に推戴された。蜂起軍はブラフ人〈アルーマニア人〉の項目参照)やクマン人の協力も得,バルカン山脈を越えてトラキアに侵入した。…
※「ベリコタルノボ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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