ホッジャ(読み)ほっじゃ(英語表記)Hoxha, Enver

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ホッジャ」の意味・わかりやすい解説

ホッジャ
ほっじゃ
Enver Hoxha
(1908―1985)

アルバニア政治家ジロカステルの中産階級出身。1930年にフランスのモンペリエ大学に留学、パリに移り共産主義グループに参加した。1936年に帰国、各地の中学でフランス語を教えた。1941年にアルバニア共産党が創設され、ホッジャを書記とする中央委員会が形成された。反独抵抗闘争が進展、1944年10月ホッジャを首班とする臨時政府が樹立された。第二次世界大戦後も党書記長、首相、全軍司令官の地位を確保し、当初は隣国ユーゴスラビア指導者の不信を買ったが、1948年にユーゴがコミンフォルムから排除されたため救われた。1954年に当時のソ連にあわせ権限分割を行い、党第一書記に専念、首相の地位をシェフーに譲った。ソ連におけるスターリン批判後もスターリン賞賛の態度を変えず、ソ連の海軍基地要請も拒否し、1961年にはソ連と断絶中国の援助を得た。しかし米中接近を批判し、1978年には中国とも断絶、国際的に孤立した。

木戸 蓊]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ホッジャ」の意味・わかりやすい解説

ホッジャ
Hoxha, Enver

[生]1908.10.16. ギーロカスタル
[没]1985.4.11. ティラナ
アルバニアの革命運動指導者,政治家。国民的英雄。フランスの大学で自然科学を学び,共産主義運動に参加。1936年帰国,コルチャの中学校教師となった。1939年4月イタリア軍のアルバニア占領の際,抵抗運動を指導。1941年11月8日ティラナで結成されたアルバニア共産党(→アルバニア社会党)の指導者に選ばれ,1942年9月16日創設の国民解放同盟の幹部会員となった。1943年3月以来党書記長 (1954年第1書記と改称) 。1943年7月国民解放軍最高司令部軍事委員,1944年5月国民解放反ファシスト委員会議長兼解放軍総司令官。1944年10月に臨時政府を組織し,1946年3月まで首相。1946年3月人民民主主義憲法制定後,1954年6月まで閣僚会議議長,1946~53年外務大臣兼任。上級大将。1961年11月のモスクワの世界共産党会議でニキータ・セルゲーエビッチ・フルシチョフの平和共存政策を批判し,イデオロギー的に中国共産党に近い立場を示し,「革命化」路線を展開,特権の廃止,非宗教化,自力更生などの政策を推進。1975年,民主戦線総評議会議長,新憲法起草委員会議長に就任。1977年頃から鄧小平路線の中国と対立,国際的孤立を深めた。

ホッジャ
Hodža, Milan

[生]1878.2.1. スロバキア,ヌチャニ
[没]1944.6.27. アメリカ,クリーンウォーター
チェコスロバキアの政治家,歴史学者。ホッジァとも表記される。スロバキア出身。 1905~18年ハンガリー議会代議員。 18年スロバキアとチェコの統一を支持して独立政府に参加。農民党右派を指導,緑色 (農民) インターナショナルの創立者の一人。 20年ブラチスラバ大学近代史教授。 35~38年首相に就任。親フランス外交を推進した。ミュンヘン協定後辞職,亡命,ロンドン亡命政権に参画したが,スロバキア問題をめぐって対立,アメリカに移住した。

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百科事典マイペディア 「ホッジャ」の意味・わかりやすい解説

ホッジャ

アルバニアの政治家。第2次大戦中は国民解放軍を率いて対独抵抗戦を指揮。その間1941年アルバニア共産党(1948年アルバニア労働党)を結成。1946年以後は首相・外相・国防軍司令官を兼ね,1954年以後党第一書記。反ソ・親中国政策を推進したが,1978年には中国とも断交。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ホッジャ」の解説

ホッジャ

ホジャ

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