マラ(英語表記)Jean-Paul Marat

改訂新版 世界大百科事典 「マラ」の意味・わかりやすい解説

マラ
Jean-Paul Marat
生没年:1743-93

フランス革命期の政治家スイスの中流市民の家に生まれ,フランスのボルドーとパリで医学を修め,22歳ころイギリスに渡って,医者を開業するとともに文筆に親しみ,専制政治や宮廷腐敗を批判した《奴隷の鎖》(1774)を英語で出版した。1777年にフランスに戻ったマラは,パリでアルトア伯の侍医などをしながら,自然科学の論文や刑罰制度の改革を論じた著作などを発表した。フランス革命が始まると,89年の秋から《人民の友L'Ami du Peuple》という新聞を刊行して宮廷や政府を攻撃し,早くから共和主義の論陣を張り,その論調の鋭さで民衆の人気を得て〈人民の友〉とあだ名された。92年8月10日の蜂起に際して重要な役割を果たし,同年9月に国民公会議員となった彼は,山岳派の指導者の一人として,民衆の支持を背景に革命の徹底化を主張し,ジロンド派を攻撃してその議会からの追放を実現させ,反革命派やジロンド派に対する恐怖政治の実施をはかった。そのため,ジロンド派の影響を受けたコルデーによって自宅で刺殺された。
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百科事典マイペディア 「マラ」の意味・わかりやすい解説

マラ

フランス革命の指導者。スイス出身。初めは医師。1789年《人民の友》紙を発行してパリ民衆の革命的民主主義擁護国民議会の上層ブルジョアや立法議会ジロンド派を攻撃。サン・キュロットに大きな指導力をもった。国民公会議員となり山岳派による恐怖政治の中心人物だったが,山岳派の独裁成立後シャルロット・コルデーにより入浴中に刺殺。

マラ

フィジーの政治家。高位の先住フィジー人首長の出自で,独立移行時には憲法制定などフィジーの国づくりに貢献。1970年の独立後は長く首相と外相を兼任。南太平洋フォーラムの設立にも尽力した。数次の政変の中でもフィジー政界の中心にあり,1994年の共和制移行により大統領に就任。2000年のクーデタで引退。

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世界大百科事典(旧版)内のマラの言及

【コルデー】より

…フランス革命期にJ.P.マラを暗殺した女性。コルネイユの子孫としてノルマンディーに生まれ,はじめはフランス革命に同感していたが,1793年に,国王の処刑とジロンド派の追放によって革命の進行に疑念を抱き,ジロンド派に同情して,恐怖政治の指導者マラの殺害を志した。…

※「マラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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