マン(Thomas Mann、小説家)(読み)まん(英語表記)Thomas Mann

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

マン(Thomas Mann、小説家)
まん
Thomas Mann
(1875―1955)

ドイツの小説家。ハインリヒ・マンの弟、クラウス・マンの父。6月6日、北ドイツの旧ハンザ同盟都市リューベックで数代にわたって穀物商会を営んできた豪商の家に生まれる。市参事会員の父親の死後、遺言により商会は清算された。1894年実科高等学校を修了すると、母や弟妹を追って南ドイツのミュンヘンに移った。19歳であったが、それまでのリューベック時代、由緒ある古都の市民的職業倫理の精神は、マンの「精神的生活形式」の支柱としてその創作態度に大きな影響を与え、ブルジョア的な生活環境は、後年社会主義への共感を示すマンの生活感情に基礎を与えるに至っている。

 ミュンヘンに移り住んで火災保険会社の無給見習社員として勤務のかたわら書き上げた短編小説『転落』が、詩人デーメルに認められ、これがきっかけとなって作家生活に踏み出す。これから1898年までに前後2回、あわせて2年近くイタリアに滞在するが、この間、短編小説『小男フリーデマン氏』をフィッシャー書店の文芸誌『ドイツ展望』の編集部に送ったことが機縁となって、同書店との半世紀以上に及ぶ関係が生じた。まず最初の短編集『小男フリーデマン氏』が98年に刊行され、書店主ザームエル・フィッシャーから「少し長い小説」を書くよう促されて『ブデンブローク家の人々』が誕生することになった。約30年後に授与されたノーベル文学賞の授賞対象はこの長編処女作である。この時期の作品にみられる心理主義はややもすれば唯美主義への傾斜を示すが、第二の短編集『トリスタン』(1903)に収められた『トニオ・クレーガー』は、作品を自己の「生そのものの表現形式」とみる倫理性の表現で、以後この立場は一貫して変わるところがない。

 1905年、マンの唯一のドラマ『フィオレンツァ』が完成、フィレンツェの実質上の支配者ロレンツォ・デ・メディチとドミニコ会修道士サボナローラとの対決を描いて、生と精神の問題を『トニオ・クレーガー』に引き続いて追究した作品である。この年マンはカトヤ・プリングスハイムと結婚、まもなく長編小説『大公殿下』が構想される。ドイツのある小国の若い君主が国家財政の危機を、アメリカの富豪の娘との結婚によって救うというメルヘン的な筋立てのなかで、王侯的存在の生活形式が吟味される(1909)。続いて詐欺師マノレスクの回想に想を得た『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』の執筆が始まるが、「非現実的幻想的存在形式の心理学」としてのこの小説は1913年に中断する。12年の「頽廃(たいはい)の悲劇」『ベニスに死す』に対応する「風刺劇」として『魔の山』が計画される。

 1914年第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)にあたって国民的感動にとらえられたマンは、エッセイフリードリヒと大同盟』(1915)などの論文によって、西欧デモクラシーに対する帝政ドイツの戦いを支持、兄のハインリヒをはじめとする反帝政平和主義者たちの反発を招いた。これを契機に自身のドイツ性の徹底的検討を試み、大戦のほとんど全期間をこの作業に費やした。その成果が論集『非政治的人間の考察』(1918)である。これによってマンは、いわば保守層の指導的イデオローグと目されることになったが、ワイマール共和国成立後、共和制を敵視する保守勢力が先鋭な非人間的傾向を示し出すのにつれて、マンはこれにしだいに反発を強め、22年『ドイツ共和国について』と題する講演でデモクラシー擁護の立場を宣言した。マルクスヘルダーリンの「出会い」のなかにドイツの未来の可能性をみ、「その出会いはいままさに行われようとしている」としたのはこのころのことである(『ゲーテとトルストイ』)。24年に刊行された『魔の山』は、第一次世界大戦勃発に至る「7年間」が時間的枠組みになっているが、基礎になるのはマンの大戦後の思想的、政治的立場である。『旧約聖書』「創世記」のヨゼフ挿話を扱った『ヨゼフとその兄弟』四部作(『ヤコブ物語』『若いヨゼフ』『エジプトのヨゼフ』『養う人ヨゼフ』)は、1920年代の非合理主義嗜好(しこう)に対する批判的立場からの、心理学による神話の人間化の試みであり、古代世界を舞台に人類の和解の歌をうたい上げたものである。しかし26年からこれが完成するまでの16年間に世界は大きく変動し、マン自身も33年国外旅行に出たまま帰国を断念、フランス、スイスを経て、38年アメリカに移り住み、44年にはアメリカの市民権を得る。

 これより先1929年、ドイツ人としては第一次世界大戦後最初のノーベル文学賞受賞者となった。同じ年マン自身が「ファシズムの心理学」とよんだ短編小説『マーリオと魔術師』を執筆、その後も『理性に訴える』(1930)などの講演やエッセイを通じてファシズムに対する警告を続けた。33年ヒトラーの政権掌握後まもなくドイツを離れたが、ドイツとの精神的かかわりを維持する方法を模索して、36年、ようやくヒトラー・ドイツとの絶縁を表明した。この年に計画した、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』の女主人公のモデルのワイマール訪問とゲーテとの再会を描く長編小説『ワイマールのロッテ』は、アメリカ移住の翌年39年に完成、またインド伝説による短編小説『すげかえられた首』(1940)に続いて、「ヨゼフ」小説の第四部『養う人ヨゼフ』の執筆が開始され、43年の初頭に「悠々と流れゆく7万行」の「人類の歌」全巻が完結する。同じく『旧約聖書』に題材を求めた、モーセを主人公とする短編小説『掟(おきて)』は、『ヨゼフ』完成後まもなく2か月足らずで書き上げられた。

 1900年代の初めから腹案として温められていた「ファウスト」小説が同じ1943年に取り上げられる。第二次世界大戦後の47年に完成したこの『ファウストゥス博士』は、講演『ドイツとドイツ人』や『われわれの経験からみたニーチェの哲学』が示すように、ドイツ精神の自己批判の性格を色濃く帯びている。この作品の厳しいドイツ批判、さらにはドイツ再建の精神的支柱として帰国を要請する各方面からの声を退けたことは、反感と敵意を招いた。

 1949年ゲーテ生誕200年記念にあたり、ドイツ統一の願いを込めて旧西ドイツのフランクフルトとソビエト地区ワイマールで同じ記念講演を行ったが、このことは「ヨーロッパの良心」の行動として共感をよんだ反面では、旧西ドイツの反共的気分ばかりでなく、アメリカの反共的風土をも刺激することになり、それが、52年アメリカに決別してスイスのチューリヒ近郊に移る原因の一つになった。

 この間、グレゴリウス伝説による「恐ろしいほどに不倫な罪人が神によってローマ教皇にさえ選ばれる」限りない恩寵(おんちょう)の物語『選ばれし人』が1948年から3年余を経て51年に完成、さらに40年にわたる中断ののち54年完成した『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』第一部はマンの最後の小説作品となった。55年ふたたび東西ドイツで「シラー」講演を行ったが、その後6月末オランダ旅行に出て病を得、7月下旬血栓(けっせん)症によりチューリヒ州立病院に入院、20日後の8月12日、死去した。遺体はヨーロッパ帰還以来の住居のあるチューリヒ湖の湖畔キルヒベルクの教会墓地に埋葬された。

[森川俊夫]

トーマス・マンの短編

トーマス・マンは60年余りの創作生活のなかで、『トニオ・クレーガー』(1903)のようなかなり長いものを含めて、約30の短編を書いているが、大半は18歳から30歳代なかばまでの比較的若いころの作品である。それらのうち、長編小説『ブデンブローク家の人々』(1901、マン26歳)以前に発表されたものが12編、それ以後のものが『ベニスに死す』(1912)までで13編ある。

 かりに前者をA群、後者をB群とよぶことにすると、A群でマンが語り続けたのは、世紀末の「デカダンス」、あるいは「生からの疎外」というテーマであり、登場人物はほとんどみな心身ともに病み、疲れている。彼らを苦しめる不治の病(『幸福への意志』)、身体障害(『小男フリーデマン氏』)、病的肥満(『ルイースヒェン』)、アルコール中毒(『墓地への道』)などは、すべて「生からの疎外」の原因であり、またその象徴である。にもかかわらず登場人物の多くは生への強い意志ないし執着をもっていて、彼らなりの行動をするのであるが、結局はことごとく挫折(ざせつ)する。『ブデンブローク家の人々』の成功によって作家としての自覚が固まったのち、マンの最大の関心は、アウトサイダーとしての芸術家(または知的人間)のあり方とその救済という問題に移る。そのもっとも美しい結実は『トニオ・クレーガー』であるが、『トリスタン』(1903)、『神童』(1903)、『予言者の家にて』(1904)、シラーをモデルにした『生みの悩み』(1905)など、B群の短編の多くは同じ問題意識を背景にしたものである。

 後期の短編になると、作者の視点は大きく広がる。『無秩序と幼い悩み』(1925)はドイツのインフレーション時代の混乱を、『マーリオと魔術師』(1930)は台頭しつつあるファシズムの恐怖を描き、また『すげかえられた首』(1940)と『掟(おきて)』(1943)は神話的題材を通して、いずれも読者に現代に生きることの意味を問いかけている。

 短編作家としてのマンの筆はきわめて精緻(せいち)で、行動の奥にある人間の心理を鋭くえぐり、的確に描き出す。しかもそれらの作品には、つねに一定の距離を置いて対象をみるところから生ずる独特のユーモアがある。

[片山良展]

『高橋義孝他訳『トーマス・マン全集』12巻・別巻1(1971~72・新潮社)』『前田敬作訳『非政治的人間の考察』上中下(1985・筑摩叢書)』『V・ハンセン、G・ハイネ編、岡元藤則訳『トーマス・マンは語る』(1985・玉川大学出版部)』『望月市恵・小塩節訳『ヨセフとその兄弟』1~3(1985~88・筑摩書房)』『岩田行一・森川俊夫他訳『トーマス・マン日記』(1985~2004・紀伊國屋書店)』『実吉捷郎訳『トオマス・マン短篇集』、『トニオ・クレエゲル』改版(岩波文庫)』『関泰祐・関楠生訳『ファウスト博士』上中下(岩波文庫)』『望月市恵訳『ワイマルのロッテ』上下、『ブッデンブローク家の人びと』上中下(岩波文庫)』『青木順三訳『講演集 ドイツとドイツ人』(岩波文庫)』『佐藤晃一訳『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』(新潮文庫)』『高橋義孝訳『魔の山』上下、『マリオと魔術師』(新潮文庫)』『浅井真男・佐藤晃一訳『ベニスに死す』(角川文庫)』『カーチャ・マン著、山口知三訳『夫トーマス・マンの思い出』(1975・筑摩書房)』『片山良展・義則孝夫編『トーマス・マン文学とパロディー』(『ドイツ文学研究叢書』1976・クヴェレ会)』『辻邦生著『トーマス・マン』(1983・岩波書店)』『マリアンネ・クリュル著、山下公子・三浦国泰訳『トーマス・マンと魔術師たち――マン家のもう一つの物語』(1997・新曜社)』『ウルリヒ・カルトハウス著、大澤隆幸訳『トーマス・マンの文学世界』(1999・リーベル出版)』『友田和秀著『トーマス・マンと一九二〇年代――『魔の山』とその周辺』(2004・人文書院)』『奥田敏広著『トーマス・マンとクラウス・マン――「倒錯」の文学とナチズム』(2006・ナカニシヤ出版)』『小塩節著『トーマス・マンとドイツの時代』(中公新書)』

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