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ミルチアデス Miltiadēs

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ミルチアデス
Miltiadēs

[生]前554頃.アテネ
[没]前489頃.アテネ
古代ギリシア,アテネの政治家,軍人。マラトンの戦いで,将軍として指揮をとり,アケメネス朝ペルシアを破って勇名をはせた。名門フィレイダイ家に連なり,富裕な家の出身。同名の叔父ミルチアデス (前6世紀在世) は,トラキアのケルソネソス (現ガリポリ半島) に植民し,僭主として君臨したことで知られている。彼もまた前 516年頃ケルソネソスの僭主となり,そこでトラキアの王族ヘゲシピュレと結婚,息子キモンをもうけた。やがてペルシアの進出とともに,ダレイオス1世に臣従し,スキタイ遠征に従った。しかし前 499年に起ったイオニア反乱の際には,ペルシアに反逆し,アテネと親密な関係を結んだ。この間,レムノス,イムブロスの2島を解放し,アテネの支配下においた。前 494年反乱が鎮圧されると,5隻の船に財産を搭載してアテネに向うが,うち1隻はペルシアに捕獲された。しかし捕えられた兄メチオコスは優遇され,のちにペルシアの王族と結婚した。アテネではペルシア派のアルクメオニダイ家の扇動のためか,ケルソネソスでの僭主的行為を理由として訴追を受けるが,ペルシアの侵略に対し,ギリシアの自由を標榜して抵抗した英雄として圧倒的な支持を受け,無罪となった。前 493年以降,将軍職 (ストラテゴス ) にあり,前 490年ペルシア軍侵攻に際しては,マラトンの地での迎撃を建議し,さらに宗教上の理由で来援の遅れるスパルタ軍を待つことによって,アテネの内部不統一が表面化することを許さず,すみやかに決戦すべしとして軍議を制し,ペルシア軍の戦死者約 6400人に対し,ギリシア軍はわずかに 190人余という大勝利を収めた。その後,前 489年頃艦隊を率いてパロス島遠征におもむいたが,壊疽におかされ,はかばかしい戦果もなく,そのため 50タラントンの罰金刑を受け,まもなく死亡。

ミルチアデス
Miltiades; Melchiades

[生]?. アフリカ?
[没]314.1.10. ローマ
アフリカ出身とされる第32代教皇在位 311~314)。聖人。在位中,ローマ皇帝ガレリウス(在位 305~311)がキリスト教徒迫害を終結,マクセンチウス(在位 306~312)がミルチアデスに教会の所有権を返還し,コンスタンチヌス1世(在位 324~337)が初のキリスト教公認となるミラノ勅令を発するなど,キリスト教の容認が進んだ。さらにラテラノ宮殿をコンスタンチヌス1世から譲り受け,教皇の公邸として使用した。しかし教会内では,カルタゴの司教にカエキリアヌスが選出されたことにドナツス派が異を唱え,対立が生じた。313年のラテラノ公会議ではカエキリアヌスを支持し,ドナツス派を糾弾した。ローマ皇帝マクシミアヌス(在位 286~305)の治下で弾圧に苦しんだため殉教者(→殉教)とされる。祝日は 12月10日。

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