ヨーロッパ/サウスアメリカ・カップ(読み)よーろっぱさうすあめりかかっぷ

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ヨーロッパ/サウスアメリカ・カップ
よーろっぱさうすあめりかかっぷ

1960年から2004年にかけて開催されたサッカーのクラブチームによる大会。ヨーロッパと南米のチャンピオンどうしの対戦として行われ、「実質的なクラブ世界チャンピオンを決する大会」と認められてきた。スタートした1960年当時は、ヨーロッパと南米以外にはプロリーグはほとんどなく、実力としてもこの2地域が抜きん出ていることが明白だったため、イギリスなどでは「世界クラブ選手権」の名称も使われた。

 優勝トロフィーの「インターコンチネンタル・カップ」は、サッカーボールを4本の足が支える形になっており、土台として使われている石にはヨーロッパ・サッカー連盟(UEFA(ウエファ))と南米サッカー連盟(CONMEBOL(コンメボル))のマークがはめ込まれている。この事実でもわかるように、正式には、両連盟間の交流戦であった。

 1979年までは出場両クラブのホームタウンでそれぞれ1試合を開催するホームアンドアウェー方式であったが、1980年から中立地・日本での1回戦方式に変更し、「トヨタカップ」として定着した。この間は、インターコンチネンタル・カップとともに、優勝チームにトヨタカップも授与された。

 長い間、「クラブチームの大会には関与しない」という姿勢を貫いてきた国際サッカー連盟(FIFA(フィファ))は、2000年に「クラブ世界選手権」を創設、ヨーロッパと南米だけでなく、アジア、アフリカ、北中米カリブ海、オセアニアというFIFA傘下の各地域連盟のチャンピオンにも出場権を与えた第1回大会をブラジルで開催し、地元のコリンチャンスが優勝を飾った。だがこの大会は、スポンサー難で2001年に予定されていた第2回大会はキャンセル、以後も大会日程の設定が困難で、開催されなかった。

 2004年、FIFAは、2005年から毎年12月に「クラブ世界選手権」を開催する計画を発表、その第1回を、トヨタカップを開催してきた日本で行うことを決定した。これによって、ヨーロッパ/サウスアメリカ・カップ(トヨタカップ)は、2004年12月12日に開催された第45回大会(うち2回中止)で最終回となった。

[大住良之]

起源

サッカーの基本的な単位は「クラブ」である。クラブの概念や基本要素は国や社会によって異なるが、リーグ戦や大会に参加するためにリーグや協会に登録する組織の総称とみてよい。個々の組織やメンバーシップにどのような制約があっても問わない。すなわち、日本における企業チームや学校の部活動も、サッカーの世界ではクラブの一つに数えられる。

 サッカーの選手は、いずれかのクラブに所属している。サッカーはチーム単位でしか行われない競技だからである。それは、1863年にロンドンで「フットボール協会」(FA)が設立され、近代スポーツとしてのサッカーが誕生したときから現在に至るまで変わらない原則である。

 1904年に設立されたFIFAが、その重要な任務として「国際大会」を掲げたときにも、想定されたのは「各国チャンピオンクラブによる国際大会」であった。財政的な困難でこの大会は実現せず、後に「各国選抜(代表)チームによる世界選手権」としてワールドカップが創設され、巨大大会になっていく。

 クラブチームの国際交流は第二次世界大戦前から中央ヨーロッパを中心に盛んに行われていたが、本格的にスタートしたのは1955年、前年に設立されたUEFAが「ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ(現、UEFAチャンピオンズ・リーグ)」を始めたときからであった。航空交通の発達と、始まったばかりのテレビ放送がその人気に拍車をかけ、また、世界中のスターを並べたレアル・マドリード(スペイン)の華麗なサッカーが大会のプレステージを高めた。

 クラブチームは、所属の選手の国籍には縛られない。フランス出身の選手がスペインのクラブの一員となって祖国フランスのクラブと対戦するというようなことは日常茶飯事である。それも、ワールドカップではみられないクラブの国際大会の魅力であった。

 ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップの成功に刺激された南米でも、クラブのチャンピオンを決める大会の創設が急がれた。しかし南米は、ヨーロッパとは比べようもなく広大で、移動にも時間がかかった。それを後押ししたのが、UEFA事務総長のアンリ・ドロネーHenri Delaunay(1883―1955)というフランス人であった。代表チームによる「ヨーロッパ選手権」の父としても知られるドロネーは、CONMEBOL会長のジョゼ・ラモス・フレイタスJosé Ramos de Freitas(ブラジル)に手紙を送り、「ヨーロッパと南米のクラブチャンピオンの間で、世界チャンピオンを決める試合をしましょう」と呼びかけた。この手紙がきっかけとなって、1960年、ついに「リベルタドーレス杯南米クラブ選手権」が実現した。そしてドロネーの約束どおり、この年から「ヨーロッパ/サウスアメリカ・カップ」が始まった。

[大住良之]

歴史

トヨタカップ以前

大会初期の歴史は、ヨーロッパと南米のスターたちが華やかに競演する舞台であった。

 1960年7月3日、2週間前に南米チャンピオンになったばかりのペニャロールの本拠地、ウルグアイモンテビデオに、ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップで5連覇の偉業を成し遂げたレアル・マドリード(スペイン)が乗り込んできた。結果は0対0の引分けに終わったが、それが記念すべき大会第1戦であった。第2戦は9月4日にマドリードで行われ、レアルが5対1という大差で勝って初代チャンピオンとなった。フェレンツ・プスカシュFerenc Puskás(1927―2006)(ハンガリー出身)、アルフレード・ディステファノAlfred DiStefano(1926―2014)(アルゼンチン出身)らレアルの国際的なスターが得点リストに名を連ねた。

 1961年にはペニャロールがポルトガルのベンフィカを降した。ポルトガル代表のエースでもあるエウゼビオEusebio Ferreira da Silva(1942―2014)を抑え込み、エクアドル出身のアルベルト・スペンサーAlberto Spencer(1937―2006)が攻撃をリードした。

 翌1962年にはブラジルのサントスFCが登場、ペレがベンフィカのエウゼビオとの豪華な対決に勝って優勝を飾った。1963年サントスの2連覇に続いて1964、1965年にはイタリアのインテル・ミラノが連覇、1966年にはペニャロールが2回目の優勝を飾った。

 しかし1967年、大会を大きな事件が襲う。スコットランドのセルチックとアルゼンチンのラシンの対戦は、1勝1敗で決着がつかず、第3戦までもつれ込んだのだが、その試合は反則の応酬で、両チームあわせて7人もの退場者が出た。試合はラシンが勝って優勝したが、あまりに熱狂的なファン、試合をコントロールしきれないレフェリー、そしてヨーロッパと南米で食い違うルール解釈など、混乱には多くの原因があった。

 大会はその後、1968年エスツディアンテス(アルゼンチン)、1969年ACミラン(イタリア)、1970年フェイエノールト(オランダ)が優勝し、なんとか続けられるが、1971年についにヨーロッパ・チャンピオンのアヤックス(オランダ)が出場を辞退、準優勝のパナシナイコス(ギリシア)が出場するという事態になり、大きな転機を迎えた。

 その後も大会は形式的に続けられたが、1975年はついに中止となり、1970年代にヨーロッパ・チャンピオンが出場したのは、1972年のアヤックスと1976年のバイエルン・ミュンヘン(西ドイツ)ただ2回だけであった。優勝チームは、1971年ナシオナル(ウルグアイ)、1972年アヤックス、1973年インデペンディエンテ(アルゼンチン)、1974年アトレチコ・マドリード(スペイン)、1976年バイエルン・ミュンヘン、1977年ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)、1978年中止、1979年オリンピア(パラグアイ)。

[大住良之]

トヨタカップ

暗礁に乗り上げかけていた大会を救ったのは日本であった。1980年、大会を中立地・東京での1回戦制にするという提案を出し、ヨーロッパと南米の両連盟がこれを受け入れてトヨタカップの開催が決まった。

 第1回大会は1981年2月11日に行われ、ウルグアイのナシオナルがイングランドのノッティンガム・フォレストを1対0で降した。トヨタカップ第1号のゴールを決めたのは、当時ウルグアイ代表でも得点を量産していたワルデマール・ビクトリーノWaldemar Victorino(1952―2023)であった。

 第2回大会は同じ1981年の12月13日に行われ、以後、毎年11月末あるいは12月はじめという日程が固まった。1984年の第5回大会までは南米勢が連続優勝を飾った。第2回大会はジーコを中心としたフラメンゴ(ブラジル)、第3回大会はウルグアイのペニャロール、第4回大会はブラジルのグレミオ、そして第5回大会はアルゼンチンのインデペンディエンテであった。

 1985年の第6回大会で初めてヨーロッパ代表が優勝した。将軍とよばれたフランス人のミッシェル・プラティニを中心とするユベントス(イタリア)が、2対2からペナルティー・キック(PK)戦のすえ、アルヘンチノス・ジュニアーズ(アルゼンチン)を降した。以後、ヨーロッパ勢がしだいに盛り返していく。

 第7回大会はリバー・プレート(アルゼンチン)が制したが、大雪のなかで行われた第8回大会はFCポルト(ポルトガル)が延長戦のすえ、ラバー・マジェールRabah Madjer(1958― )のゴールで優勝した。第9回大会でナシオナル(ウルグアイ)がトヨタカップで2回目の優勝を飾った後、1989年の第10回大会ではイタリアのACミランが優勝、ミランは翌年の第11回大会で連覇を飾った。第12回大会はユーゴスラビア(現、セルビア)のレッドスターが優勝してヨーロッパ勢が3連覇、しかし1992年の第13回大会と1993年の第14回大会は、ブラジルのサンパウロFCが連覇を果たした。

 ヨーロッパでは、1990年代に入るとサッカーのテレビ放映権料が高騰し、トヨタカップ出場チームを中心としたビッグクラブはその恩恵でクラブの年間予算を急速に拡大していった。ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップが1992年に「UEFAチャンピオンズリーグ」に衣替えしたころから、その傾向は顕著になった。一方、南米のクラブはつねに好選手を輩出してレベルを保ってきたが、有名になるとすぐにヨーロッパのビッグクラブに引き抜かれるという状況になり、1990年代なかばからは、「スター軍団のヨーロッパ代表」対「じみな南米代表」という構図が明確化し、ヨーロッパの優位は動かしがたいものとなる。

 1994年の第15回大会でアルゼンチンのべレス・サルスフィエルドが優勝した後、第16回大会はアヤックス(オランダ)、第17回大会はユベントス(イタリア)、第18回大会はボルシア・ドルトムント(ドイツ)、第19回大会はレアル・マドリード(スペイン)、第20回大会はマンチェスター・ユナイテッド(イングランド)とヨーロッパ勢が5連覇。2000年の第21回で久しぶりに南米のボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)が勝利を収めたが、第22回大会以降はバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)、レアル・マドリードというヨーロッパ勢が連勝、第24回大会でボカ・ジュニアーズが3年ぶりにタイトルをつかんで対戦成績を12勝12敗とした。この間2002年の第23回大会には、それまでの東京・国立競技場から、2002年ワールドカップの決勝戦が行われた横浜国際総合競技場へと会場が変わった。

 最終の第25回トヨタカップは2004年12月12日に行われ、ヨーロッパのFCポルト(ポルトガル)と南米のオンセ・カルダス(コロンビア)が対戦。ポルトが終始攻勢をとったが、オンセもよく守り、0対0のまま延長まで120分間を終えた。ペナルティー・キック(PK)戦は両チーム9人目までける熱戦。オンセの9人目が失敗して迎えたポルトの9人目ペドロ・エマヌエルPedro Emanuel(1975― )が冷静に左隅に決め、ポルトに2回目の優勝、そしてヨーロッパに「トヨタカップ勝ち越し」をもたらした。

 ヨーロッパ/サウスアメリカ・カップの全45回の成績は、ヨーロッパが21勝、南米が22勝、2大会中止であった。

[大住良之]

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