ルイス(英語表記)Lewis, John L.

精選版 日本国語大辞典 「ルイス」の意味・読み・例文・類語

ルイス

[一] (Clarence Irving Lewis クラレンス=アービング━) 現代アメリカの哲学者。プラグマチズムとカント主義の総合をこころざし、分析哲学の見地から、論理学、認識論、倫理学という幅広い領域にわたって指導的立場を占めた。主著「記号論理学概観」「知識と評価の分析」「正の根拠と本性」など。(一八八三‐一九六四
[二] (John Llewellyn Lewis ジョン=ルウェリン━) アメリカの労働運動指導者。炭坑夫出身。一九三五年、産業別労働組織会議(CIO)を結成、議長となる。辞任後も全米炭鉱労働組合(UMW)組合長をつとめる。(一八八〇‐一九六九
[三] (Sinclair Lewis シンクレア━) アメリカの小説家。物質文明を風刺的・写実的に描いた。作品「本町通り」「バビット」など。一九三〇年ノーベル文学賞受賞。(一八八五‐一九五一
[四] (Percy Wyndham Lewis パーシイ=ウィンダム━) イギリスの画家、批評家、小説家。抽象絵画のボーティシズム(渦巻主義)を創始。また、物質文明への辛辣な風刺にみちた評論、小説を書いた。著に評論集「神をもたぬ人々」などがある。(一八八二‐一九五七
[五] (Pierre Louÿs ピエール━) フランスの詩人、小説家。古代ギリシアにあこがれ、官能的・唯美主義的な作品を書いた。詩集「ビリティスの歌」、小説に「アフロディット」など。(一八七〇‐一九二五
[六] (Juan Ruiz フアン━) 一四世紀前半のスペインの詩人。自伝風の作品「よき愛の書」で当時の風俗・習慣をいきいきと描いた。「イータの主席司祭」の名で知られる。生没年未詳。
[七] (Clive Staples Lewis クライブ=ステープルス━) イギリスの批評家、小説家、英文学者。ケンブリッジ大学の中世・ルネサンス講座の初代教授。評論「愛のアレゴリー」、小説「沈黙の惑星より」、児童文学「ナルニア国物語」など。(一八九八‐一九六三

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デジタル大辞泉 「ルイス」の意味・読み・例文・類語

ルイス(Pierre Louÿs)

[1870~1925]フランスの詩人・小説家。ベルギー生まれ。高踏派の流れをくむ象徴派詩人で、幻想的・官能的世界をうたった。散文叙情詩「ビリチスの歌」、小説「アフロディット」など。

ルイス(Harry Sinclair Lewis)

[1885~1951]米国の小説家。米国社会の偽善性・俗物性などを風刺した作品を書いた。1930年ノーベル文学賞受賞。作「本町通り」「バビット」「アロースミス」など。

ルイス(William Arthur Lewis)

[1915~1991]英国の経済学者。特に開発途上国の経済構造を分析、農業から工業へと労働力が移動する枠組みを表す「二重経済モデル」を構築した。1979年、米国のセオドア=シュルツとともにノーベル経済学賞を受賞。→ルイスの転換点

ルイス(John Llewellyn Lewis)

[1880~1969]米国の労働運動指導者。炭坑夫出身。合同炭鉱労働組合を指導。保守的なAFL(米国労働総同盟)を脱退し、1938年、CIO産業別労働組合会議)を結成した。

ルイス(Jerry Lee Lewis)

[1935~2022]米国の歌手・ピアニスト。立ったままピアノを激しく弾き、歌うスタイルが人気を博し、ロックンロールの先駆者として活躍。代表曲は「火の玉ロック」など。ジェリー=リー=ルイス。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルイス」の意味・わかりやすい解説

ルイス
Lewis, John L.

[生]1880.2.12. アイオワ,ルーカス近郊
[没]1969.6.11. ワシントンD.C.
ジョン・L.ルイス。アメリカ合衆国の労働運動指導者。フルネーム John Llewellyn Lewis。1920~60年アメリカ鉱山労働者組合 UMWA総裁,1936~40年産業別組合会議 CIO初代総裁を務めた。イギリスのウェールズからの移民鉱山労働者の長男として生まれ,7年生で学校を離れ,15歳で鉱山で働くようになった。イリノイ州パナマの炭鉱で UMWA支部長となり,1911年には UMWAが加盟していたアメリカ労働総同盟 AFL(→アメリカ労働総同盟産業別組合会議)のまとめ役となった。1917年 UMWAの副総裁,1919年に総裁代理,1920年には当時アメリカ最大の労働組合に発展していた UMWAの総裁に上りつめた。フランクリン・D.ルーズベルト大統領がニューディールを推し進めるなかでの 1933年全国産業復興法 NIRAの制定は労働者に団体交渉権を認め,これを機に UMWAは勢力を拡大,アパラチア炭田の労働者を巻き込んで数年以内に組合員を 3倍に増やした。1935年のワグナー法(全国労働関係法)の制定をうけ,自動車や電気製品など大量生産産業の労働者の組織化をはかって産業組織委員会 Committee for Industrial Organizationを結成したものの,拡大路線をめぐって AFLの指導部と対立,7人の組合幹部とともに脱退し,1936年新たに CIOを結成して総裁に就任した。その後,活動を過激化させ,1936年にゼネラル・モーターズに対して行なった座り込みによるストライキでは,多くの未熟練労働者たちに「一職場一組合」one shop, one unionが有効であることを確信させた。ルイスは共和党支持者であったが,1932年と1936年の大統領選挙では民主党のルーズベルトを支持した。しかしルーズベルトの 3選には反対し,当選するとCIO総裁を辞任,1942年には戦争支持の CIOから UMWAを脱退させた。また,1940年代にルイスが指導した鉱山労働者のストライキは大衆の不評を買い,1943年のスミス=コナリー反ストライキ法(戦争労働争議法)や 1947年のタフト=ハートレー法といった労働組合の権限を制限する法制定に結びついた。1950年代,ルイスは鉱山労働の機械化に取り組み,これが生産性拡大や組合の利益につながった。UMWA総裁退任後は UMWAの福利厚生・退職金基金の理事長を務めた。張り出した眉毛とブルドッグ様の頬といった独特の風貌から放たれるルイスの弁舌には文学的な引用がちりばめられ,ときには辛辣な批判も含まれていた。

ルイス
Louis, Joe

[生]1914.5.13. アラバマ,ラフェーエット
[没]1981.4.12. ネバダ,ラスベガス
ジョー・ルイス。アメリカ合衆国のプロボクサー。本名 Joseph Louis Barrow。正確かつ効率的なパンチで「ブラウン・ボンバー」の異名をとり,1937年6月22日にシカゴでジェームズ・ブラドックを第8ラウンド,ノックアウト KOで倒して以来,1949年3月1日に引退するまで世界ヘビー級王者として活躍した。長い王座在位期間中,25度連続タイトル防衛(うち 21度 KO勝ち)に成功,全階級を通じて最多防衛記録保持者となった。綿摘み小作人の子として生まれ,12歳でデトロイトに移住,その後ボクシングを始める。アマチュア選手として 50勝4敗と活躍し,1934年ゴールデングローブ賞を獲得。同年プロに転向,7月4日に初戦を迎え,それから 1年以内に世界ヘビー級王者のプリモ・カルネラを負かした。1936年ドイツのプロボクサー,マックス・シュメリングに KO負けを喫する。2年後の 1938年の同一カードでは,マスメディアが,アメリカの民主主義対ドイツのナチズムとの闘い(シュメリング自身はナチスではない)ともてはやすなか,第1ラウンド KO勝ちで雪辱を果たし,スポーツマンらしいふるまいや謙虚な性格,物腰の柔らかさが愛され,ルイスは一躍国民的英雄となった。1939~42年に全盛期を迎え,1940年12月から1941年6月までの間には 7度の王座防衛に成功した。1942年アメリカ陸軍に入隊,のちに大リーガーとして活躍するジャッキー・ロビンソンとともに黒人部隊に配属され,実際の戦闘には臨まなかったものの,のべ 200万の兵士の前で 96回ものエキシビションマッチを戦い,陸海軍救済基金に 10万ドル以上寄付した。第2次世界大戦後はめぼしい活躍はなく,無敗の王者のまま 1949年に現役引退した。その後,借金返済のため 1950年9月27日に復活戦に挑んだが,王者エザード・チャールズに判定負けし,翌 1951年10月26日のロッキー・マルシアノとのプロ生活最後の試合も第8ラウンド KO負けとなった。プロ通算成績は 71戦68勝(54KO)3敗。引退後も借金に悩まされ,プロレスラーやラスベガスのリゾートホテルの接客係を務めた。死後,アーリントン国立墓地に埋葬され,葬儀にはシュメリングも参列した。1982年連邦議会ゴールドメダル。1990年に国際ボクシング殿堂入り。また,デトロイトでは地元の NHLのアイスホッケーチーム,デトロイト・レッドウィングズの本拠地(1979~2017)がジョー・ルイス・アリーナと名づけられ,1986年にはダウンタウンにルイスの握りこぶしの右腕をかたどった記念碑が設置された。

ルイス
Lewis, C. S.

[生]1898.11.29. アイルランド,ベルファスト
[没]1963.11.22. イギリス,オックスフォードシャー,オックスフォード
C.S.ルイス。アイルランド生まれのイギリスの文学研究者,作家。フルネーム Clive Staples Lewis。約 40冊の本を著し,多くは『悪魔の手紙』The Screwtape Letters(1942)や『単なるキリスト教』Mere Christianity(1952)といったキリスト教の神学書であるが,最も有名なものはファンタジーの古典ともなった児童書シリーズの『ナルニア国物語』Chronicles of Narnia(7巻,1950~56)である。ルイスはアイルランド(現在のイギリス領北アイルランド)のベルファストの教育熱心な家庭で育ち,幼い頃から読書に親しんだ。第1次世界大戦で一時フランスに従軍したのち,オックスフォード大学に入学して優れた成績を収め,1925~54年同大学マグダレン・カレッジの特別研究員兼准講師を務める。その後,1954~63年ケンブリッジ大学の教授として中世・ルネサンス英文学講座を受け持つ。20代まで無神論者として過ごしていたが,親友 J.R.R.トールキンの勧めもあり,1931年にキリスト教を信仰し始めた。小説の最初の成功作は『沈黙の惑星を離れて』Out of the Silent Planet(1938)で,『ペレランドラ――金星への旅』Perelandra(1943),『サルカンドラ――かの忌わしき砦』That Hideous Strength(1945)とともに三部作を構成した。論文や書評でも名が知られるようになり,『愛の寓意』The Allegory of Love(1936)は中世文学における宮廷風恋愛を論じ,ルイスがイギリス文学研究の第一人者としての地位を確立することになった名著である。このほか,『失楽園序説』A Preface to Paradise Lost(1942),『ことばの研究』Studies of Words(1960)などがある。なお,『ナルニア国物語』は 1950年に出版された『ライオンと魔女,衣装だんす』The Lion, the Witch, and the Wardrobeに,さらに 6話を追加し,シリーズ化したものである。ルイスの最後のフィクション作品で最高傑作と評されているのが『顔をもつまで―再び語られる神話』Till We Have Faces: A Myth Retold(1956)である。この作品はキューピッド(クピド,エロス)とプシュケの物語をプシュケの姉オリュアルの視点から描いたものである。

ルイス
Lewes, George Henry

[生]1817.4.18. ロンドン
[没]1878.11.28. ロンドン
ジョージ・ヘンリー・ルイス。イギリスの伝記作家,文芸評論家,劇作家,小説家,哲学者,俳優,科学者,編集者。ジョージ・エリオットこと,メアリー・アン・エバンズとの数十年にわたる交際でも知られる。さまざまな教育を受けたのち,ドイツで 2年間を過ごし,1840年ロンドンに戻った。その後の 10年間はさまざまな雑誌向けに頻繁に執筆し,また 1840年代前半にはジョン・スチュアート・ミルとの文通を通じて,社会学の創始者とされるオーギュスト・コント実証主義哲学を知るようになった。1850年友人のソーントン・リー・ハントとともに急進的な週刊誌『リーダー』The Leaderを創刊,文学や演劇の特集記事を執筆した。著書『コントの科学哲学』Comte's Philosophy of the Sciences(1853)は,もともとこの雑誌に連載されていたものである。私生活においては 1841年に結婚し,ハント夫妻と他の 2組の夫婦と共同生活を送った。当初はうまくいっていたが,ルイスの妻がハントの子供 2人を産んだことから,2人目が誕生した 1851年に妻と疎遠になった。同年,エバンズと知り合ったものの,ルイスが妻の不貞を一度容認していたことを理由に法的に離婚が成立しないまま,1854年以降,二人はルイスの死まで幸せに暮らした。ルイスは1847年出版の教養小説『ランソープ』Ranthorpeで若い作家のモラルと知的成長を描き,1855年には今日でも詩人の価値ある入門書といわれる『ゲーテの生涯と作品』Life and Works of Goetheというタイトルの二巻本を発表した。科学者としては,運動神経や感覚に関する多数の論文のほかに,『海辺の研究』Seaside Studies(1858),『日常生活の生理学』Physiology of Common Life(2巻,1859~60),『動物生活の研究』Studies in Animal Life(1862)を出版した。さらに,アリストテレスの研究(1864),最も野心的な仕事といえる『生命と精神の諸問題』Problems of Life and Mind(5巻,1873~79)も発行した。このほか 1865~66年に『隔週批評』Fortnightly Reviewを編集,科学,政治、文芸批評についての論文を寄稿した。多才な作家であり,さまざまな分野に精通した思想家であったルースは,経験的形而上学の発展に大きく寄与し,精神現象を社会的・歴史的条件と関連づけて扱ったことは心理学の大きな進歩に結びついた。

ルイス
Lewis, Gilbert N.

[生]1875.10.23. マサチューセッツ,ウェーマス
[没]1946.3.23. カリフォルニア,バークリー
ギルバート・N.ルイス。アメリカ合衆国の物理化学者。フルネーム Gilbert Newton Lewis。化学熱力学においてフガシティ fugacity(逃散能,逸散能)の概念,および活量係数 activity coefficient tivityを用いた関数表示を導入し,化学結合の分野においては原子価電子の共有による共有結合および八隅説を提唱した。ネブラスカ州リンカーンで育ち,13歳でネブラスカ大学の予備学校に入学,同大学では 2年生まで学び,1893年ハーバード大学に編入し,1896年化学の学士号を取得。マサチューセッツ州アンドーバーのフィリップス・アカデミーで 1年間教鞭をとったのちハーバード大学に戻り,1898年修士号を取得。さらに翌年,セオドア・リチャーズの指導のもと,亜鉛とカドミウムアマルガムの電気化学に関する論文で博士号を得た。ハーバードで 1年間講師を務めたのち,ドイツに留学,ライプチヒ大学のウィルヘルム・オストワルトゲッティンゲン大学のワルター・ネルンストのもとで学ぶ。ハーバード大学講師,フィリピン駐在の度量衡監督官を経て,1905年マサチューセッツ工科大学 MIT教授。1912年にはカリフォルニア大学バークリー校の学部長に就任,34年間の在職中,同大学の化学部を全米最高レベルに育て上げた。ルイスの研究はこのほか,重水の精製(→重水素),酸と塩基の電子理論(→ルイス酸ルイス塩基),ケイ光,リン光の三重項状態などに広範囲に及んだ。また,理論物理学の分野にも関心や洞察は広がり,はかり知れない影響を与えたが,彼のキャリアにおいて最大の謎はノーベル賞を受賞していないこととされた。著書に『原子価と原子および分子の構造』Valence and the Structure of Atoms and Molecules(1923),『科学の解剖学』The Anatomy of Science(1926)などがある。

ルイス
Lewis, Sinclair

[生]1885.2.7. アメリカ合衆国,ミネソタ,ソークセンター
[没]1951.1.10. イタリア,ローマ近郊
シンクレア・ルイス。アメリカ合衆国の小説家,社会評論家。フルネーム Harry Sinclair Lewis。広い視野と風刺でアメリカ人の自己満足に切り込んだ人気作家であり,1930年アメリカ人として初めてノーベル文学賞(→ノーベル賞)を受賞した。1907年エール大学卒業後,新聞社や出版社に勤めながら少年向け読み物を書き,1914年に最初の小説『弊社社員レン氏』Our Mr. Wrennを発表,好意的な評価を得たが,読者は少なかった。その後,『サタデー・イブニング・ポスト』や『コスモポリタン』に雑誌小説を書いて成功したが,本格的な作家になる夢をあきらめず,1920年に出版された『メイン・ストリート』Main Street(邦題『本町通り』)で文学的名声を高めた。この小説は,ルイスの故郷ソークセンターをモデルに,中西部ミネソタ州ゴーファープレーリーという町の医師に嫁いだ東部出身の娘キャロル・ケニコットの目を通して,町のことばや習慣,社会生活を描いたものである。アメリカの典型的な田舎町に暮らす人々と,彼らを軽蔑する薄っぺらな知性重視主義――双方への風刺を表した本作は一小説にとどまらず,アメリカ地方主義を知るための教科書となった。1922年には『バビット』Babbittで,ロータリークラブや仕事上の理想などにより個性が吸い取られていくビジネスマンを,1925年には『アロースミス』Arrowsmith(ピュリッツァー賞を辞退)で商業主義と戦う科学者をそれぞれ描いた。さらに 1927年には貪欲で好色な牧師がメソジスト派の指導者となる姿を描いて問題となった『エルマー・ガントリー』Elmer Gantry,1929年にはヨーロッパ旅行で伝統と芸術に目ざめる工場主とその妻を扱った『ドッズワース』Dodsworthの力作を相次いで発表した。1930年代以降も,女性社会運動家を主人公とする『アン・ビッカーズ』Ann Vickers(1933),ファシズムの脅威を扱い 1936年に上演された『ここには起こりえぬ』It Can't Happen Here(1935),人種問題を取り上げた『キングズブラッド家の血統』Kingsblood Royal(1947),最後の長編『かくも広き世界』World So Wide(1951)など多くの作品を世に送ったが,1920年代までの評価は得られなかった。晩年は海外で過ごすことが多くなり,また 2度目の結婚にも失敗し,酒量も増えていった。

ルイス
Lewis, Wyndham

[生]1882.11.18. カナダ,ノバスコシア,アマースト近郊
[没]1957.3.7. イギリス,ロンドン
ウィンダム・ルイス。イギリスの画家,小説家,批評家。フルネーム Percy Wyndham Lewis。芸術と文学と産業プロセスの関連性を追求した渦巻派(ボーティシズム)を創設した。カナダのアマースト近郊のヨットの中で生まれ,1893年頃母親とともにイギリスに渡った。奨学金を得て 16歳でロンドンのスレード美術学校に入学したが,3年後に退学,パリに赴き,絵を学んだり,ソルボンヌで講義を受けるなどした。パリ滞在中にキュビスム表現主義に興味をいだいた。1908年にイギリスに戻り,二つの潮流の側面を取り入れた絵画を手がけ,また風刺的な物語を執筆した。1913年までに抽象的かつ幾何学的な形態と,機械文明や都市建築を引き合いに出す絵画表現を確立した。このスタイルは渦巻の中心にある静止点から現代社会のエネルギーを観察するというルイスの信念に基づき,渦巻派と名づけられた。1914年詩人エズラ・パウンド,彫刻家アンリ・ゴーディエ=ブルゼスカらと前衛的芸術誌『ブラスト』Blastを刊行(~1915),本誌に掲載されたルイスのデザインにはイマジズムの詩の影響がみられた。1915年最初の小説『ター』Tarrを発表し,えせ芸術家を痛罵して以来,現代大衆社会の低劣な美術,文学,政治に対して執拗な攻撃を加えた。1920~30年代には評論『時間と西欧人』Time and Western Man(1927),小説『神の模倣者』The Apes of God(1930),評論『芸術なき人々』Men Without Art(1934)を発表するなど,美術作品のみならず執筆作品にも注目が集まった。しかし,自身の生涯最高傑作を世に送りながら,ファシズムへの傾倒や名誉毀損訴訟などによって出版社から敬遠されるようになり,経済的に困窮し始めた。1939年には妻とともにアメリカ合衆国に渡って講演や肖像画の制作を行なうようになった。第2次世界大戦後はイギリス放送協会 BBCが発行する雑誌『リスナー』The Listenerに 視力を失う 1951年まで美術評論を書き,のちに有名になるマイケル・エアトンやフランシス・ベーコンなどの若い芸術家を紹介した。

ルイス
Lewis, John

[生]1940.2.21. アラバマ,トロイ近郊
[没]2020.7.17. ジョージア,アトランタ
ジョン・ルイス。アメリカ合衆国の政治家,公民権運動活動家。学生非暴力調整委員会 SNCCの委員長を務め,アフリカ系アメリカ人の選挙権を求めて 1965年にアラバマ州セルマで行なわれた平和的行進(→セルマ大行進)を主導したことで知られる。アラバマ州の小作人の息子として生まれ,10代の頃,マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)やローザ・パークスらの人種差別反対運動に触発される。ナッシュビルのアメリカン・バプティスト神学校とフィスク大学で学び,その間の 1963~66年に SNCCの委員長を務め,20代前半であったにもかかわらず,キング牧師,ジェームズ・ファーマー,A.フィリップ・ランドルフ,ロイ・ウィルキンズ,ホイットニー・ヤングとともに公民権運動を率いる「ビッグ・シックス」と呼ばれた。1961年に南部の州間バスの車両内で黒人と白人が同席する示威行動,フリーダム・ライドに参加,1963年には歴史的なワシントン大行進の立役者となった。1965年3月7日,セルマで 600人以上による平和的な行進を組織したが,途中,アラバマ川の橋を渡った際に待ち構えていた警察から容赦ない暴力を受けた。「血の日曜日」として知られるようになった事件の様子はテレビで放映され,公民権運動に決定的な影響を与え,1965年8月6日にリンドン・B.ジョンソン大統領が署名した画期的な投票権法の成立に大きく寄与した。1971年にアトランタ市議会議員に選出。1986年ジョージア州選出の連邦議会下院議員(民主党)に当選し,17期連続で務めた。1975年マーティン・ルーサー・キング・ジュニア非暴力平和賞,2001年ジョン・F.ケネディ勇気賞受賞。2010年大統領自由勲章受章。回顧録に"Walking with the Wind"(1998。マイケル・ドルソ共著)のほか,「マーチ」March三部作(2013,2015,2016。アンドリュー・アイディン共著)があり,最終作は全米図書賞に輝いた。「議会の良心」といわれ,アフリカ系アメリカ人として初めて首都ワシントンDCの連邦議会議事堂に遺体が安置された。

ルイス
Lewis, Meriwether

[生]1774.8.18. バージニア,シャーロッツビル近郊
[没]1809.10.11. テネシー,ナッシュビル近郊
メリウェザー・ルイス。アメリカ合衆国の探検家。ウィリアム・クラークとともにルイス・アンド・クラーク探検隊 Lewis and Clark Expeditionを率い,1804~06年に未開のアメリカ内陸部から北西の太平洋岸を横断した。バージニア州のトーマス・ジェファーソンの自宅近くの一家の農園ローカストヒルで育つ。アメリカ独立戦争で父が戦死したのち,母の再婚先のジョージア州に移ったが,1792年以降バージニア州に戻り,叔父のもとでローカストヒルの経営に着手した。1794年ペンシルバニア州で発生したウイスキー反乱を鎮圧するために民兵として従軍。翌 1795年に正規軍に入り,1799年に中尉,1800年に大尉に昇進した。1801年にはジェファーソン大統領の私設秘書兼武官となり,1803年にアメリカが新たに購入したフランス領ルイジアナ(→ルイジアナ購入)の探検隊の隊長に命じられ,1804~06年親友のクラークと組織したルイス・アンド・クラーク探検隊を率い,オハイオ川を下ってミズーリ川をさかのぼり,大陸分水界を越えて太平洋に到達し帰還,移動距離は約 28ヵ月間で 1万3000kmに及んだ。探検隊は「発見隊」Corps of Discoveryとも呼ばれ,ルイスはその間,地域の植物学,動物学,気象学,地理学,民族学に関する知見を記録し,さまざまな標本を収集した。また,クラークとともに西部の河川システムや毛皮資源を調査し,アメリカインディアンの指導者と会って貿易や和平交渉を行なった。帰還後の 1807年にアッパー・ルイジアナ准州の知事に任命されたが,土地や鉱山をめぐる紛争への対応や公費の使いみちをめぐって責任を問われ,説明のためワシントンD.C.に出向く途中の 1809年10月11日,ナッシュビルから約 110kmにある現在のホーヘンウォルドの宿泊先で射殺体で発見された。死をめぐっては,自殺説や陰謀説,あるいは偶発的な事件とする説もある。

ルイス
Lewis, Jerry

[生]1926.3.16. ニュージャージー,ニューアーク
[没]2017.8.20. ネバダ,ラスベガス
ジェリー・ルイス。アメリカ合衆国のコメディアン,映画俳優,映画監督。本名 Joseph Levitch。なりふりかまわぬ自由なスタイルで 1950年代から 1960年代に絶大な人気を博したコメディ俳優の一人。ボードビルをなりわいとする一家に生まれ,芸能活動のため高等学校を中退した。1946年にディーン・マーティンとコンビを結成。マーティンが歌をうたい,ルイスが道化役を演じて各地のナイトクラブで爆発的な人気を獲得し,パラマウント映画と契約,映画界に入る。第一作となる映画 "My Friend Irma"(1949)で一躍人気スターとなった。その後,『底抜け右向け!左』At War with the Army(1950),『底抜けびっくり仰天』Scared Stiff(1953)などに出演,テレビでも活躍した。1956年にコンビを解消。監督としても才能を開花させ,初の監督・脚本作は『底抜けてんやわんや』The Bellboy(1960)。1963年の監督・脚本・主演作『底抜け大学教授』The Nutty Professorが代表作。マーティン・スコセッシ監督の『キング・オブ・コメディ』The King of Comedy(1983)などにも出演した。慈善活動家としても有名で,難病の筋ジストロフィー(→進行性筋萎縮症)患者を支援するチャリティ番組の司会を 1966年から 2010年まで務めた。2006年レジオン・ドヌール勲章コマンドゥールを受章。1999年ベネチア国際映画祭の金獅子賞,2009年アメリカ映画芸術科学アカデミーからアカデミー賞特別賞であるジーン・ハーショルト友愛賞を受賞した。

ルイス
Lewis, Carl

[生]1961.7.1. アラバマ,バーミングハム
カール・ルイス。アメリカ合衆国の陸上競技選手。フルネーム Frederick Carlton Lewis。1980年代から 1990年代にかけてのオリンピック競技大会 4大会で通算 9個の金メダルを獲得した。1980年アメリカ代表チーム入りをしたが,アメリカがモスクワ・オリンピック競技大会への参加をボイコットしたため出場はならなかった。1984年のロサンゼルス・オリンピック競技大会で,100m,200m,走り幅跳び,400mリレーの 4種目に優勝,一躍スーパースターとなった。1988年ソウル・オリンピック競技大会では,100mで 1位でゴールしたベン・ジョンソン(カナダ)が 3日後にドーピング(禁止薬物使用)で失格となり,繰り上げ優勝。さらに,走り幅跳びで 2連覇,200mで銀メダルに輝いた。1992年バルセロナ・オリンピック競技大会では走り幅跳びと 400mリレーで 2冠。35歳で迎えた 1996年アトランタ・オリンピック競技大会では走り幅跳びで 4連覇を達成,個人種目での 4連覇は史上 3人目の快挙となった。翌 1997年に競技生活から引退。引退後は数多くの映画やテレビシリーズに出演,しばしば自身を演じたりもした。慈善活動にも積極的に取り組み,2001年フィットネスの普及を目的にカール・ルイス財団を設立。1999年国際オリンピック委員会 IOCの各国オリンピック委員会の投票による「20世紀を代表する選手」に,サッカーのペレ,ボクシングのモハメド・アリに続いて第3位に選ばれた。

ルイス
Lewis, Sir Arthur

[生]1915.1.23. イギリス領西インド諸島,セントルシア,カストリーズ
[没]1991.6.15. バルバドス,ブリッジタウン
アーサー・ルイス。セントルシアの経済学者。フルネーム Sir William Arthur Lewis。経済発展の研究および農業における労働生産性と先進国―途上国間の貿易条件を関連づけた革新的なモデルを提唱し,1979年にセオドア・ウィリアム・シュルツとともにノーベル経済学賞(→ノーベル賞)を受賞した。奨学金を得て,イギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに通い,1937年卒業,1940年経済学の博士号を取得。1938~47年同校講師,1947~58年マンチェスター大学教授,1959~62年西インド諸島ユニバーシティ・カレッジ学長,1963~83年アメリカ合衆国のプリンストン大学教授。数多くの国際委員会やアフリカ,アジア,カリブ海諸国政府の経済開発顧問として活動し,1970~73年にはカリブ開発銀行 CDBの総裁を務めた。1963年ナイト(爵)に叙される。著書に『経済計画の原理』The Principles of Economic Planning(1949),『経済成長の理論』The Theory of Economic Growth(1955),『開発計画』Development Planning(1966),『熱帯開発 1880-1913』Tropical Development 1880–1913(1971),『成長と変動 1870-1913』Growth and Fluctuations 1870–1913(1978)などがある。

ルイス
Lewis, Matthew Gregory

[生]1775.7.9. イギリス,ロンドン
[没]1818.5.14.
マシュー・グレゴリー・ルイス(通称モンク・ルイス)。イギリスの小説家,劇作家。ゴシック小説『修道僧』The Monk(1796)でセンセーショナルな成功を収め,モンク・ルイス Monk Lewisと通称されるようになった。ウェストミンスター・スクールとオックスフォード大学クライストチャーチ・カレッジに学び,ハーグ駐在の大使館員を経て,1796~1802年下院議員。1812年ジャマイカで莫大な財産を相続したが,自身が管理する奴隷 500人の状況に真摯に関心をもち,西インド諸島を 2度巡った。しかし,2度目の旅行の帰途,黄熱病にかかり洋上で死亡した。『修道僧』はルイスが 19歳のときに書かれ,アン・ラドクリフやより濃厚なドイツのゴシック文学の影響を受けている。ロマンスよりもホラーを,また暴力やエロチシズムを強調したこの作品は一部で非難されたが,熱心な読者を獲得した。続く音楽劇『城の妖怪』The Castle Spectre(上演 1797,出版 1798)もリチャード・ブリンズリー・シェリダンのプロデュースにより成功した。またもう一つの重要な作品として,死後出版され,ルイスの人道的かつリベラルな性格を物語る『西インド経営者の日記』Journal of a West Indian Proprietor(1834)がある。

ルイス
Lewis, John

[生]1920.5.3. イリノイ,ラグレーンジ
[没]2001.3.29. ニューヨーク,ニューヨーク
ジョン・ルイス。アメリカ合衆国の作曲家,ジャズピアニスト。フルネーム John Aaron Lewis。40年以上にわたり,モダン・ジャズ・カルテット MJQのリーダーとしてエレガントで魅力的なジャズの普及に貢献した。ニューメキシコ州アルバカーキで育ち,子供の頃からピアノを習った。ニューメキシコ大学を卒業後,1953年マンハッタン音楽院で修士号を取得した。第2次世界大戦中,軍務につき,その後ディジー・ガレスピー楽団にピアニストとして参加し,編曲者としても活躍した。1952年ビブラフォーンのミルト・ジャクソン,ベースのパーシー・ヒース,ドラムスのケニー・クラーク(1955年にコニー・ケイと交代)と MJQを結成,『ジャンゴ』『コンコルド』など数々の名盤を世に送り出した。1974年解散したが 1981年に再結成,1990年代後半に最後のコンサートを行なった。バップとヨハン・ゼバスチアン・バッハに影響を受け,クラシック音楽の技法をジャズに導入したことで知られた。1958~82年モントレー・ジャズ・フェスティバル,1985~92年アメリカン・ジャズ・オーケストラの音楽監督を歴任した。

ルイス
Ruiz, Juan

[生]1283頃. アルカラ
[没]1350頃
フアン・ルイス。スペインの詩人,聖職者。イタの主席司祭。代表作『よき愛の書』El libro de buen amor(1330。1343増補)は中世スペインにおける最も重要な長編詩といわれる。ルイスの生涯については『よき愛の書』に記述されていること以外は不明であり,トレドで教育を受け,アルカラ近郊の村イタで司祭を務めながら,1330年までに同書を書き終えたとみられる。また歌も作曲し,名声を得ていたとみられる。『よき愛の書』はクアデルナ・ビーア cuaderna víaと呼ばれる 1行14音節同音韻四行詩でおもに構成されるが,さまざまな韻律の詩もちりばめられている。収録されている 12の物語詩にはきわめて多様な情事のみならず,当時の風俗全般にわたる写実的な描写が記されている。また,スペイン文学における最初の喜劇的人物が老女トロタコンベントス Trotaconventosとして登場している。聖書,キリスト教の教典,オウィディウスらの古代の詩,中世の酒好きな風刺詩人の集団ゴリアードの詩,フランスのファブリオー,アラビア語の著作,世俗曲など広範囲の文学的題材から取材したこの作品は,16~17世紀の悪者小説において頂点をなす写実主義文学の隆盛につながった。

ルイス
Lewis, Edward B.

[生]1918.5.20. ペンシルバニア,ウィルクスバレ
[没]2004.7.21. カリフォルニア,パサディナ
エドワード・B.ルイス。アメリカ合衆国の発生遺伝学者。初期胚発生を制御する機能の発見により,1995年エリック・F.ウィシャウス,クリスティアーネ・ニュスライン=フォルハルトとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。高校生のときに遺伝学に興味をもち,1939年ミネソタ大学卒業後,1942年カリフォルニア工科大学で博士号を取得。1946年~88年同大学で教鞭をとった。ルイスはウィシャウスやニュスライン=フォルハルトとは個別に,ショウジョウバエの胚の発生実験を行ない,数千匹のハエを交配することで,個々の体節の発生を制御する遺伝子群と,その染色体上の位置を特定した。染色体上にはホメオボックスという特徴的な配列をもつ遺伝子が順番に並んでおり,それぞれ頭部・胸部・尾部の体節を制御していることがわかった。さらにその遺伝子の変異がハエの奇形を起こすことをつきとめた。ルイスの研究はヒトの先天異常など,生物学的発達の一般的なメカニズムを説明するのに役立った。の研究にも寄与した。1968年全米科学アカデミー会員。1990年ナショナル・メダル・オブ・サイエンスを受章。

ルイス
Lewis, Francis

[生]1713.3.21. イギリス,ウェールズ,ランダフ
[没]1803.12.30. アメリカ合衆国,ニューヨーク,ニューヨーク
フランシス・ルイス。アメリカ独立革命期の政治家,商人。アメリカ独立宣言署名者の一人。1738年ウェールズからアメリカ大陸に渡り,ニューヨークで商人として成功を収める。本国イギリス政府の御用商人として働き,ロシアやアフリカを巡ったのち,フレンチ・アンド・インディアン戦争でイギリス軍のためにオスウィーゴの砦の防衛にあたる。インディアン側の捕虜となったが,解放後,戦功を認められイギリス政府より広大な土地を与えられたが,イギリスがアメリカに対して印紙税法を適用すると本国への反感を強め,独立革命のために働き始めた。1775~79年大陸会議のニューヨーク代表を務め,アメリカ軍のために物資を調達した(→アメリカ独立戦争)。息子のモーガン・ルイスも,1777年のサラトガの戦いでホレーショ・ゲーツ将軍の参謀長を務めた。

ルイス
Lewis, C. I.

[生]1883.4.12. マサチューセッツ,ストーンハム
[没]1964.2.3. マサチューセッツ,ケンブリッジ
C.I.ルイス。アメリカ合衆国の論理学者,認識論者,道徳哲学者。フルネーム Clarence Irving Lewis。記号論理学で,A⊃B(AならばB)の単なる真偽関係だけではなく,その内容的,必然的関係にも注目すべきであるとして「厳密含意」strict implicationの概念を提出した。ハーバード大学で学び,1920年から 1953年まで同大学で教鞭をとり,教授には 1930年に就任した。1950年コロンビア大学より形式論理学者として栄誉を受け,1961年にはアメリカ学術団体評議会 ACLSから人文学上の功績が認められ,賞金 1万ドルを授与された。クーパー・ハロルド・ラングフォードとの共著『記号論理学』Symbolic Logic(1932)は様相論理学の古典となり,現代の諸研究の出発点となった。このほか,『知識と評価の分析』An Analysis of Knowledge and Valuation(1947),『権利の根拠と性質』The Ground and Nature of the Right(1955)を著した。

ルイス
Lewis, Isaac Newton

[生]1858.10.12. ペンシルバニア,ニューセーレム
[没]1931.11.9. ニュージャージー,ホーボーケン
アイザック・ニュートン・ルイス。アメリカ合衆国の陸軍軍人,技術者。第1次世界大戦などで広く使用されたルイス式機関銃の発明で知られる。1884年ニューヨーク州のウェストポイント陸軍士官学校を卒業。1891年には大砲の測距装置を発明し初めて特許を取得,その後も続く速射砲やガス推進式魚雷など,一連の武器の発明の最初のものとなった。また,自動車の電気式前照灯(ヘッドライト)など非軍事用途の発明も行なった。1911年にルイス式機関銃で特許を得たものの,当初アメリカ陸軍には採用されなかった。1913年に退役してヨーロッパに渡り,ベルギーのリエージュで武器工場を建設,機関銃の製造を開始した。第1世界大戦勃発後,工場をイギリスに移し,小銃メーカーのバーミンガム・スモール・アームズと合併した。約 10万丁のルイス式機関銃が連合国軍に使用され,特に改良型は反動が少ないことから戦闘機において重宝された。

ルイス
Louis, Morris

[生]1912.11.24. メリーランド,ボルティモア
[没]1962.9.7. ワシントンD.C.
モリス・ルイス。アメリカ合衆国の画家。原名 Morris Bernstein。抽象表現主義におけるニューヨーク派の一人で,鮮やかな縞模様を用いた独特な色使いの作品を特徴とした。1929~33年ボルティモアのメリーランド美術工芸研究所で学ぶ。1937~40年ニューディールによる雇用対策局 WPAのフェデラル・アート・プログラムで画家を務める。初期の作品はキュビスムの影響を受けていたが,1952年にジャクソン・.ポロックの抽象主義表現に接して以降,作風が激変した。1953年には,無処理のカンバスに絵具を流し込むヘレン・フランケンサーラーの手法に感銘を受け,縦波のように色の帯を描いた『アイリス』Iris(1954)などを制作した。1961年以降はカンバスの下隅に複数の色の帯を流れるように斜めに描き,最晩年にはその帯が垂直な縦の線に変化した。(→ポスト・ペインタリー・アブストラクション

ルイス
Lewis, Alun

[生]1915.7.1. イギリス,グラモーガンシャー,アバーデア
[没]1944.3.5. ビルマ,アラカン
アラン・ルイス。イギリスの詩人。将来有望なウェールズの詩人であったが,第2次世界大戦で戦地ビルマ(現在のミャンマー)に赴き,早逝した。教師を父にもち,南ウェールズの炭鉱町で暮らすなか,貧しい炭鉱労働者への共感や絆をはぐくんだ。奨学金を得て,ウェールズのアベリストゥウィス大学とマンチェスター大学で学び,教師を務めていたが,戦争が始まりまもなく陸軍に入隊した。詩集『侵入者の夜明け』Raiders' Dawn(1942)に収録された詩のほとんどは,同年発表された短編集『最後の審問』The Last Inspectionと同様,イギリス国内の訓練所における軍隊生活の様子が描かれている。詩集『聞け! ラッパだ』Ha! Ha! Among the Trumpets(1945)はイギリスを離れ,アジアで軍務につく際に書かれたものである。そのほか,『インドからの手紙』Letters from India(1946),『アラン・ルイス選集』Selected Poetry and Prose(1966)も出版されている。シドニー・キーズとともに大戦で戦死した青年詩人の双璧をなす。

ルイス
Lewes

イギリスイングランド南東部,イーストサセックス県の県都。周辺を含めてルイス地区を構成する。ブライトンの東北東約 15km,サウスダウンズ丘陵を切って南流するウーズ川に臨む。ウーズ川の谷は古くから重要な交通路をなし,周辺一帯では先史時代からアングロ・サクソン時代にいたる遺物や遺跡が数多く発見されており,町の古い起源を示している。11世紀にはすでに商業の中心地として,また河港として栄え,1264年のルイスの戦い(→バロン戦争)後,町は城壁で囲まれた。行政,教育の中心地であるほか,観光業が盛ん。各種軽工業も行なわれる。近郊には世界的に有名なオペラハウス,グラインドボーンがある。地区面積 292km2。地区人口 9万2187(2001)。都市人口 1万5988(2001)。

ルイス
Lewis, Sir Thomas

[生]1881.12.26. カーディフ
[没]1945.3.17. ハーフォードシャー,ラウドウォーター
トーマス・ルイス(卿)。イギリスの心臓専門医。ウィレム・アイントホーフェンが開発した,心筋の収縮を電位の変化で測定する弦検流計(弦電流心電計)を臨床検査に導入し,心電図による心臓疾患の診断法を創始した。炭鉱経営者の息子として生まれが,病気がちであったため家庭教師について学び,その後クリフトン・カレッジに進み,続いてカーディフのユニバーシティ・カレッジで医学を学んだ。不整脈心房細動・粗動などの分析に多くの貢献をし,1917年には第1次世界大戦の西部戦線の兵士を対象に作業と心臓負荷との関係を分析,努力症候群 effort syndromeと名づけた。さらに皮膚の微小血管の観察もした。

ルイス
Lewis, Andrew

[生]1720.10.9. アイルランド,ドニゴール
[没]1781.9.26. アメリカ,バージニア,ベッドフォード
アンドリュー・ルイス。アメリカの開拓者,軍人。1732年アイルランドからバージニア植民地(→十三植民地)に移住。初め測量士としてバージニア奥地を測量・探検した。フレンチ・アンド・インディアン戦争ではジョージ・ワシントン将軍やエドワード・ブラドック将軍のもとで働いた。1774年ダンモア卿戦争(→ダンモア伯)におけるポイントプレザントの戦いでアメリカインディアンのショーニー族に勝ち,1778~79年におけるジョージ・ロジャーズ・クラークの対インディアン遠征に道を開いた。アメリカ独立戦争では大陸軍の准将として活躍した。

ルイス
Lewes

アメリカ合衆国,デラウェア州南東部の町。デラウェア湾口の西側にある。 1631年にオランダ人が入植。古い港で 1812年のアメリカ=イギリス戦争のときにイギリス軍の砲撃を受けた。湾口の難所で海難が多かったため,25~35年防波堤が建設された。現在は保養地で,水産加工業が行われている。人口 2295 (1990) 。

ルイス

「デイ=ルイス」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「ルイス」の意味・わかりやすい解説

ルイス
Harry Sinclair Lewis
生没年:1885-1951

アメリカの小説家。ミネソタ州の田舎町に医師の子として生まれた。イェール大学在学中アプトン・シンクレアの社会主義生活団に参加し,卒業後は新聞社,出版社等に勤めながら創作し,《わが社のレン氏》(1914)でデビューした。これは作者の屈折した性格の一面である劣等感が,主人公のゆがんだ小市民性に表現された佳作である。彼の全盛時代は《本町通り》(1920)から《ドッズワース》(1929)までの10年であり,代表作はすべてこの時期に書かれ,いずれもベストセラーになった。そしてベストセラー作家というレッテルが彼に劣等感を与えた。《本町通り》では理想家肌の若妻により中西部田舎町の因襲が批判され,《バビット》(1922)では,中西部の商業都市ジーニスに住む俗物実業家が因襲にささやかな反抗を試みるが,結局服従する姿を戯画として描いた。研究所の資本主義体制と闘う良心的で研究熱心な科学者を描いた《アロースミス》(1925)は,ある科学者との共同調査に基づいた作品で,少なくとも主人公は戯画の対象にされていない。宗教事業家を主人公とする《エルマー・ギャントリー》(1927)は良心のかけらもない俗物が大教会の大牧師として成功するまでの過程をどぎつい戯画に描いており,アメリカのキリスト教をこれほど批判した書物は少ない。

 H.L.メンケンらが用意したアメリカ批判の風潮にのって,作者は独特の〈写真的リアリズム〉で笑うべきアメリカの外面を克明に描いたが,内面にまで食い入ることは少なく,また作者自身が内面を愛していたためもあり,彼の作品には悲劇的深淵が見られない。1930年アメリカ人として初めてノーベル文学賞を受賞。その後,夫婦愛を描いた《キャス・ティンバレーン》(1945)や黒人問題を扱った《王家のキングズブラッド》(1947)等のベストセラーを10編発表したが,代表作5編に見られる筆力は衰えた。写真的リアリズムによる彼の作品は〈アメリカ研究〉の好材料である。
執筆者:

ルイス
Juan Ruiz
生没年:1283ころ-1351?

14世紀スペインの歌物語《よき愛の書》の語り手で,作者と思われる人物。〈イータの首席司祭〉の職名で知られる。物語の題は1898年にメネンデス・ピダルが提唱したもので,原題は伝わっていない。イスラム,ユダヤ教,キリスト教の伝統が混在するトレド周辺に暮らした旅芸人まがいの僧であったらしく,投獄されたことがあり,物語はそのとき書かれたという説もある。筋書は,恋愛に失敗を重ねた男が,アモルとウェヌスの助言に従い,とりもち役の老女ウラーカ(トロタコンベントス)を仲介に未亡人や修道女,若い娘などに近づく。野性的な山中の娘たちとも出会うが,老女が死に男の遍歴も終わる,というもの。一人称で語られるため作者の自伝めいた印象を与えるが,擬人化された四旬節と肉食期の戦い,説話や教訓,抒情的な歌謡が挿入され,雑然とした構成である。享楽的な性愛の肯定,典礼文のパロディやウラーカの死を悼む反教会的な姿勢,聖母への信心などが共存し,また物語が道徳的な意図をもつことをくり返し主張するなど,思想的にも矛盾がみられるため,作品の解釈は論議の的になってきた。およそ7000行から成り,韻律は14音節単韻4行詩(時に16音節)が主で,歌謡にはセッヘルなどアラビア的民衆的なものが使われている。ラテン文学を含むラテン・キリスト教的伝統とイスラム的なものの融合は文学のムデーハル様式といえ,個性的な現実描写と快活な人間性の賛美は時代を超えた共感を呼ぶ。
執筆者:

ルイス
John Llewellyn Lewis
生没年:1880-1969

アメリカ労働運動の指導者。アイオワ州ルカス近郊に生まれ,少年時代から炭鉱夫となり,労働運動に入り,1920年にアメリカ炭坑夫組合UMWA(United Mine Workers of America)の会長に就任,引退する60年までその地位にとどまった。UMWAは,職業別組合が大多数を占めていたアメリカ労働運動のなかで,産業別組合として結成された例外的な組合であった。1930年代に,ワグナー法に代表されるニューディール期の労働・社会立法を背景にして,アメリカ労働総同盟(AFL)内部に,当時未組織であった重化学工業分野を組織化するにあたって,職業別か産業別かという組織原則をめぐる対立が生じた。ルイスは,産業別組合主義の旗頭として活躍し,35年にUMWAをAFLから脱退させ,産業別組合会議(CIO)の結成に向かった。鉄鋼,自動車,ゴム,電機などの基幹産業に強力な産業別組合をつぎつぎに組織し,CIOをAFLに対抗しうる勢力にまで成長させた。しかしその後,40年の大統領選挙で前回は支持したF.D.ローズベルトの3選に反対,共和党を支持して,UMWAをCIOから脱退させた。UMWAは46年AFLに復帰したが,翌年タフト=ハートリー法に反対して再び脱退した。
AFL-CIO
執筆者:

ルイス
William Arthur Lewis
生没年:1915-91

イギリスの経済学者。西インド諸島のセント・ルシアのカストリーズに生まれる。セント・メアリー・カレッジ卒業後,ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに学び,後に同校の講師として工業経済を講じた。1948年マンチェスター大学に移り,スタンリー・ジェボンズ記念政治経済学講座の教授に就任。その時代,彼の研究上の焦点は,先進国の工業化と関連した形での植民地貿易と開発の問題にあり,54年に発表した論文〈無制限労働供給による発展Economic Development with Unlimited Supplies of Labour〉はルイス・モデルとして一躍脚光をあびた。また55年の《経済成長論》は第2次大戦後の経済発展論の代表的著作の一つに挙げられている。58年には出身地の西インド大学のカレッジの学長を務めたが,その後63年にプリンストン大学のジェームズ・マディソン記念政治経済学講座の教授に就任した。この間,1960年代後半には有名なピアソン委員会(ピアソン報告)に参加し,70-73年にはカリブ開発銀行の総裁を務めた。そのほか,国際連合や世界銀行などの国際機関を舞台として,現実の開発問題にも大きく貢献している。79年ノーベル経済学賞受賞。
執筆者:

ルイス
Percy Wyndham Lewis
生没年:1884-1957

イギリスの批評家,小説家,画家。第1次大戦後の芸術,ジャーナリズムのほぼあらゆる分野で,自己顕示の強い戦闘的な活躍をしたアメリカ生れのイギリス人。最初は画家として出発し,キュビスムボーティシズムの実践的主唱者として活躍,《突風》(1914-15),エズラ・パウンドの協力を得た《初心者》(1921-22)などの個人雑誌を創刊。この運動を推進するとともに,ロマン派的,情緒的な作風を徹底的に攻撃し,この傾向は次の文芸美術雑誌《敵》(1927-29)にも引き継がれた。小説でもパリの画家を描いたリアリズム小説《ター》(1918),イギリスの俗物芸術家を激しく攻撃した《神の猿たち》(1930),死後の審判を扱った散文叙事詩《聖嬰児節》(1928。第2,3部1955),《愛のための復讐》(1937),《自責》(1954)など,同時代の心理的な小説に反逆し,輪郭のはっきりした異色で風刺的なものが多い。評論もまた文明批評《時間と西欧人》(1927),30年代文学における政治の絶対化を論じた《作家と絶対》(1952)など,鋭い洞察を含む挑発的なものである。晩年は右派的発言が多くなった。
執筆者:

ルイス
Clarence Irving Lewis
生没年:1883-1964

アメリカの哲学者,論理学者。マサチューセッツ州のストーンハムに生まれ,ハーバード大学で学び,1920年から53年に退官するまで同大学で,さらにカリフォルニア,プリンストン,スタンフォードの各大学でも教えた。ルイスは記号論理学の発展に大きく寄与し,アメリカではC.S.パース以来のすぐれた形式論理学者である。特にB.A.W.ラッセルの〈質料含意〉の演算子にかわる,条件の強い〈厳密含意〉の演算子を提唱し,それに基づいて新しい様相論理学を確立したことはよく知られている。彼はまたすぐれた認識論者でもあり,特にカント哲学とプラグマティズムの影響を受けながら,記号論理学の研究をも踏まえて,独自の〈概念主義的プラグマティズム〉を創唱した。ルイスはさらにプラグマティズムの立場から倫理的価値判断の客観的検証可能性を主張し,価値の理論,倫理学にも貢献している。著書には《精神と世界秩序》(1929),《記号論理学》(C.H. ラングフォードとの共著,1932),《知識と評価作用の分析》(1946)などがある。
執筆者:

ルイス
Clive Staples Lewis
生没年:1898-1963

イギリスの批評家,小説家。北アイルランドのベルファストに生まれ,オックスフォード大学で古典と英文学を学び,母校モードリン・カレッジのフェローとなる。のちケンブリッジ大学英文科の中世・ルネサンスの教授(1954-63)となる。豊かなキリスト教的・古典的な教養をもとに,中世における宮廷愛を解明した名著《愛とアレゴリーThe Allegory of Love》(1936)をはじめ,《16世紀英文学》(1954),《単語の研究》(1960),《批評の実験》(1961)などの学問的な著作を世に送った。一方,SF的な趣向をもつ《沈黙の惑星より》(1938),《ペレランドラ》(1943。のち《金星への旅》と改題),《あの忌まわしい力》(1945)などの三部作があり,児童読物として《ナルニア国物語》(1950-56)があるが,そこに一貫しているものはキリスト教的ヒューマニズムである。J.R.R.トールキン,C.W.S.ウィリアムズとの友情も有名。
執筆者:

ルイス
Matthew Gregory Lewis
生没年:1775-1818

イギリスの小説家,劇作家。代表作の題を冠して〈モンク・ルイスMonk Lewis〉として知られる。ロンドン生れ。父は西インド諸島ジャマイカに大農園をもつプランター。オックスフォード大学に学び,ハーグ駐在大使館員となる。1796年にゴシック・ロマンス《修道僧The Monk》を出版,マドリードの修道院長の堕落,悪魔との取引などを扱ったこの恐怖小説でたちまち有名になる。国会議員も務めたが,その後多くのゴシック風の劇や小説を書き,A.ラドクリフ,W.ゴドウィンらとともにゴシック・ロマンスの全盛期を築いた。西インド諸島の奴隷制問題に人道主義的関心をもち,ジャマイカに渡るが帰国の途上病死。彼はゲーテ,シラーなどのドイツ文学の影響を強く受けていたが,ドイツ・ロマン派のE.T.A.ホフマン《悪魔の美酒》などに影響を与えた。
執筆者:

ルイス
Joe Louis
生没年:1914-81

アメリカのボクシング選手。本名はJoseph Louis Barrow。アラバマ州の黒人綿つみ小作人の子に生まれ,デトロイトのスラム街で育つ。18歳でアマチュアボクシング選手となり,34年全米アマチュア・ライトヘビー級を獲得するまで54戦50勝(43KO)4敗の成績だった。その年プロに転向,37年,ヘビー級チャンピオンのジェームズ・ブラドック(アメリカ)に挑戦し,8回KO勝ちでチャンピオンの座に着いた。以後49年まで12年間25回の防衛記録(うち23回はKO勝ち)を作り,〈褐色の爆撃機〉〈スーパー・ファイター〉と呼ばれた。なかでも38年10月,ニューヨークで,ナチス・ドイツの誇るマクス・シュメリングを1回2分4秒でKOして,ヤンキー・スタディアムを埋めた7万人のファンを熱狂させた。51年R.マルシアノに敗れたのを機に引退した。
執筆者:

ルイス
Gilbert Newton Lewis
生没年:1875-1946

アメリカの物理化学者。マサチューセッツ州に生まれる。ネブラスカおよびハーバード大学に学び,1899年学位を取得した後,ライプチヒやゲッティンゲン大学のF.W.オストワルト,W.H.ネルンストのもとで研究した。1911年マサチューセッツ工科大学教授,12年カリフォルニア大学教授となる。おもな業績は活動度という熱力学的関数を導入したことであり,溶液の物理化学的研究を進め,熱力学的理論を確立したことである。16年より原子価の電子説の研究を始め,分子の構造に関して〈八偶説〉を主張し,不対電子の概念を導入し,化学結合論に影響をおよぼした。ほかに,重水素,酸,塩基の研究が重要である。
執筆者:

ルイス

ルイス

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

化学辞典 第2版 「ルイス」の解説

ルイス
ルイス
Lewis, Gilbert Newton

アメリカの物理化学者.ネブラスカ大学に入学後,ハーバード大学に移り,1899年T.W. Richards(リチャーズ)の指導で学位を取得後,ゲッチンゲン大学のH.W. Nernst(ネルンスト)およびライプチヒ大学のF.W. Ostwald(オストワルト)のもとで学び,1901年に帰国し,ハーバード大学で熱力学および電気化学を教えた.1904年アメリカの植民地になって間もないフィリピンの度量衡局に勤務,1905年マサチューセッツ工科大学のA.A. Noyesのグループに加わる.1912年にカリフォルニア大学バークレー校の化学教室の学部長兼主任教授に迎えられ,同校が世界有数の化学研究拠点へと発展するのに貢献した.1918年には第一次世界大戦で従軍し,フランス戦線で化学兵器の研究開発に従事した.ハーバード大学時代に熱力学に関心をもち,化学反応への応用における自由エネルギーの計算の重要性を強調して,活量フガシティーの概念を導入した.1923年に刊行されたM. Randallとの共著Thermodynamics and the free energy of chemical substancesは,大きな影響力をもった教科書となった.また,化学結合における電子の役割にも考察を加え,1916年には立方体原子モデルにもとづいて,共有電子対による化学結合の理論を提案し,非極性分子と極性分子の化学結合の統一的な説明を与えた.さらに非共有電子対の授受にもとづく酸塩基の概念(ルイス酸)を提案した.1931年に重水素が発見されると,電解法により重水の高度濃縮を実現し,同位体の物性を明らかにした.1930年代後半から有機化合物の色に関する研究をはじめ,有機化合物の示すりん光が励起三重項状態からの発光であることを明らかにした.

出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

百科事典マイペディア 「ルイス」の意味・わかりやすい解説

ルイス

陸上選手。米国アラバマ州生れ。ヒューストン大卒。1984年のロサンゼルスオリンピックにおいて,100m,200m,400mリレー,走幅跳びで優勝。1988年のソウルオリンピックでは100m,400mリレーで優勝。1992年のバルセロナオリンピックでは走幅跳びで優勝。1996年のアトランタオリンピックでも走幅跳びで優勝し,計9個の金メダルを獲得。また1983年,1987年,1991年の世界陸上競技選手権大会の100mにおいて3大会連続の優勝を果たすなど,世界のトップ・アスリートとして活躍。
→関連項目ジョンソン

ルイス

米国の画家。ボルティモア生れ。1954年,フランケンサーラーのアトリエを訪問した際に,彼女がポロックの影響から採用していたステーニング(顔料をキャンバスに染み込ませる)の手法から,独自の制作方法を展開させた。地塗りや下処理を施していないロー・キャンバスを傾けるなどして絵具の流れを操作し,純粋に視覚的な色彩の場による画面を創出した。絵具の生み出す形状によって〈ベール〉〈フローラル〉〈アンファールド〉〈ストライプ〉などに分類される作品群は,カラー・フィールド・ペインティングを代表するものとなった。
→関連項目グリンバーグノーランド

ルイス

英国の画家,作家。米国生れ。1914年―1915年,前衛芸術雑誌《ブラストBlast(突風)》を発行,キュビスム未来派の影響を受けた〈ボーティシズムVorticism(渦巻主義。命名はパウンドによる)〉の実践的主導者となった。著作には代表的評論《時間と西欧人》(1927年)のほか,現代の社会と芸術を痛烈に批判したものが多い。他に小説《ター》(1918年),散文叙事詩《聖嬰児節》(1928年。第2,3部1955年)などがある。

ルイス

米国の物理化学者。マサチューセッツ工科大学教授を経て,1912年カリフォルニア大学教授。1908年活動度を熱力学関数で表し,熱力学的溶液論の基礎を確立。1916年分子の構成に関するルイス・ラングミュアの原子価理論(八隅説)を提唱。酸と塩基の新しい定義も与えた(1923年)。1931年には電解により重水の濃縮に成功。燐(りん)光に関する研究もある。
→関連項目ユーリー

ルイス

英国の作家。ゴシック・ロマンスの代表的作品である《修道僧The Monk》(1795年)の作者。この題名にちなんで〈モンク・ルイス〉と呼ばれ,A.ブルトンなどシュルレアリスムの文学者にも高く評価された。戯曲や詩もある。

ルイス

米国の作家。新聞記者などをしつつ小説を書き始め,写実的手法でアメリカ文化を痛烈に批判。《本町通り》(1920年),《バビット》(1922年),《アロースミスの生涯》(1925年),《エルマー・ギャントリー》(1937年)等の作品で,1930年米国最初のノーベル文学賞を受けた。その後の作品に,ファシズムの脅威を描く《ここでは起こりえない》や,人種問題を扱った《血の宣言》(1947年)など。
→関連項目ワイラー

ルイス

米国のアフリカ系ボクシング選手。本名Joseph Louis Barrow。1934年プロ・ボクシングに転向するまでアマチュアでは54戦50勝(43KO)の成績。1937年6月22日J.ブラドック(米国)にノックアウト勝ちしてヘビー級世界チャンピオンとなり,無敵の強さを誇り〈褐色の爆撃機〉と呼ばれた。1949年3月1日引退を声明,12年間保持した王座をE.チャールズに譲った。1950年9月27日カムバックを志しチャールズに挑戦,判定で敗れた。71戦57勝(54KO)。

ルイス

開発経済学に大きな功績を残した西インド諸島(セント・ルシア島)出身の経済学者。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに学び,西インド大学,プリンストン大学などで教える。産業化は堅固な農業的基盤を前提として成功すると説き,伝統的部門に囲まれた小さい都市的な産業活動部門という〈二重経済〉の概念を用いて,産業化促進戦略を正当化した。1979年ノーベル経済学賞受賞。

ルイス

米国の労働運動指導者。少年時代から炭坑夫となり,1920年―1960年全米炭鉱労働組合(UMW)委員長。ニューディール政策を支持し,1935年CIOを結成して初代委員長となったが,1942年戦争支持政策に反対して辞任。しばしば激しい闘争を指導。

ルイス

米国の哲学者,論理学者。ハーバード大学教授。B.A.W.ラッセルの質料包含に対して厳密包含の概念を提起し,真偽のほかに必然,可能などの様相をも区別する多値論理学の可能性を示し,記号論理学の発達に貢献した。著書《記号論理学》(C.H.ラングフォードと共著,1932年),《知識と評価作用の分析》(1946年)など。

ルイス

英国の文学者,批評家。オックスフォード大学に学び,同大学フェローを経てケンブリッジ大学教授。《愛とアレゴリー》(1936年),《批評の実験》(1961年)などの学問的著作のほか,《沈黙の惑星より》(1938年)などのSF作品,児童文学の大作《ナルニア国物語》(1950年―1956年)を執筆,現代を代表するキリスト教作家として活躍した。

ルイス

デイ・ルイス

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367日誕生日大事典 「ルイス」の解説

ルイス

生年月日:1883年4月12日
アメリカの論理学者
1964年没

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