日本大百科全書(ニッポニカ) 「ルイ(16世)」の意味・わかりやすい解説
ルイ(16世)
るい
Louis ⅩⅥ
(1754―1793)
フランス王(在位1774~92)。ルイ15世の孫。オーストリアの皇女マリ・アントアネットと結婚(1770)。1774年祖父の後を継いで即位。性格が弱く、鈍重とさえいわれ、趣味の狩猟と錠前づくりにふけって政務に熱心ではなく、国王としての適性を欠いたことが後の悲運を招く最大原因となったといえよう。
チュルゴー、マルゼルブなどを重用して革命前の旧制度の矛盾の解決、さらには財政危機の打開にあたらせたが、宮廷や貴族および僧侶(そうりょ)の2特権身分の抵抗にあって失敗した。ついでネッケルを起用したが、アメリカ独立革命への介入による国費の浪費で財政を破綻(はたん)させ、以後カロンヌ、ロメニー・ド・ブリエンヌを用いたが財政は悪化する一方で、名士会の招集などのすべての改革は特権身分の反抗で挫折(ざせつ)したうえ、第三身分もこれに戦術的に同調して三部会の招集が全国民的な要求となった。ルイ16世はこれに屈して1788年夏に三部会招集を決定、ふたたびネッケルを起用して難局にあたらせたが成功せず、翌年三部会が成長変身して国民議会となり革命が本格化すると、軍隊による議会弾圧を策し、かえってバスチーユの攻略を招くこととなり、ついに彼は人民の圧力に屈した。革命の勃発(ぼっぱつ)以来、断固とした首尾一貫の路線をとりえなかったことが、このような追い詰められる事態を招いた。
以後、立憲王政の試行錯誤に対しても、自らの無定見と王妃マリ・アントアネットを中心とする宮廷の圧力とが相まって、新体制への面従腹背の姿勢で終始しつつ、ミラボー、ラ・ファイエット、ついでバルナーブと、主としてフイヤン派を通じて権力の回復を図ったが、すべて失敗した。ついに1791年6月20日一家をあげての逃亡を企てたが、これも失敗(バレンヌ逃亡事件)、立憲王政を基調とする「1791年憲法」の承認を余儀なくされた。
彼は、憲法を具体化する立法議会期になってからもなお素志を捨てきれず、ジロンド派の戦争政策に便乗し、敗戦による敵軍の干渉を通して絶対王政の回復を目ざした。そのため、開戦後は戦争推進にサボタージュを続けて人民の怒りを買い、1792年8月10日の人民蜂起(ほうき)で王政を覆され、タンプルの牢獄(ろうごく)に幽閉された。国民公会期に山岳派(モンタニャール)の主唱する裁判で祖国と革命に対する裏切りのかどで断罪され、翌1793年1月21日ギロチンの犠牲となって刑死した。
[樋口謹一]
『クレリー他著、ジャック・ブロス編、吉田春美訳『ルイ十六世幽囚記』(1989・福武書店)』