ルドルフ1世(読み)ルドルフいっせい(英語表記)Rudolf I

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルドルフ1世」の意味・わかりやすい解説

ルドルフ1世
ルドルフいっせい
Rudolf I

[生]1218.5.1. ブライスガウ,リンブルク城
[没]1291.7.15. シュパイエル
ハプスブルク家最初のドイツ王,神聖ローマ皇帝 (在位 1273~91) 。ホーエンシュタウフェン家の皇帝フリードリヒ2世の盟友として領土を広げ,大空位時代の混乱ののち,1273年対立候補者ボヘミア王オタカル2世を破って帝位に選出された。その際ローマ教皇庁は,イタリアにおける皇帝権放棄と新十字軍出征を条件として彼の帝位を承認。 78年デュルンクルトの戦いでオタカル2世を敗死させ,オーストリア,シュタイエルマルク,ケルンテンクラインなどの領土を没収,これを2人の子アルブレヒトとルドルフに授封して,後年のハプスブルク大帝国の基礎を築いた。在世中領邦諸侯の協力を得てドイツの治安確立に努め,都市に対する課税権をあらためて主張した。また対外進出を企てる隣国フランスに対抗するため,84年ブルゴーニュ公の娘イザベルと結婚,89年ブルゴーニュ伯に臣下の礼を強要した。ハプスブルク家に帝位を相続させようと努めたが,同家の強大化を恐れる選帝侯の抵抗で実現せず,同家による帝位継承は 15世紀に入ってから実現した。

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改訂新版 世界大百科事典 「ルドルフ1世」の意味・わかりやすい解説

ルドルフ[1世]
Rudolf Ⅰ
生没年:1218-91

ハプスブルク家初のドイツ王。在位1273-91年。南ドイツの小諸侯だったが,大空位時代(1256-73)後,諸侯により国王に選出さる。ドイツ国内の安定を策し,フランスの東方拡大に抵抗する一方,イタリアでは教皇と協調,ボヘミア王オタカル2世を攻撃して78年敗死させ,領土回復したオーストリアとシュタイアーマルクを82年に息子に授封,家門勢力を帝国東部に確立して,帝国の政治的重心が東部に移転する先駆となった。
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367日誕生日大事典 「ルドルフ1世」の解説

ルドルフ1世

生年月日:1218年5月1日
ハプスブルク家最初の神聖ローマ皇帝(在位1273〜91)
1291年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のルドルフ1世の言及

【ハプスブルク家】より


[オーストリア支配と世界帝国]
 スイスとエルザス(アルザス)に所領をもつ豊かな貴族として,1020年にはスイス北部にハプスブルク城を築き,伯の称号をもっていた。大空位時代の混乱の後,始祖ルドルフ1世は,1273年ドイツ国王に選ばれ,競争者ボヘミア王オタカル2世からオーストリア,シュタイアーマルクを没収し,82年息子たちに授封し,初めて東方に家領を確保した。兄弟全員による相続権所有の原則から,以後相続争いと系統分立を繰り返すが,断絶の際には残った系統に再統一される復元力もあって多産系のこの王家は家領を拡大する。…

【ラント法】より

…ただラント法の一般性は,特別法領域としての都市法によって破られることはいうまでもないが,レーン法との関係は対立的というより相補的である。 個々のラント法が12世紀に事実上存在したことは証書史料の文言から明らかであるが,法記録として最も古いのは,1233年ドイツ騎士修道会総長の公布したクルム法であり,有名なオーストリアのそれは,ルドルフ1世のもとでラントの政治的統合が再確認されたとき(1278‐80)に成立した。中世末期から近世にかけての諸ラント法の〈制定〉は,しばしば領邦君主側のイニシアティブのもとで行われたが,それにもかかわらず,どのラント法もつねに,ラントを構成する諸身分の伝統的諸権利の法的表現という性格を基本的に失うことはなかった。…

※「ルドルフ1世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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