ルートウィヒ1世(読み)ルートウィヒいっせい(英語表記)Ludwig I

改訂新版 世界大百科事典 「ルートウィヒ1世」の意味・わかりやすい解説

ルートウィヒ[1世]
Ludwig Ⅰ
生没年:778-840

フランク王,ローマ皇帝在位814-840年。ルートウィヒ敬虔王Ludwig der Fromme,ルイ敬虔王Louis le Pieuxとも呼ばれる。カール大帝の息子。813年父の生前皇帝に任ぜられ,翌年父の死とともに唯一の皇帝にしてフランク王となった。

 生地がポアティエ付近であったため,アクイタニア王たるべく,同地方の慣習の中で育てられた。彼は帝権を唯一の教会を援助すべき唯一の権力と考え,817年の帝国遺贈令において長男ロタール1世を皇帝に任じ,他の兄弟たちに帝権に従属すべきことを命じた。この考えは,ゲルマンの相続慣習に反し,しかも教会はこれに乗じて,のちに皇帝,王を教会の奉仕者と規定した(829)。帝国遺贈令の処置は宮廷の大部分を巻き込むイタリア王ベルナールBernhard(797ころ-818)の反乱(818)を招き,822年教会は彼に痛悔を命じた。さらに後妻ユーディットとの間に末子カール2世をもうけると(823),その取り分をつくるために,数回にわたって分国令を改め,すでに成人している3子の反乱を招き(830),ランス大司教エボらもこれに加わり,一時廃位された(833-835)。彼は死後の王国分割を決定しえぬまま,兄弟間の紛争を残して没した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルートウィヒ1世」の意味・わかりやすい解説

ルートウィヒ1世
ルートウィヒいっせい
Ludwig I

[生]1786.8.25. シュトラスブルク
[没]1868.2.29. ニース
バイエルン王 (在位 1825~48) 。バイエルン王マクシミリアン1世ヨーゼフの子。ナポレオン時代における自由主義的・国民主義的王族として知られ,ライン同盟反対,教会政治を非難したが,即位後議会と紛争を起し,1830年七月革命以後は民主的組織を嫌悪するにいたった。 32年次男オットー (ギリシア名オソン ) をギリシア王位につけ,35~36年ギリシアへ旅行。 48年三月革命で息子マクシミリアン2世ヨーゼフに譲位した。彼はまた芸術を愛好し,数々の美術品を収集,晩年これをミュンヘン絵画館 (のちのミュンヘン美術館) に収蔵した。

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367日誕生日大事典 「ルートウィヒ1世」の解説

ルートウィヒ1世

生年月日:1786年8月25日
バイエルン王(在位1825〜48)
1868年没

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世界大百科事典(旧版)内のルートウィヒ1世の言及

【インムニテート】より

…一見矛盾した国王のこの政策は,一つには,グラーフシャフトなる統治組織が従来考えられていたほど普遍的ではなかったこと,もう一つには,国王がどうしても教会を国家統治の支柱とせざるをえなかったことから説明できる。インムニテートを教会政策の手段として自覚的に用いたのはルートウィヒ1世敬虔帝で,同帝は教会に対する貴族支配を排除して国王の保護下においたうえでこれにインムニテートを与えた。後にザクセン朝の諸帝のもとでこの政策は全面的に展開され,帝国司教教会と帝国修道院は帝国統治の最も重要な装置となるに至った。…

【カロリング朝】より

… カール大帝(在位768‐814)は,フランク王権の支配を,ほぼ今日のEC圏を包括する範囲に及ぼし,主として聖職者からなる宮廷の〈参謀部〉の助言を得て,神政政治的な国家体制を作ろうとした。800年にローマ皇帝の冠を得たことにより,彼はさらにローマ的な〈レス・プブリカ〉理念を導入しようとし,その果実はその子ルートウィヒ1世(在位814‐840)によっては受けつがれ,帝権と教会とを結合する理想主義的な統一国家像が打ち出された。しかしこのような理想像は,一般には理解されず,さまざまな現実との摩擦を生じた。…

【休日】より

…また,フランクのカール大帝も勅令により安息日を定め,安息日の労働を禁止した。827年,王の息子ルートウィヒ1世が再公布した上記の勅令によれば,安息日には軍需品の輸送,食料運搬,領主の遺骸をその墓に運ぶという3種の運搬作業を除くいっさいの労働を禁止する旨が記されている。ところで,キリスト教がヨーロッパの民衆の間に定着するまでには,多くの宗教や民間信仰との習合の過程が必要であった。…

【コルバイ】より

…ハノーファーの南西約60kmに位置する。ザクセン地方の布教のためにルートウィヒ1世(敬虔王)により823年に創設された旧ベネディクト会修道院の所在地。この修道院が北フランスのコルビーCorbieの修道士たち(コルビー修道院)により営まれたため,〈コルベイア・ノウァ〉と呼ばれた。…

【フランクフルト・アム・マイン】より

…文書史料にこの名が最初に登場するのは794年のことで,この年カール大帝は,ヨーロッパ全土から聖俗高位者をこの地に呼び集め,その王宮広間で,バイエルン大公タッシロ3世の廃位,キリスト猶子説と聖画崇拝の禁止など重要問題を討議した。ルートウィヒ1世(在位814‐840)は,王宮を改築し,以後東フランク諸王の主要な宮廷所在地となった。852年ルートウィヒ2世ドイツ人王は,そのかたわらに救世主礼拝堂を建て,856年ロタール2世(在位855‐869),887年アルヌルフ(在位887‐899)が,堂内で玉座に推戴された。…

※「ルートウィヒ1世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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