世界大百科事典(旧版)内のレオポルド[2世](神聖ローマ皇帝)の言及
【トスカナ大公国】より
…1737年にはメディチ家が断絶,トスカナ大公国はハプスブルク家に継承される。65年,大公となったレオポルド1世(のち神聖ローマ皇帝レオポルト2世)は法の下での国民の平等と自由を旗印に各分野で改革を行ったが,彼以後再び保守化する。99年からのナポレオン統治時代を経て,王政復古後トスカナ大公となったハプスブルク家のレオポルド2世は,ナポレオン時代の進歩的制度を保持し,トスカナ大公国の再興に寄与するが,1859年,リソルジメント運動の高まりのなかで退位。…
【ハプスブルク家】より
…中世以来ヨーロッパで最も重要な由緒ある名門の王家(図)。
[オーストリア支配と世界帝国]
スイスとエルザス(アルザス)に所領をもつ豊かな貴族として,1020年にはスイス北部にハプスブルク城を築き,伯の称号をもっていた。大空位時代の混乱の後,始祖ルドルフ1世は,1273年ドイツ国王に選ばれ,競争者ボヘミア王オタカル2世からオーストリア,シュタイアーマルクを没収し,82年息子たちに授封し,初めて東方に家領を確保した。…
【ブラバント革命】より
…しかし,保守派は旧体制への復帰を目標とし,急進的改革を目ざす民主派に弾圧を加え,彼らをフランスに亡命させた。一方,兄ヨーゼフ2世の死後を継いで神聖ローマ皇帝に即位(1790)した現実主義的なレオポルド2世Leopold II(1747‐92)は,改革の撤回を約してベルギー人をなだめるとともに,プロイセンの支持のもとに軍を送ってベルギー合州国を降伏させ(1790年12月),ブラバント革命は失敗に終わった。
※「レオポルド[2世](神聖ローマ皇帝)」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」