ロック(年譜)(読み)ろっくねんぷ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロック(年譜)」の意味・わかりやすい解説

ロック(年譜)
ろっくねんぷ

1632 8月29日イングランド南西部のサマーセット県リントンに生まれる
1647 ウェストミンスター校に入学
1652 オックスフォード大学クライスト・チャーチ入学
1658 同カレッジの特別研究員となる
1659 スタッブの『古き善き大義論』への反駁の一文を書く
1660 ロバート・ボイルと知り合い、共同研究を始める。バグショーに反論する論文『世俗権力論』を書く(~1661年)
1662 修辞学講師となる
1663 道徳哲学監督官となる
1664 自然法に関する八つの論文を完成
1665 外交官となりクレーフェに赴任
1666 帰国後、医学と自然科学研究に没頭
1667 アシュリ卿(のちのシャフツベリ伯)の侍医となり、ロンドンのアシュリ邸に入る
1668貿易貨幣利子とに関する瞥見』を出版。『利子論草稿』を書く
1669医術について』をシドナムと執筆
1671人間知性論』の契機となる会合をもつ。草稿A、Bを書く
1675 フランス旅行に出る(~1679年)。ニコルの『道徳論集』の一部を翻訳。フランスの多くの知識人と交わる
1680 『政治二論』第二論文の執筆開始
1682 反王反乱の陰謀発覚し、シャフツベリ伯オランダ亡命、のち客死
1683 ロック、オランダへ亡命。当初ロッテルダムに、のちアムステルダムに住む
1685 『人間知性論』の草稿Cを完成。『寛容についての書簡』を書く
1686 『人間知性論』完成
1688 名誉革命(→抵抗権)
1689 ロック帰国。政府閑職(訴願局長)に就く。『寛容についての書簡』出版。『政治二論』『人間知性論』出版
1690 ニュートンと会う。プロウスト、ロングら『寛容についての書簡』を非難、ロック反論し、論争を繰り返す
1693 『教育論』出版
1694 『人間知性論』第2版出版
1695キリスト教の合理性』出版
1697 スティリングフリートとの論争始まる
1702 『奇跡論』出版
1704 10月28日死去。ハイ・レイバに埋葬

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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