ロドリゲス(英語表記)João Rodriguez

精選版 日本国語大辞典 「ロドリゲス」の意味・読み・例文・類語

ロドリゲス

(João Rodriguez ジョアン━)⸨ロドリーゲス⸩ ポルトガルイエズス会宣教師。天正五年(一五七七)頃来日し、入会後、府内のコレジョラテン語日本語を学び熟達、会計係兼通訳として活躍。慶長一五年(一六一〇)ポルトガル船と幕府との紛争に巻き込まれてマカオに追放された。「日本大文典」を長崎で、「日本小文典」をマカオで刊行。未完の稿本「日本教会史」も文化史的価値が高い。(一五六一‐一六三四

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「ロドリゲス」の意味・読み・例文・類語

ロドリゲス(João Rodríguez)

[1561~1634]ポルトガルのイエズス会宣教師。1577年(天正5)来日。96年司祭。日本語をよくし通訳をつとめ、ツウズ(通事)ロドリゲスとよばれた。豊臣秀吉徳川家康の知遇を得たが、1610年(慶長15)追放された。マカオで没。著「日本大文典」「日本教会史」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ロドリゲス」の意味・わかりやすい解説

ロドリゲス
João Rodriguez
生没年:1561-1634

イエズス会の宣教師。ポルトガル人。1577年に来日,日本語をよくし,通訳として活躍した。ロドリゲスという姓は,ポルトガル人としてきわめてありふれたものであるので,他と区別するため〈ツーズ〉(通事)を添えて〈ツーズ・ロドリゲス〉の名で呼ばれ,よく知られ親しまれた。豊臣秀吉,徳川家康の知遇をうけ,早くから教会側の代弁者として活躍,禁教の時代になってもなお許されて長く滞在したが,1613年ついにマカオに移り,そこで没した。

 著書に長崎版とマカオ版の日本語文法書がある。後者《日本小文典》(1620。《簡約日本文典》ともいう)は前者日本大文典》(1604-08。単に《日本文典》ともいう)を簡略にしたものであるが,ともに16世紀から17世紀へかけての日本語を詳密に記述していて,今日,日本語の歴史を研究するうえに欠くことのできない文献となっている。《日本大文典》とほぼ同じころ,やはり長崎学林から刊行された《日葡(につぽ)辞書》は,厳密にはロドリゲスの著述ではないが,その編さんはやはり彼と無関係には考えられない。なお,ほかに稿本として《日本教会史》が残されている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロドリゲス」の意味・わかりやすい解説

ロドリゲス
Rodriguez, João Tçuzzu

[生]1561? セルナンセレ
[没]1634? マカオ
ポルトガル出身のイエズス会宣教師,言語学者。天正5 (1577) 年頃 16歳で来日。イエズス会に入り,コレジヨで修学。その語学力を用いて通事 (通訳) をつとめ,豊臣秀吉や徳川家康の知遇を得,対キリシタン政策の緩和や貿易交渉に大きな役割を果した。その著『日本 (大) 文典』 Arte da lingoa de Iapam (3巻1冊本,1604~08) は,当時の標準語文法を詳細に説き,発音や各地の方言その他にも及ぶもので,キリシタンの日本語研究史上の白眉とされる。元和6 (1620) 年にはこれを初学者用に簡約化した『日本小文典』 Arte breve da lingoa Iapoaを著わし,日本語文法を一段と整備体系化した。ほかに稿本として『日本教会史』などがある。なお,同時代に日本イエズス会に同名異人のジョアン・ロドリゲスというポルトガル生れのバテレンがいたので,これと区別するためツーズ Tçuzzu (通事) を添えて呼ばれることがある。

ロドリゲス
Rodríguez, Ventura

[生]1717.7.14. マドリード近郊
[没]1785.8.26. マドリード近郊
スペイン建築家。 F.ユバラに師事。マドリードのサン・マルコス聖堂 (1749~53) の建築によって認められ,以後マドリードを中心に活躍,多くの仕事を残した。最初イタリア・バロック様式に傾倒したが,スペインのロココ様式を発展させた。おもな作品はマドリードのサン・ベルナルド聖堂 (53) ,ブルゴスの議事堂,パンプロナ大聖堂のファサード (83) など。

ロドリゲス
Rodriguez, Girão João

[生]1558
[没]1633. マカオ
ポルトガルのカトリック司祭,イエズス会士。いわゆるバテレンの一人。天正 14 (1586) 年任地インドから来日,豊後,次いで大村領内で布教活動を行なった。慶長8 (1603) 年以後長崎のイエズス会本部で副管区長の書記をつとめ,翌年から『耶蘇会士日本年報』を執筆。同 19年の大追放によりマカオに追放され,同地で没。

ロドリゲス
Rodríguez, Martin

[生]1771
[没]1844
アルゼンチンの軍人,政治家。ブエノスアイレス州の政治指導者。 1806年イギリスの侵攻を防ぎ,10年の独立革命戦争を指導。 20~24年ブエノスアイレス州知事として進歩的政策を行い,のちの国家統一を助けた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「ロドリゲス」の意味・わかりやすい解説

ロドリゲス

ポルトガルのイエズス会宣教師。漢名陸若漢。1577年来日,通詞として豊臣秀吉,徳川家康に接し布教上の便宜を得,禁教の時代にも滞日を許された。1613年マカオに移り,同地で没。《日本大文典》《日本教会史》などの著作がある。
→関連項目日本料理

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ロドリゲス」の解説

ロドリゲス Rodrigues Tçuzzu, João

1561-1634 ポルトガルの宣教師。
イエズス会の司際。天正(てんしょう)5年(1577)来日,豊後(ぶんご)府内(大分市)のコレジヨでまなぶ。日本語に堪能(たんのう)で,バリニャーノと豊臣秀吉との会見や徳川家康との折衝の際,通訳をつとめツズ(通事)と称した。慶長9年(1604)最初の日本語文法書「日本大文典」を刊行。15年マカオへ追放された。1634年8月1日死去。73歳。

ロドリゲス Rodrigues Giram, João

1558-1629 ポルトガルの宣教師。
イエズス会司祭。天正(てんしょう)14年(1586)来日し,豊後(ぶんご)(大分県),肥前大村,平戸(ともに長崎県)で布教にあたる。慶長8年(1603)日本準管区長秘書。「イエズス会日本年報」を執筆した。19年マカオへ追放され,1629年10月15日同地で死去。71歳。

ロドリゲス Rodrigues Jeronimo

1568-1628 ポルトガルの宣教師。
イエズス会士。慶長5年(1600)来日し,伏見,金沢で布教。のち長崎コレジヨ院長,上(畿内)地区長をつとめる。元和(げんな)3年明石掃部(かもん)の長男パウロ明石内記の逃亡事件に連座し,離日した。1628年7月5日マカオで死去。60歳。

ロドリゲス Rodriguez, Augustin

?-1613 スペインの宣教師。
フランシスコ会司祭。文禄(ぶんろく)3年(1594)マニラ総督使節として来日。慶長2年長崎で二十六聖人殉教事件の際,追放される。7年日本宣教長に任命されて再来日,徳川家康にあい江戸,伏見などの聖堂の使用をゆるされた。9年離日。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

デジタル大辞泉プラス 「ロドリゲス」の解説

ロドリゲス

体操、男子つり輪競技の技。前振り上がり上向き中水平。名称はフランスの体操選手、ダニー・ピネーロ・ロドリゲスから。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のロドリゲスの言及

【日本大文典】より

…原題は《Arte da lingoa de Iapam》。イエズス会宣教師ロドリゲスJoão Rodriguez著。3巻1冊。…

【日本料理】より

…室町末期以後になりその基礎がかたまり,江戸後期にいたってそれはほぼ完成の域に達する。ポルトガルの宣教師ロドリゲスが来朝したのは1577年(天正5)であるが,彼は当時の日本で4種類の宴会料理が行われているのを見た。その第1は〈三つの食台の宴会〉,第2は〈五つの食台の宴会〉,第3は〈七つの食台の宴会〉,第4は〈茶を飲むための宴会〉であった。…

※「ロドリゲス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android