ローマ法の継受(読み)ローマほうのけいじゅ

改訂新版 世界大百科事典 「ローマ法の継受」の意味・わかりやすい解説

ローマ法の継受 (ローマほうのけいじゅ)

中世後期ないし近世初頭の大陸ヨーロッパにおける学識法ローマ法)の普及,その浸透と同化の過程をいうが,この概念の用いられ方には変遷がある。

 元来は17,18世紀ドイツ法学の法源論の分野における概念であり,ローマ法は皇帝ロタール3世(フォン・ズプリンブルク)が帝国法をもって公式にドイツに導入したとする伝説がH.コンリングの手で打ちこわされて以来,ドイツにおけるローマ法の通用力を説明するために,ローマ法はその全体が--《標準注釈》によって解説を付されているかぎり--裁判所の〈慣用によって継受されたusu receptum〉とする理論が立てられたことに由来する。この概念がドイツにおける学識法の普及という歴史的過程自体を特徴づけるのに使われることになり,ドイツでは他のヨーロッパ諸国とは異なりローマ法が全体として継受されたという見解(いわゆる〈全体的〉ないし〈包括的継受〉)を生み出した。

 しかも近代の法史学研究において,歴史法学派の民族精神論との関連で,とりわけ1830年代以降ゲルマニステンの側から,ローマ法はドイツ民族の代表者としての法律家(法曹)によって継受されたとするF.K.vonサビニーの妥協的テーゼが拒否され,継受は法律家による自国法の過度の外国化であり,ドイツにとっての〈国民的不幸〉(ベーゼラー)と非難された。継受史はローマ的法理念とドイツ=ゲルマン的法理念の間の闘争としてとらえられることになり,それはまた,近代私法体系の樹立をめぐるロマニステンとゲルマニステンとの間の対立と結びついていた。こうして継受論は,つねに外来の法素材(法規範や法制度)--それも主として実体私法に関する--の受容ということを中心問題にしてきたのである。

ところが近時,継受研究のあり方に根本的な転換が生じた。学識ローマ法の普及がもつ全ヨーロッパに共通の諸局面が強調されるとともに,継受というできごとをたんに外来の法素材の受容としてではなく,その社会的・政治的・文化的な意味連関において把握する必要が説かれ,〈法生活の学問化〉ないし〈公的生活全体の知的技術的合理化〉(ウィーアッカー)といった視角が打ち出されている。そこでは,北イタリアにおけるローマ法に関する学問(法学)の成立とそのヨーロッパ各地への普及の過程がすべて考察の対象とされ,ドイツにおける継受もその一つの特殊ケースとして,すでに13,14世紀に始まる長い過程(従来はローマ私法が裁判所で適用されはじめる15,16世紀に重点がおかれていた)としてとらえられることになる。

 ところでこうした発展は,なんらかの権力による公的承認に基づくものというより,第一義的には教育史(大学史)上のできごととして理解される。12世紀初頭にボローニャローマ法大全を土台とした法学教育の成立をみたが,その法学の方法や授業システムは,中世後期から近世初頭にかけてヨーロッパ各地で組織されたすべての法科大学法学部)--およそ70にのぼる大学の存在が確認されている--によって受け継がれた。

 しかもこのボローニャを手本とする法学授業の普及は,たんに学識法の知識の普及にとどまらず,社会史的にみれば,法律家(法曹)という一つの新しい社会集団(職業身分)の形成をもたらした。12世紀以降,社会は大学で法学教育を受けた(学識)法律家を受け入れはじめ,社会的に重要な役割をゆだね,身分制社会秩序における相当に高い地位を与える。こうして15世紀には,すべてのヨーロッパ諸国で学識法律家は程度の差こそあれ法生活の不可欠の構成要素となるに至るのである。継受の過程とその結果は,学識法律家の社会的受容という観点からとらえてみることによって理解が容易になるといえる。継受の全体像を描き出すことは,こうした考察方法に基づく個別的研究の積重ねをまってはじめて可能になるが,研究の現況では大まかな見通ししか示されていない。

 もっとも早く学識法律家が進出するのは,北・中部イタリア(およびラングドック地方)の諸都市である。12世紀末および13世紀初めに,コンスル制のもとで法律事件に携わるコンスルは学識法律家から採用しなくてはならないとする規定がみられる。その後,ポデスタ制の成立とともに学識裁判が行われることになる。13世紀後半には,学識法律家であることを都市の裁判官職につくための条件と定める条例がかなり広範に認められる。同時に法律家は,都市の統治や行政の助言者,また外交使節や交渉役としても重要な役割を果たした。こうした発展は,イタリアの諸領域国家で続いてみられ,フリードリヒ2世シチリア王国は,国家の裁判および行政官職を法律家が占めた早期の例を示す。

 イタリア諸都市と並んで,とりわけ教会が注目されなくてはならない。教会は12世紀以来,行政および裁判の分野で法律家に豊富な活動の場を提供したが,とりわけ重要なのは12世紀末ないし13世紀初め以降の教会裁判所の再編成(教皇の特派裁判官judex delegatusやこれにならった司教区裁判所判事officialisの新設)とローマ法を基礎とする訴訟手続の導入である。学識裁判所の先がけとなった司教区裁判所officialatusが継受全体に対してもつ意義はきわめて大きい。この改革は徐々に行われ,ドイツ帝国では西から東へ進む形で14世紀前半までかかって普及していった。教会は,いちはやく学識法律家の活動に触れさせ,学識ローマ法の普及を準備しまた促進したといえる。

 イタリア(および南フランス)と教会の外では,学識法律家の進出にはもっと時間がかかった。君侯の宮廷や都市で,まず政治・外交における一般的助言者として,後になって行政(とくに財務行政),さらに司法の分野で活動する。

 フランスでは,聖王ルイ9世の時代にはほとんど一般的助言者のみであるが,13世紀後半に王会や教会の高級官吏の養成と結びついてオルレアン法科大学が興隆した。フィリップ4世治下に国王の助言者とパリ・パルルマンの裁判官の両方に法律家の進出がみられ,15世紀に至るとバイアジュbaillageおよびセネショセsénéchaussée(国王行政の中級官庁)や地方パルルマンでも裁判官職についている。フランドルブラバンでは,13世紀には君侯の顧問として,14世紀には中央裁判所,15世紀にはさらに都市裁判所で活動している。

 スペインでは,法律家はすでに13世紀中葉にはアルフォンソ10世のような国王の顧問の中にみられ,また同王のシエテ・パルティダス(七部法典)の編纂にも影響を及ぼしたが,カスティリャ顧問会Consejoの設立とともに行政および司法の分野に確固たる地位を占める。

 ドイツ帝国については,イタリア南下中の皇帝とアルプス以北のそれとを区別する必要がある。イタリアではすでに11世紀以来法学識者を助言者として,また裁判官として用いている(たとえばハインリヒ5世とイルネリウスの関係)。ドイツ諸地域でも13世紀末以来国王の助言者の中にほとんどつねに法律家がみられる。裁判には通例携わらなかったが,15世紀に王室裁判所の成立とともに変化が生じた。ドイツではまた,13世紀以来法律家は領邦君主および都市の顧問や行政の分野に進出しており,それが15世紀には学識裁判所の形成をもたらした。こうして15世紀末から16世紀にかけて,ドイツはもっとも広範なローマ法の受容を経験することになる。

 学識法律家は,中世の法,国家生活上のさまざまな問題の解決に学識法に基づく諸論証を用い,より高度に洗練された,専門家によってつかさどられる法に対する社会の要求にこたえ,また原理的に新しい法,国家観念をもたらした。また,法律家を抜きにして近代的官僚制国家(ドイツでは領邦国家における)の創造は考えられない。ただその進出過程に時間的ずれがあっただけではなく,進出の結果として必ずしもドイツにおけるようなローマ法の受容が行われたわけでもない。確かに継受は全ヨーロッパ的現象である(ヨーロッパ法文化上のできごととして,〈継受〉という言葉そのものが不適当ともいえる)が,各国各地における社会・国制の構造的転換と結びついた固有の法発展の過程でもある。今後の継受研究は,ヨーロッパ的連関とともに,こうした地域的特殊性の比較考察という観点を十分に踏まえながら進められねばならない。
ローマ法
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ローマ法の継受」の意味・わかりやすい解説

ローマ法の継受
ろーまほうのけいじゅ

ドイツを中心に行われたローマ法の採用をいう。通常次のように三期に区分して説明される。〔1〕中世初期のゲルマン部族法におけるローマ卑俗法の継受(早期継受)、〔2〕15~16世紀の中世イタリアの普通法(注釈学派、後期注釈学派によって加工されたローマ法)の継受(本継受)、〔3〕19世紀のパンデクテン法学によるローマ法(ディゲスタ)の継受(後期継受)である。とくに重要なのは本継受で、これは、世界ローマ理念、すなわち古代文化へのあこがれと中世の帝国がローマ帝国を承認したものとする考え方に基づき、法学者(学識法曹)がユスティニアヌス法典を「書かれた理性」ratio scriptaとみて、法的問題解決の最終的よりどころとしたことにある。当時のドイツでは中央権力の弱さから法の統一を果たすことができず、イタリアで学んだ聖職者や法学者の法的知識を頼りとし、1495年の帝室裁判所条例では陪席員の半数を学識法曹から任命するに至り、また各領邦国家も学識法曹を重用したので、しだいにローマ法(普通法)が浸透した。このような法は古くからの農民の慣習法と鋭く対立したので、ドイツ農民戦争(1524~25)の重大な原因となった。

 ローマ法は、このようにドイツばかりでなく、オランダやスコットランドでも受け継がれた。19世紀のパンデクテン法学ではローマ法を素材として近代法典の編纂(へんさん)を主張してゲルマン法学者と鋭い対立を示した。今日、イタリア普通法はヨーロッパの共通法であるという認識にたち、ヨーロッパ各地の法の比較研究が重要な課題となっている。

[佐藤篤士]

『ウィアッカー著、鈴木録弥訳『近世私法史』(1961・創文社)』『F・H・ローソン著、小堀憲助他訳『英米法とヨーロッパ大陸法』(1971・中央大学出版部)』『コーイング著、佐々木有司訳『ヨーロッパ法史論』(1980・創文社)』『ウィノグラドフ著、矢田一男他訳『中世ヨーロッパにおけるローマ法』(1967・中央大学出版部)』

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