アメリカの映画監督。脚本家としても知られる。エルンスト・ルビッチの後継者として軽妙洒脱な艶笑喜劇の名匠であるとともに,1940-50年代のハリウッドの〈フィルム・ノワール〉の名匠でもあった。いわゆる〈ウィーン派〉の監督の一人である。ウィーンに生まれ,法律を学ぶつもりでウィーン大学に入るが,1年で退学。新聞記者となり,ベルリンで収入を補うためホテルのダンサーとなってジゴロ的な生活を送りながら映画脚本家を志し,やがてロバート・シオドマク監督のセミ・ドキュメンタリー映画《日曜日の人々》(1929)の脚本に協力する。その後,《少年探偵団》(1931),《ブロンドの夢》(1932)など10本余りの脚本を書くが,ヒトラーが政権を握った1933年,ユダヤ人であるためパリにのがれ,そこでダニエル・ダリュー主演の《悪い種子Mauvaise Graine》(1933)をアル・エスウェーと共同監督し,34年に,メキシコをへてアメリカに渡った(残された母や家族は強制収容所で死亡したという)。
ハリウッドではフリッツ・ラング監督の《M》で知られた俳優ピーター・ローレPeter Lorre(1904-64)のところに転がり込んで貧窮の生活を送るが,38年からチャールズ・ブラケットCharles Brackett(1892-1969)と脚本の共同執筆を始め,ミッチェル・ライゼン監督の《ミッドナイト》(1939),エルンスト・ルビッチ監督の《青髯八人目の妻》(1938),《ニノチカ》(1939),ハワード・ホークス監督の《教授と美女Ball of Fire》(1941)など,洗練された喜劇(男と女の地位の逆転などクレージーな主題のものが多かったので,〈スクリューボール・コメディ〉などと呼ばれた)の脚本を書いてハリウッド随一のコンビとうたわれた。42年からは製作者,監督,脚本家の三役を兼ねて,戦争スリラー《熱砂の秘密》(1943),〈フィルム・ノワール〉の最初の傑作として知られる犯罪メロドラマ《深夜の告白》(1944)をつくり,そしてそれにつづくアメリカ映画史上初めてアルコール中毒を正面切って描いたといわれる《失われた週末》(1945)でアカデミー作品・監督・脚本賞を受賞した。次いでハリウッド往年のスターの敗残の内幕を冷酷に描いた《サンセット大通り》(1950)でもオリジナル脚本賞を受賞するが,これがチャールズ・ブラケットとの最後の共同作業になった。《第十七捕虜収容所》(1952),《麗しのサブリナ》(1954),《七年目の浮気》(1955),《昼下りの情事》(1957)などののち,脚本家のI.A.L.ダイアモンド(1915-88)とのコンビが始まり,《お熱いのがお好き》(1959)につづく《アパートの鍵貸します》(1960)でふたたびアカデミー作品・監督・オリジナル脚本賞を受賞した。このコンビは,ハリウッドを離れて西ドイツで撮ったハリウッドの内幕物《悲愁》(1978)までつづく。
ワイルダーは西部劇をのぞくすべてのジャンルをこなした監督で,作劇術の巧みさ,ルビッチの流れをくむ〈ソフィスティケーティッド・タッチ〉の軽妙な演出によって〈名匠〉の定評がありハリウッドのために1億ドル以上をかせいだといわれる。ハリウッドにたいして皮肉と毒舌を吐きながらも,《サンセット大通り》ではエーリッヒ・フォン・シュトロハイムとグロリア・スワンソンを,《ワン・ツー・スリー》(1961)ではジェームズ・キャグニーを,《お熱いのがお好き》ではジョージ・ラフトを,《情婦》(1958)ではマルレーネ・ディートリヒを,といったぐあいに往年の大スターを自作に起用しているのは,ハリウッドへの愛着のあかしであるともいわれている。
執筆者:柏倉 昌美
アメリカの劇作家,小説家。戯曲では,田舎町の住民の日常生活,結婚,死を描いた《わが町》(1938初演)が最も有名。これは舞台監督と称する人物が観客に直接語りかけて事件の時や場所を自由に指定し,人物のしぐさによって小道具の存在を示すなど,リアリズムの手法を脱したところに特徴がある。ほかには,人類が一連の危機をからくも逃れてきた経過を描いた《危機一髪》(1942)や,ミュージカル《ハロー,ドーリー!》(1964)の原作となった喜劇《結婚仲介者》(1954),一幕劇多数がある。小説には,18世紀ペルーを舞台に人間の運命が天の摂理によって支配される様を描いた《サン・ルイス・レイ橋》(1927),ジュリアス・シーザーの最後の数ヵ月をたどった《3月15日》(1948),人間性のあり方を掘り下げた《第8日》(1967),《シオフィラス・ノース》(1973)などがある。ワイルダーの文学は一見平易だが,奥に神秘性を隠しているのが特色である。
執筆者:喜志 哲雄
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…ドイツでサイレント時代から喜劇を撮り続けてきたルビッチは,1923年にアメリカへ移った。得意のジャンルは洗練された艶笑譚だが,ルビッチの後継者ビリー・ワイルダーは,艶笑味よりも,《アパートの鍵貸します》(1960)以降の,人情喜劇に本領を発揮した。プレストン・スタージェスは,日本公開は《結婚五年目》(1942),《殺人幻想曲》(1948)の2本のみだが,しんらつな喜劇作家として定評がある。…
…ハリウッドの内幕を描いたビリー・ワイルダー監督による1950年製作のアメリカ映画。《熱砂の秘密》(1943),《深夜の告白》(1944),《失われた週末》(1945)等々に次ぐワイルダーとチャールズ・ブラケット(1892‐1969)の名コンビが,2年来あたためていたシナリオ《豆の缶詰》に〈タイム・ライフ〉の記者であり映画批評家だったD・M・マーシュマン・ジュニアのアイデアをとり入れ,3人で共同執筆(アカデミー原作ストーリー賞および脚本賞受賞)。…
…舞台の俳優,演出家,プロデューサーから,1925年,アメリカ映画のドイツ語版の字幕制作者としてウーファ社に入り,助監督,編集者,脚本家を経て,29年,記録映画の手法による実験的な長編《日曜日の人々》をエドガー・ウルマー(1904‐72)と共同監督。脚本に協力したビリー・ワイルダー,撮影に協力したオイゲン・シュフタン(1893‐1977)とフレッド・ジンネマンの映画界における出発点となった作品でもある。その後,もっぱら〈サスペンス・スリラー〉をつくるが,ユダヤ人であるために《激情の嵐》(1932)が不健全であるとゲッベルスに弾劾され,ナチスが政権を握った33年,フリッツ・ラングなどのユダヤ人芸術家と同じようにパリへ逃れ,《フロウ氏の犯罪》(1935)など数本のフランス映画を撮った。…
…さらにヨーロッパからハリウッドへ亡命あるいは移住してきた若い監督たちが,そのみずみずしいヨーロッパ感覚で,それまでアメリカ映画にはなかったまったく異質の心理的スリラーをつくって大きな刺激を与えたこともあった。オットー・プレミンジャー監督の《ローラ殺人事件》(1944),フリッツ・ラング監督の《飾窓の女》(1944),ビリー・ワイルダー監督の《深夜の告白》(1945),ロバート・シオドマク監督の《らせん階段》(1945)等々がそれである。 いわゆる〈セミ・ドキュメンタリー〉の手法を用いたスリラー映画も流行し,FBIの記録にもとづく《Gメン対間諜》(1945),実際の殺人事件を描いた《影なき殺人》(1947),集団脱獄事件を描いた《真昼の暴動》(1947),殺人犯の追跡を描いた《裸の町》(1948),FBIの記録による《情無用の街》(1948)などがつくられ,ルイ・ド・ロシュモントLouis de Rochemont(1899‐1978)のセミ・ドキュメンタリー・スタイルのニュース映画《ザ・マーチ・オブ・タイム》(1935‐51)に示唆されたといわれるこれらの映画の傾向は〈ニュー・リアリズム〉ともよばれた。…
… 1945年にマルセル・デュアメル監修でパリのガリマール社から発売された有名な犯罪推理小説叢書〈セリ・ノワール(暗黒叢書)〉にあやかって,〈ノワール(暗黒)〉の形容がアメリカの犯罪スリラー映画に対するオマージュとして使われるようになった。具体的には,映画研究誌《ラ・ルビュ・デュ・シネマLa Revue du Cinéma》(第2号,1946年11月号)にジャン・ピエール・シャルティエという批評家が,ジェームズ・M.ケーンの小説《殺人保険》の映画化であるビリー・ワイルダー監督の《深夜の告白》(1944)と同じビリー・ワイルダー監督のアルコール中毒患者を描いた《失われた週末》(1945)およびレーモンド・チャンドラーの小説《さらば愛しき女よ》の映画化であるエドワード・ドミトリク監督の《欲望の果て》(1944)をめぐって,〈アメリカ人もまたノワールの映画(フィルム)をつくる〉という批評を書き,それが〈フィルム・ノワール〉の語源とされている。このフランス語の呼称がそのままアメリカでも使われるようになって今日に至っている。…
※「ワイルダー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...
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