一条能保(読み)いちじょうよしやす

精選版 日本国語大辞典 「一条能保」の意味・読み・例文・類語

いちじょう‐よしやす【一条能保】

鎌倉初期の公家。藤原通重の子。従二位権中納言。源頼朝と親しく、九条兼実とともに、京都における親幕派の中心人物。後に対立する源通親に追われた。法名保蓮。久安三~建久八年(一一四七‐九七

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朝日日本歴史人物事典 「一条能保」の解説

一条能保

没年:建久8.10.13(1197.11.23)
生年:久安3(1147)
平安末・鎌倉初期の公卿。京都一条室町の邸にちなんで一条を家名としたが,五摂家のひとつとは別の藤原頼宗子孫。丹波守藤原通重と右大臣藤原公能の娘の子。前半生に特筆すべき事績はないが,当初,統子内親王(上西門院)の給により叙爵・昇位したことが注目される。他方,源頼朝も平治の乱(1159)以前に同女院に仕えており,おそらくそうした縁から,能保は頼朝の同母妹を妻としたと思われる。治承4(1180)年に頼朝が挙兵し権勢を得ると,その後援によって急速に官位が昇進,文治4(1188)年には公卿に列し,左兵衛督,権中納言,検非違使別当などを歴任,建久4(1193)年には従二位に進んだが翌年閏8月病により出家(法名保蓮)した。この間の文治1(1185)年5月,夫妻で鎌倉に下向,頼朝の歓待を受けた。翌年2月帰洛,北条時政に代わって2代目京都守護の任に就き,京都における頼朝の「耳目」の役を担った。頼朝の斡旋により娘を後鳥羽天皇の乳母や関白九条兼実の子良経の妻に配し,さらに西園寺公経を婿とするなど,上流・有力貴族と姻戚関係を結ぶ一方,みずからは後白河法皇,後鳥羽天皇近侍しつつ京都政界における地位を高めた。頼朝の娘大姫の入内工作にも関与したらしい。建久8年没したが,翌年嫡子高能も世を去り,正治1(1199)年頼朝の死を契機とする政変で,能保系の親幕派勢力は宮廷を追われた。なお久安4年生まれ,建久9年10月23日没とする説もある。<参考文献>杉橋隆夫「鎌倉初期の公武関係」(『史林』54巻6号),上横手雅敬『鎌倉時代政治史研究』

(杉橋隆夫)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「一条能保」の意味・わかりやすい解説

一条能保
いちじょうよしやす

[生]久安3(1147)
[没]建久8(1197).10.13.
鎌倉時代初期の公卿。丹波守藤原通重の子。母は右大臣藤原公能の娘。京都一条に居宅があったので,一条と称した。仁平3 (1153) 年従五位下になってから,保元2 (57) 年丹波守,仁安2 (67) 年大宮権亮を経て,寿永3 (84) 年3月左馬頭,次いで讃岐守。この間,義兄源頼朝 (能保の妻は頼朝の妹) が挙兵して鎌倉に拠り,能保は元暦2 (85) 年5月妻とともに鎌倉に下った。頼朝の勢力が発展して,京都の朝廷と連絡がとれるようになると,頼朝は鎌倉にとどまり,初め義経,次いで北条時政が京都にあって頼朝の意向を代表したが,文治2 (86) 年2月,能保は時政に代って京都守護となり,帰京した。能保は,潜伏中の義経を京畿から陸奥に走らせ,この年頼朝の推挙によって右兵衛督に任じられ,同4年従三位,翌年参議となった。建久1 (90) 年伊予権守,次いで左兵衛督となり,翌年頼朝の斡旋によって,娘を摂政九条兼実の嫡男良経の室として九条家と緊密な関係を結び,この年検非違使庁別当,次いで権中納言となった。同4年従二位に進み,幕府と九条家とを背景に京都に威をふるったが,同5年病により出家し,法名を法蓮といった。その後,同7年の政変以後兼実派の勢力が衰え,能保は翌年死去。嗣子高能も早世し,幕府は朝廷における耳目を失った。

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百科事典マイペディア 「一条能保」の意味・わかりやすい解説

一条能保【いちじょうよしやす】

鎌倉初期の公卿(くぎょう)。姓は住所(京都一条)によるもので,五摂家(ごせっけ)中の一条家ではない。北家藤原氏頼宗(よりむね)の流。父は従四位下丹波守通重(みちしげ),母は右大臣公能(きんよし)の女。妻が源頼朝の妹であり,頼朝の後援により昇進し,1193年従二位権中納言となり,源義経の没落後は京都守護となった。妻は後鳥羽(ごとば)天皇の乳母(めのと),女は九条良経(よしつね)に嫁ぎ道家を生んだ。

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改訂新版 世界大百科事典 「一条能保」の意味・わかりやすい解説

一条能保 (いちじょうよしやす)
生没年:1147-97(久安3-建久8)

鎌倉初期の公卿。姓は住所(京都一条)によるもので,五摂家中の一条家ではない。北家藤原氏頼宗の流。父は従四位下丹波守通重,母は右大臣公能の女。妻が源頼朝の妹であった関係から頼朝の後援で昇進し,1193年(建久4)従二位権中納言となり,義経没落後は京都守護として洛中警固,院との折衝にあたった。妻は後鳥羽天皇の乳母,女は九条良経に嫁ぎ道家を生んだ。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「一条能保」の意味・わかりやすい解説

一条能保
いちじょうよしやす
(1147―1197)

鎌倉前期の公卿(くぎょう)。権中納言(ごんちゅうなごん)、従(じゅ)二位。源頼朝(よりとも)の妹の夫。その関係により、朝幕間の折衝の窓口として活躍した。1185年(文治1)5月、源義経(よしつね)とともに平宗盛(むねもり)父子を護送して鎌倉に下向したが、翌年2月に帰洛(きらく)、北条時政(ときまさ)にかわって京都守護の任についた。91年(建久2)2月には検非違使別当(けびいしべっとう)となり、名実ともに洛中警察権を掌握した。また同年6月摂政(せっしょう)九条兼実(かねざね)の嫡子良経(よしつね)を女婿(じょせい)に迎え、権勢を振るった。94年閏(うるう)8月病のため出家し保蓮と称した。建久(けんきゅう)8年10月13日没(建久9年10月23日没とする説もある)。

[近藤成一]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「一条能保」の解説

一条能保 いちじょう-よしやす

1147-1197 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
久安3年生まれ。一条高能・信能(のぶよし)・実雅(さねまさ)の父。摂関家の一条家とは別の藤原頼宗(よりむね)流で,京都一条に邸宅があったので一条を称した。源頼朝の同母妹を妻とし,頼朝の命で文治(ぶんじ)2年京都守護に就任。4年従三位となり,建久2年検非違使(けびいし)別当,権(ごんの)中納言にすすむ。従二位。九条良経(よしつね)や西園寺公経(きんつね)を娘婿とし,親幕派公家(くげ)として朝廷内に勢力を有した。建久8年10月13日死去。51歳。法名は保蓮。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「一条能保」の解説

一条能保
いちじょうよしやす

1147~97.10.13

鎌倉前期の公卿。従四位下丹波守藤原通重の長男。五摂家の一条家とは別流。妻が源頼朝の同母妹であった関係から,頼朝と親密であった。1186年(文治2)2月に京都守護に任じられ,洛中警護,後白河上皇との交渉にあたる。その頃から,頼朝の推挙で後鳥羽天皇の乳父(めのと)として天皇に近侍し,未婚の娘も天皇の乳母となった。頼朝の後楯によって従二位・権中納言に昇る。94年(建久5)病により出家。法名は保蓮。

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