三井物産(株)(読み)みついぶっさん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「三井物産(株)」の意味・わかりやすい解説

三井物産(株)
みついぶっさん

総合商社草分け。1876年(明治9)7月、三井家の貿易事業部門として設立され、井上馨(かおる)の先収会社から人材・事業を引き継ぎ、11月三井組国産方を合併。設立時の社主三井養之助(1856―1921)ほか、総括益田孝(ますだたかし)。資本金はなく、陸軍省の輸入業務、官営三池(みいけ)炭の輸出、政府米の輸出などで基礎を固めた。国内支店網に加え1877年以後上海(シャンハイ)支店など海外支店を設置。1888年、三池鉱山の払下げを受け、日本の企業勃興(ぼっこう)で綿花・機械の輸入も増え、御用商人的性格を脱して発展期を迎えた。

 1893年7月、出資金100万円の合名会社に改組、1907年(明治40)10月、資本金2000万円の株式会社に再改組する。この間、紡績業をはじめ日本の軽工業の発展と重工業の開始によって取扱商品は多様化し、三国間貿易に着手、海運業にも進出するなど、総合商社体制を確立した。豊田(とよだ)式織機、台湾製糖、上海紡績など関連事業も発展した。第一次世界大戦中には飛躍的発展を示し、造船業へ進出、戦後にかけて大正海上、東洋棉花(めんか)、東洋レーヨンなどを設立した。慢性不況下でも他社に比べて安定的な高収益をあげ、重化学工業の直系子会社を増し、さらに中国大陸における資源獲得のための投資、日本製粉など既存会社への資本参加も活発化した。一方、日中戦争下で三菱(みつびし)商事が台頭し、物産の独占的な地位は揺らいだ。1940年(昭和15)8月、親会社である三井合名を吸収し、44年3月には三井本社と改称、商事部門は三井物産として分離された。さらに第二次世界大戦後、占領政策のなかで、在外資産喪失戦時補償の打ち切りで打撃を受け、1947年(昭和22)7月GHQ(連合国最高司令部)の解散指令により11月に解散した。

 旧三井物産社員の設立した商社は220社を超え、うち65社が統廃合されて1959年(昭和34)2月、第一物産を中心に大合同が成立した。再建三井物産の資本金59億円余、社長は新関八洲太郎(にいぜきやすたろう)(1897―1978)。1965年、木下産商の営業権を譲り受け鉄鋼部門を拡張。高度成長期に総合商社化し、プラント輸出や海外工事などプロジェクトの受注、資源の開発輸入で積極的な役割を果たした。戦前に比べると国内商売の割合が高く、三国間貿易は極端に少ない。三菱商事に次ぐ総合商社2位の地位を占めていたが、IJPC(イラン・ジャパン石油化学)の失敗などで近年やや不振。三井石油化学工業(現三井化学)、日本ユニシスなど多くの会社を系列企業グループとともに設立、三井グループの中核の一つとなっている。事業所国内12、海外148、資本金3375億円(2008)、売上高約12兆2912億円(2008)。

[田付茉莉子]

『日本経営史研究所編『挑戦と創造――三井物産の100年のあゆみ』(1976・三井物産)』

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