三宝院(読み)サンボウイン

デジタル大辞泉 「三宝院」の意味・読み・例文・類語

さんぼう‐いん〔‐ヰン〕【三宝院】

京都市伏見区にある真言宗醍醐だいご派の総本山醍醐寺の本坊。永久3年(1115)醍醐寺第7世勝覚の創建。豊臣秀吉により再興。江戸時代には、修験道当山派の本山。桃山時代の典型的な書院造りの建物や庭園がある。表書院と唐門は国宝。

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精選版 日本国語大辞典 「三宝院」の意味・読み・例文・類語

さんぼう‐いん ‥ヰン【三宝院】

京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派の総本山、醍醐寺の主院。醍醐五門跡の一つ。永久三年(一一一五)醍醐寺一四世勝覚が創建。江戸時代には修験道の根本道場となった。現在の堂宇は慶長年間(一五九六‐一六一五)豊臣秀吉が再建したもので、表書院、唐門は国宝。庭園は国特別史跡・特別名勝大本山

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改訂新版 世界大百科事典 「三宝院」の意味・わかりやすい解説

三宝院 (さんぼういん)

京都市伏見区にある醍醐寺の子院。修験道当山派の本山でもあり,室町時代以降醍醐寺全山の中心として重んぜられた。1115年(永久3)左大臣源俊房の子で醍醐寺第14代座主となった勝覚が開いた。はじめは灌頂院といったが,定賢,義範,範俊3師の法流を一身に集めた勝覚が,醍醐寺の法門の興隆を念じ,三法にちなんで三宝院と改めた。創建当時は,下醍醐寺西大門内側の無量光院に対する一画を占め,本堂,礼堂,寝殿,護摩堂以下諸堂があり,43年(康治2)には鳥羽上皇の御願所となった。しかし,鎌倉時代に入ってたびたび火災にあい,第7世成賢,第11世憲深らが復興への努力を重ね,第21世賢俊は,南北朝内乱の中で足利尊氏の帰依を受けて政治的にも力をもち,三宝院を盛んにした。さらに第25世満済は,足利義満の猶子となり,1396年(応永3)には醍醐寺座主に任ぜられ,准三后に列せられた。以後三宝院は,多数の子院を圧し,歴代の院主は必ず醍醐寺座主をつとめることになった。その後応仁の乱で醍醐寺は荒廃し,三宝院も焼失した。安土桃山時代に出た義演は,醍醐寺の金剛輪院を復興し,義演に帰依した豊臣秀吉は,たびたび醍醐寺に赴いたが,1598年(慶長3)にはそこで盛大な観桜の宴を催した。その際数々の殿舎が改修整備されたので,義演は金剛輪院の名を由緒ある三宝院に改め,第32世の三宝院主となった。醍醐寺は早くから修験の拠点となっていたが,室町時代に入って天台宗系の本山派に対抗する真言宗系修験の中心となった。三宝院は,真言宗系の山伏の組織を従えていたが,1613年に徳川幕府から修験道当山派の本山に定められて以来,本山派の聖護院とともに修験道を二分するようになった。現在,真言宗醍醐派総本山醍醐寺の宗務寺務所は三宝院に置かれ,醍醐派管長,醍醐寺座主は三宝院門跡を兼ねている。
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唐門(国宝)は勅使門ともいい,3間1戸の平(ひら)唐門,檜皮(ひわだ)葺きで,構造は簡素であるが,扉の表裏に五七桐,両わきに菊を浮彫にしており,その並外れた大きさは豪快な桃山時代の気風をよく表現している。三宝院殿堂は7棟(1598)が重要文化財で,中心建物の表書院(国宝)は入母屋造の長大な屋根をもつ外観で,西端に切妻造の泉殿を突出させ,西面に車寄せ唐破風を付ける点は寝殿造の伝統を伝える。内部は床,棚をもつ上段15畳および18畳,27畳の3室からなる桃山時代書院造の代表例で,上段の間の《柳草花図》をはじめとする障壁画(重要文化財)を配する。また宸殿上座10畳の違棚は俗に〈醍醐棚〉と呼ばれ,桂離宮や修学院のものとともに天下の三棚の一つとして著名である。庭園は,1598年の醍醐の花見直後から秀吉の意を受けて作庭に着手されたもので,1624年(寛永1)まで工事が続けられたが,その間の経緯が《義演准后日記》に詳しく記されている。表書院南の池庭には,聚楽第から運ばれて守護石となった〈藤戸石〉をはじめ,京の内外から集められた名石によって豪壮な石組みが構成され,築庭当時の形態をよく残している。寺宝としては《訶梨帝母像》(鎌倉時代,国宝),宗達筆《舞楽図》《扇面散図》(ともに重要文化財)などの絵画,国宝に指定されている弘法大師筆〈大日経開題〉,醍醐寺を開山した理源大師筆〈処分状〉(907)などの書がある。
醍醐寺
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日本歴史地名大系 「三宝院」の解説

三宝院
さんぼういん

[現在地名]笠岡市篠坂 広東

篠坂しのさかの東部にある。篠坂山と号し、高野山真言宗、本尊は聖観音・愛染明王。昭和一四年(一九三九)だい泉福せんぷく寺密寺教蔵きようぞう院・円蔵えんぞう坊亀福寺常行じようぎよう院・星蔵せいぞう坊観音院普門ふもん寺の三ヵ寺が合併したもので、三寺ともかつては泉福寺一二坊の一つに数えられていた。泉福寺は鎌倉以前の創建ともいわれ(陶山村誌)広東ひろとう地区を中心に一山一二坊を誇ったと伝えるが、近世期にはすでに前出三坊のほかは廃寺となり、「備中誌」は三坊以外に善知坊・山手坊・慶蔵坊・法泉坊・北之坊・中之坊・東輪坊・中光坊・花三坊の名をあげる。

三宝院
さんぽういん

[現在地名]高野町高野山

往生院おうじよういん谷の北側、成福じようふく院の東にある。別格本山。本尊北面大師は木造弘法大師坐像として県指定文化財。寺伝によれば、もと空海の母阿刀氏の居所として山下の慈尊じそん(現和歌山県九度山町)境内にあったが、その死後山上に移したという。鎌倉時代の信堅院号帳や文明五年(一四七三)の諸院家帳には和泉阿闍梨源空建立とされる。江戸時代、学侶方に属し、境内には本堂・護摩堂などがあり、院領六五石、室下二、末寺は一六あった(続風土記)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三宝院」の意味・わかりやすい解説

三宝院
さんぼういん

和歌山県高野町にある高野山真言宗の別格本山。本尊は木造北面大師。空海の母親が慈尊院 (→女人高野 ) 内にこの寺を建てたのが起源とされ,旧暦3月 21日の正御影供で供えられる「爪剥 (つまむき) の甘酒」は空海の母親がみずからの爪で栗や米の皮をむいて酒をつくり空海に送ったという伝承に由来するが,別の記録には法然の建立とある。国宝に指定されている奈良時代の『不空羂索神変真言経』 (18巻) ほか,平安時代後期の『文鏡秘府論』 (6帖) ,鎌倉時代の『五行大義巻第五』 (1巻) ,『白氏文書巻三残巻』 (1巻) などの重要文化財を伝える。

三宝院
さんぼういん

京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山醍醐寺の子院。永久3 (1115) 年醍醐寺 14世勝覚によって開創され,鳥羽天皇の御願寺となった。たびたび焼失したり,移築されたりしたが,豊臣秀吉が殿堂を修理し再興した。建築,庭園とも桃山時代を代表するもので,唐門,表書院は国宝に指定され,俵屋宗達の『舞楽図』,義演の『義演准后日記』などを蔵する。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三宝院」の解説

三宝院
さんぼういん

京都市伏見区にある醍醐寺の子院で,五門跡の一つ。修験道当山派の本山。1115年(永久3)勝覚(しょうかく)の開創。はじめ灌頂(かんじょう)院といい,のち改めた。後鳥羽上皇・足利尊氏ら有力者の帰依を得て興隆。足利義満の猶子となった25世の満済(まんさい)以降は院主が醍醐寺座主を務めた。応仁・文明の乱で一時衰えたが,豊臣秀吉の庇護を得た義演により復興される。このとき建立された唐門・表書院は国宝。国宝の「訶梨帝母(かりていも)(鬼子母神)像」などを所蔵。秀吉の醍醐の花見を設営した庭園は国特別史跡・国特別名勝。

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百科事典マイペディア 「三宝院」の意味・わかりやすい解説

三宝院【さんぼういん】

醍醐寺(だいごじ)

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旺文社日本史事典 三訂版 「三宝院」の解説

三宝院
さんぼういん

京都市伏見区にある醍醐 (だいご) 寺の主院。

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世界大百科事典(旧版)内の三宝院の言及

【醍醐寺】より

…平安時代末には白河上皇の帰依を受けて勝覚,勝賢らが活動し,鎌倉時代の初めには重源が宋版一切経を施入するなど,仏教の新しい動きも受けいれ,深賢,親快らの学僧を出した。大寺院となった上下の醍醐寺には,三宝院,報恩院をはじめ多数の塔頭(たつちゆう)があったが,室町時代初頭に三宝院門跡で座主となった賢俊,満済は,足利氏の厚い帰依を受けて寺勢の発展に尽くした。その後,応仁の乱の兵火で伽藍のほとんどを焼失,寺領も失ったが,近世初頭の座主として名高い義演が豊臣秀吉の援助によって三宝院を再興し,荒廃していた境内を復興した。…

【醍醐の花見】より

…1598年(慶長3)3月15日,京都の醍醐寺三宝院で豊臣秀吉が催した花見の宴。秀吉は吉野など各地に花を見,三宝院にも何度か足を運んでいるが,このときの花見はとくに豪華で,この年8月に秀吉が病死したため,その最後の豪遊として有名である。…

【当山派】より

…一﨟の大宿は舒明天皇の勅印,二﨟の二宿は役行者(えんのぎようじや)の霊印というものを相伝し,入峰の際峰中小笹において官職補任状の実名の下に押してこれを許した。 慶長年中(1596‐1615),本山派との間に袈裟争いが起きたのを機に,当山先達衆は派祖聖宝の開創になる醍醐寺三宝院の義演准后にその折衝方を依頼し,棟梁になることを願った。1613年(慶長18)徳川家康は,修験道は筋目によって入峰し,諸役など当山本山互いに混乱あってはならないと裁断したが,当山方に対しては三宝院を通じて発令されている。…

※「三宝院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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