精選版 日本国語大辞典 「三条天皇」の意味・読み・例文・類語
さんじょう‐てんのう サンデウテンワウ【三条天皇】
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第67代に数えられる天皇。在位1011-16年。冷泉天皇第2皇子,母は女御超子(藤原兼家の女)。諱(いみな)は居貞。986年(寛和2)7月従弟の一条天皇即位に際し元服,立太子。1011年(寛弘8)危篤の一条天皇の譲位をうけた。天皇は執政の左大臣道長と不和で,とくに即位の翌年女御姸子(けんし)(道長の女)の立后に引き続き,女御娍子(じようし)(藤原済時の女)を道長の意に反して立后させ,道長はその儀式を妨害するなどの事があり,対立を深めた。道長は天皇の眼病が重くなり政務にさしつかえるようになると譲位を迫り,天皇はそれに対し道長を摂政に准じて政務をみさせ,位に止まろうとしたが,度重なる内裏の焼失等もあって失意のうちに,娍子の生んだ敦明(あつあきら)親王の立太子を条件に,16年(長和5)正月一条天皇皇子で道長女の彰子の生んだ東宮敦成親王(後一条天皇)に譲位。翌年5月没した。おもな皇子女に敦明・敦儀・敦平・師明各親王,当子・禔子・禎子(後三条母)各内親王などがいる。陵は北山陵(京都市北区)。
執筆者:黒板 伸夫
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第67代天皇(在位1011~16)。冷泉(れいぜい)天皇第2皇子。母は藤原兼家(かねいえ)の女(むすめ)超子(ちょうし)。諱(いみな)は居貞。986年(寛和2)立太子、1011年(寛弘8)即位したが、このとき超子はすでに亡く、有力な後見を欠き、在位5年の間、絶えず政権を掌握していた藤原道長(みちなが)の専横に悩まされた。天皇が藤原済時(なりとき)の女子(かいし)を皇后にたてようとしたとき、道長は他の公卿(くぎょう)とともに参内せず、立后の儀を妨害し、また自分の外孫である敦成(あつひら)親王の1日も早い即位を望み、三条天皇に譲位を迫った。天皇は皇女禎子(ていし)内親王を道長の息頼通(よりみち)に降嫁させることを図り、道長の意を和らげようとしたが、眼疾に脚気(かっけ)が加わり、退位のやむなきに至った。陵墓は京都北山陵。
[森田 悌]
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(朧谷寿)
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976.1.3~1017.5.9
在位1011.6.13~16.1.29
冷泉天皇の第2皇子。名は居貞(おきさだ)。母は藤原兼家の女超子(ちょうし)。986年(寛和2)花山(かざん)天皇の出家事件により,一条天皇のもとで皇太子に立つ。1011年(寛弘8)践祚したが,在位中は皇位継承問題と眼病に悩んだ。藤原道長に退位を迫られ,抗争ののち,長子敦明(あつあきら)の立太子を条件に後一条天皇(一条皇子)に譲位したが,敦明の即位を見届けることなく死去した。天皇の死後,敦明は皇太子を辞退することになる。
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